優しい手(2)
「兄さん。あの、ね。シルフィード殿下の事……私に出来ることがあったら、何でも言ってね。詳しくは……分からないですけれど、きっと大変なんですよね。ヘリエルとセクレチアの事はちゃんと責任持ちますから」
マゴニアの護国卿である十二月卿と知り合いになったのだと、セラストリーナは続けた。マゴニア王国は一月卿から十二月卿まで十二の月の貴族と原住民たるテンペスタリ家、王家で成り立っている。十二月卿はマゴニアで一番の精鋭部隊を所有していて、シルフィードとも親交が深かったという。いつの間にかそんな心配までさせていたのか。
「私、ね。出来たら、もう一度、シルフィード殿下に会いたいな」
薄闇の廊下。そう呟いて儚く微笑んだセラストリーナは、一礼をして綺麗な金髪を翻しながらユウゼンの横を通り過ぎていった。
同じ王族の立場にあり、社交の場に出ることを恐れていた彼女にとって、シルフィードは特別な友人だったのかもしれない。
「……だから、……俺は……っ……」
地面がぐにゃりと曲がるような、そんな感覚。精一杯手を差し伸べようとする人がたくさんいる。誰かが、誰かに。その手を掴めば、一人で足掻くより転がり落ちることなく誰かを救える。誰かに負担をかけながら。
手を取る覚悟と勇気さえあればの遠い仮定だった。
ここに、居たくない。これ以上一秒たりともこの場所に居たくない。
急にそんな卑屈すぎる衝動に襲われてユウゼンは歩き出した。初めは壁伝いにゆっくりと。それから徐々に早足になって。それでも耐えられなくなって、駆け足になり、少しも進んでいない錯覚を起こして前のめりに息が出来なくなるほど走った。何を期待してるんだ。今さら。やめろ。やめてくれ。誰も自分という存在を知覚するな。嫌で、嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で動けなくて立ち止まったままずっとそこに留まったまま決してそこから動けないように自分で自分を固定して。本当に、諦めて、何がしたかったんだ。これから、何かが出来るのか。その資格があるのか。もう、手遅れじゃないのか。誰か、誰か教えてくれよ……!
「ストォオォーーップ!!」
「ばっっ!!」
城の玄関ホールを抜ける瞬間、だった。
目の前に仁王立ちで両手を広げた小柄な人影が立ちふさがって、ユウゼンは踏みとどまろうと強く足に体重をかけて、勢いを殺しきれず蹈鞴を踏んだ。それで、結果的に手を広げたその人の胸に飛び込む形になってしまった。柔らかい女性の体だった。
「わっ……とぉ」
「ぷ、ぁ、すいませ──」
「謝るな!」
「え」
この声。
それに、顔は見えなかったが、異国の果実のような甘い香りをよく知っている。どうしてこの人がここにいるのだろうと思った。
自分を抱きしめてぽんぽんと背中を叩く感触に呆然としながら、ユウゼンは乱れた呼吸を何度もした。優しい手。馬鹿みたいに。
さっぱりとした口調とは裏腹に慈愛の篭った声が身体に直接沁みこんだ。
「ユウちゃん。何か、ちょっとだけ久しぶりだねえ。大丈夫? 大丈夫じゃないか? うん、ちゃんと、呼吸してる……よしよし」
「あ、ねうえ、」
「何も言うな。ああ、大きくなったなあ……もう、私じゃ逃げ場所にはならないかな?」
「……ぅ……」
無理だった。このタイミング。優しさなど与えられる資格がない。駄目なのに。本当に、我慢する暇さえなかった。感情の波に押しつぶされ、優しさに反応した心がどくんと熱く痛みを訴えて、喉が鳴って、目の前の細い肩を片手で掴んだまま、抱きしめられたまま、頬を流れる熱い感触を押し止めようとしていただけだった。
ラティメリアは耳の後ろで優しく笑った。光が灯り始めるシャンデリアと、立ち尽くす衛兵。静かな夜が幾千の砂の星を零し、夜風が包み込むように頬の熱を撫でた。心臓の音、聞こえそうだね、と彼女は囁いた。嗚咽が収まるまで、彼女はそんなことを何度も呟いた。
「悲しいから、泣きたくなる。そうなんだよぅ。ユウちゃん、我慢しちゃダメだ。そんな風に何かでごまかして、そんな気持ちを押しつぶして、いつか消してしまって、そうしたら、辛いよ。悲しいよ。オズのカカシは美しい鳥に恋して、でもそこで物語は終わってしまって。朝になっても太陽は昇らなくて。雨は上がらなくて。月は形を変えなくて。そんな感じ。違う?」
「……会い、たい……だけ……」
「会えばいいよ。会いに行けばいい」
「……こわいんだ……かわるのも、拒まれるのも、……それだけじゃなく、ても……」
「協力するよ。協力するって言ったわたしに二言はないの」
前にも言ったねえ、とラティメリアは抱擁をとき、ユウゼンの頬を両手で包み込んで目を覗きこんで微笑んだ。
「私はね、ユウちゃんが望んだことは全部ユウちゃんの思い通りになると思うよ。そうなりそうになかったら、私が捻じ曲げてあげる」
「な……んですか、それ……」
滅茶苦茶で子どものようで勘違いしやすくて考える前に行動したりして、それでも昔からいつでも味方になってくれる人だった。世界が自分に従うなんて、夢にもみない笑い話だ。そんなこと、言ってくれなくても、いいよ。
「ありがとう……姉上。俺は、大丈夫だよ。全然、大丈夫だ……」
目の前の頭一つ分背の低いところにあるぬばたまの黒髪に軽いキスを落とした。
ラティメリアは照れくさそうに笑い、それから少しだけ泣き出しそうな表情をして、とんと元気付けるようにユウゼンの肩を押した。
「どんな選択をしても応援してあげるから、後悔しないように望みなさい」
閉じこもろうとした殻がぽろぽろと崩されて、心の中に湿った風が吹き込む。葛藤を打ち破ってそこから薄い血が流れる。
喪失感、そんな痛みと切ないような開放感に包まれて、ユウゼンは城外へと踏み出していた。