優しい手(1)
二日。
正直、あまりに忙しすぎてユウゼンは四十八時間も経過したような気がしなかった。
アツィルトから戻って、西方の森の伯爵を見送って、無断で抜け出したツケが全部圧し掛かってきた。モリスは何も言わず、何も聞かず、その代わり黙ってスケジュールを用意した。式典、執務、会議、寝る暇もなく、それらをこなし終え、ユウゼンはその場で倒れて眠ってしまおうかと出来もしないことを考えた。
出来ない。
出来るはず、ない。
タルタ二世の死で急遽帰還したことにされたマゴニア王女。ヘリエルとセクレチアは帰る術も持たず、今にも叫びだしそうな顔でユウゼンの話を聞いた。どうにかしてみせると、強引に約束して返事は聞かなかった。だから、一旦仕事をこなし終えたその足で、ユウゼンはカラシウスの元を訪れていた。
「カラシウス……折り入って頼みがある」
夕方、アレクサンドリア城の廊下で、兄弟は向き合った。窓から差し込む夕日は、神秘的とさえ言われるカラシウス・アルティベリス・アレクサンドリアの端正な容姿を陰影で彩っている。
カラシウスは考えを読ませない無表情で艶やかな黒髪をかきあげ、首を傾げた。
「頼み、ねえ。それはシルフィード殿下の事?」
他人の口からその名が出るだけで、ユウゼンは動悸がした。シルフィの壊れたような泣き声が血の色と闇に混じり、炎の幻影に焼き尽くされる。どんな事情があっても、あのまま冷たい闇の中にいるのなら、助け出さなければいけなかった。孤独な彼女は美しくても決して触れられない。オズで過ごしていたときのように、元気に笑い、喜んで、そして何かを望んでほしかった。
圧倒的な情報収集能力を有し、全部見通しているような弟の黒い瞳を、意を決して見返し、頷く。
「そうだよ。シルフィ……シルフィード殿下に、会えるかどうか……いや、今どこにいるのか分かるなら教え──」
「知ってるけど、教えない」
日が沈む。空が闇に飲まれる。
早くしないと、今日が終わってしまう。いやだ。なんでだ。彼女は、泣き止んだ?
「なん、なんでだよっ? 何が望みなんだ? 何でもくれてやる、教えろ! 早く、早くしないと」
「もう止めたら?」
掴みかかろうとしたユウゼンを軽くあしらってカラシウスは冷たくさえ聞こえる声ではっきりと言った。あまりに醒めた声に、思考が凍りついた。美しい第二皇子は言い含めるように、続けた。
「兄さんは、シルフィード殿下を伴侶にする覚悟がないんだよね? それなのに、ただ助けたいんだろう?」
「かくご、俺は────」
「納得していない、報われないのにどこまでも同情してさ、そういうのもう止めたら? 損ばかりしているオズのカカシなんて、誰も助けられない」
これが心配というものなのかな、とカラシウスは肩をすくめた。
「僕は兄さんがこの国で誰よりも優秀だと思っている。馬鹿で無能な振りして気安く拒まず誰でも受け入れて、身分さえ関係なく受け入れられて。兄さんの仕事は危険を遠ざけて結果的に一番平和な方向に進む。もちろん、綺麗な方法じゃなくてもね。僕は、それがオズの国を守るカカシに見えた。だから、シルフィード殿下が兄さんにだけ近づいたとき、この人は本当に大切なものが見えているのかなと感心したんだよ。認めてもいいかって。でも、兄さんは彼女を好きでありながら、彼女を拒否していたよね」
拒否? シルフィが、ではなく、自分が?
カラシウスが断言し、ユウゼンは耳を疑った。
「……拒否、なんてするわけ」
「シルフィード殿下は最初から兄さんにはっきりとアプローチしていたじゃないか。それからもずっと。好きだって言われたんじゃないの? なのに、なんで受け入れなかった? カカシであり続けるから、余計なことを考えたんだろう」
好きですよ。私でよければ────
──好きだ。でも。将来の皇帝。オズを守るべき人。自分の定められた運命。たくさんの敵を作り苦労を負うだろう。オズに援助してくれる親類のないシルフィードが后となったらもっとひどい苦痛を抱えることになるだろう。きっと幸せには、させてあげられない。それならば──
「ち、がう。違う。そんなこと以前にシルフィは、俺のことが好きなわけじゃなかった……ただ、国のために動いていただけだ。そう言われたんだよ」
そうだったじゃないか。人が好きかどうかって、どうやったらわかるんですか。あれは、好意を否定する言葉にほかならない。
カラシウスは呆れたようなため息を吐いて、背筋がぴりとするような柔らかくも鋭い視線を向けてきた。こいつは、こんな表情もするのか。人を捉えて魅了して同時に恐怖させ、従わせずにはいられない、そんな表情を。
「自分の事はわからない? そんなはずはないけどね。例えば万が一それが本当でも、なぜ心まで奪って自分のものにするって思えない? そこまで諦めて何がしたいの?」
世界は。
世界は、定まっていて。
でも、本当はそれが虚しくて嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で動けなくて立ち止まったままずっとそこに留まったまま決してそこから動けないように自分で自分を固定して役目を終えて倒れるまで空を眺め続けるカカシみたいに。
カラシウスは返答を待たずに続けた。
「僕は、カカシにはなれない。でもオズの目と耳と剣にはなれる。兄さんが本当に望むのなら、僕はいつでも協力する。二言はない」
ユウゼンは目を見開いて第二皇子を見返した。今言われた言葉の意味は。
「お、まえ、それ、って……それは、」
「正直、別に嫌じゃないんだよね。ま、一つの選択肢って奴だよ。考えといて」
「かんがえ、……って……!」
もう話すことはないとばかりに、一つ肩をすくめた後、カラシウスはひらひら手を振りながら廊下の向こうの暗がりへと消えていった。
ユウゼンはごつ、と廊下の壁に額を押し付け、混乱を収めようと目を閉じた。選択肢? 冗談じゃなく? それを選んだらどうなる? どうなるって、その前に覚悟。望むのか。望めるのか?
「……でも、そんな…………」
「ユウ兄さん」
「ぶぐっ」
透き通るような綺麗な声に呼びかけられて、噴いた。今さらだけどなんだろうこのタイミングの悪さ。
ユウゼンはのろのろと顔を上げ、赤い跡がついただろう額を押さえながら振り返る。そこにはシンプルな濃紺のドレスで身を包んだセラストリーナが背筋をすっと伸ばして立っていた。
あのときから、約束どおり彼女は様々な社交の場に出席するようになった。ユウゼンが思った以上にセラストリーナは努力し、人との繋がりを増やしているみたいだった。それに、彼女には今護衛としてヘリエルとセクレチアを預かってもらっている。
誰もが皆、少しずつでも変わろうとしているのかもしれない。
自分だけを取り残して。