昨日より明日より、だって−Seven colors−
わたしは人間が嫌いだ。
だから、全然、ダメかもしれない耐えられないかもしれないなんて思った。アツィルトの村が焼かれて、異形たちもソオラも殺されて、くやしくてわけが分からないまま随分みんなで馬車に揺られて、身を縮めて悲しい眠りに落ちながら、今度生まれてくるときは花や雲になりたいと少しだけ泣いた。そして、空っぽみたいな気持ちで目が覚めて始まった新しい世界は────
「昨日より明日より、だって −Seven colors−」
「ライムちゃん、伯爵が呼んでるよぉ? 行かないの〜?」
「い、いい。やだ、行かないよ」
「そぉお?」
天気のいい午前、自然がいっぱい、っていうよりもへたすると自然に埋もれてしまいそうなハルジオン伯爵の屋敷の庭で、ライムはあわててぶんぶんと首を振った。屋敷の右端にあたるここは洗濯する場所で、マーテンシーと一緒にみんなの服を洗っているところだった。まあ、マーテンシーは熱心にやっているかと思えばすぐにどこかへ行きそうになったりもするから気をつけないといけない。
今ライムに声を掛けたのはもともと屋敷にいた女中で、ネリネという若い女の人だった。少しぽっちゃりした体型で間延びした話し方をするけれど、性格はとてもさっぱりしている。だから、ライムでもなんとか返事をしたりできる。もう少しだけ、仲良くなれるかもしれない、とも思う。
でも。
でも、あの人は、なんか、……なんかやだ!
「わたしは、人間なんて、嫌いだもん……」
桶の中でじゃぶじゃぶとシャツの汚れを落としながら毒づいた。
自分の明るい緑の髪と目。傀儡だと一目でわかるから、恐かった。五体満足でいられたのは本当に幸いだったし、みんなの欠陥より不幸だなんていう気はない。ただ目立つから、自分のせいでみんなを危険な目に合わせてしまいそうで、恐かった。
それに、ライムはソオラの耳やシアン長老の不老不死のように際立った能力を得たわけではないけれど、実は人よりも感情に敏感なのだった。不安や怒り、嫌悪など、負の感情は特によくわかってしまう。だから普通の人間には、近づくなんて、本当にとんでもないことで…………と、言っているのにその矢先からこの男は。
「ライム、やあここにいたのかい! ちょっと来てごらん、きみとマーテンシーにぴったりの洋服を用意したんだよ」
「みゃっ……! な、な、なにっ?」
「もちろん私だよ? 愉快というより愉快犯な西方の森の伯爵さ! さあ行こうすぐ行こうどこまでも海越えてっ!」
「越えないよ!」
底なしの明るい声に飛び上がり、ライムは思わず怒鳴って自分の肩に気安く触りやがった男の手を払いのけた。まったく意味わかんない。この人意味わかんない!
怒りと屈辱で顔を真っ赤にして振り返った先には、今日はベージュの正装を完璧に着こなす白髪だけなんか違和感のある若々しい壮年が立っていた。一体いくつなのか、性格と姿からはちょっと推し量れそうにない人。ハルジオンの伯爵。カカシ皇子のときも思ったけれど、この国の偉い人達ってみんなこんなのばっかりでやっていけるんだろうか?
とにかく、なにはともあれ、嫌い。だめ。むり。
距離をとって威嚇すると、伯爵はたちまち眉尻を下げて悲しそうな犬みたいな顔になった。
ライムは不覚ながら怯んでしまい、ついモデストゥスと会話を続けてしまう。ああほんとに、同情心なんてろくなもんじゃない。
「海は広くて、途方もなく大きい。だからそれを越えるのが人類の夢なのだよ……?」
「し、しらないよ。見たことないし……」
「何だって!? それは大変だ! 一大事だ! すぐ行こう即出港だ大航海時代が幕開けー!!」
「え!? ちょ、なにゆってるの意味わかんないっ? 恥ずかしいからやめてよ叫ぶのっ、もう、海はいいから、何? 服がどうかしたんじゃなかったの?」
「そうそうそうそうそうそうなんだよ洋服!」
「鬱陶しい! 返事は一回!」
「めんご」
「は、反省してない……」
恥ずかしさを堪えてどこかのお母さんのようなことまで叫んだというのに、明らかに誠意が感じられなかった今。
伯爵とかいう以前にこいつはほんとに大人なのだろうか、とライムは遠い目をしたが、モデストゥスは全然意に介さず上機嫌で話を続ける。
「いい生地があったから即行で作らせたのだよ。さあさあうえるかむマーテンシーも、」
「待って触っちゃだめ!」
二人の会話など存在しないように一人熱心に布を洗っていたマーテンシーに、何気なく触れようとした彼を、二人の間に割って入るようにしてライムは止めた。上品な香水の香りがふっと感じられ、我に返りぎょっとする。驚いて尻餅をつきかけたライムを、伯爵の意外としっかりした腕が支えて。それに、それに、肩に座るみたいにひょいと抱き上げられてしまって──
「ぎゃっ! や、や、やめっ……」
「ふむ、マーテンシーは触られるのは嫌いなのかな?」
「そうだよ! いいから降ろしてよっ……!」
「ライムもかい? それにしてもどうやったらマーテンシーはついてきてくれるのだろうね」
「つ、連れてってあげるから降ろしてっ……」
「それはありがたい」
伯爵の高そうな服に皺をつけそうでいまいち暴れられなくて、ライムはわめいた。男の人に抱き上げられるなんて、幻みたいな面影しか残っていない。あれは、お父さん、だったんだろうか。少しだけ懐かしいような気がした。こんな変人なはずないしたぶん絶対気のせいだけど。
モデストゥスはライムを地面に降ろして頭を撫でながらにっこりと笑った。無邪気で、ほんとに嬉しいと思っているっていう感情がわかって、ライムはどうしたらいいのかわからなくなって少しだけ涙が出そうになる。
どうして、今さらやさしくするの?
あんなに嫌悪して蔑んで死んでしまいそうな負の感情を向けて、みんなを傷つけて殺しておいて、今さらわたしを試すみたいに、責めるみたいに笑うの?
ちがうよね。気まぐれなんだよね。わたしは騙されたりしない。
忘れたくても、忘れたりできないよ……?
ちくりちくりと痛む心の悲鳴を無視して、唇を引き結んで、伯爵の手を払いのけながらマーテンシーを振り返る。魔術実験で内側を傷つけられて、みんなと同じ世界を感じられなくなった女の子。たぶん、自分よりは年上だと思う。肌が白くて、長い黒髪が綺麗で、無口でいつでもまっすぐな感情を持っている。わたしは彼女を助けるふりをして、彼女に逃げているのかもしれない。マーテンシーのそばにいればわたしは傷付かないから。
「マーテンシー、洗濯は終り。部屋に入ります。服を着るの」
ライムの呼びかけに反応してマーテンシーの黒い瞳が瞬きする。白い手から雫が零れている。ライムは洗濯物を指差して、その後指で×印をつくってもう一度同じことをやさしく言った。
マーテンシーは眉を寄せたがやがて納得してくれたらしく立ち上がった。
「なるほど。わかりやすく言うのだね」
「そんなこといいから、さっさとしてよ」
感心する伯爵に気恥ずかしくなって急かす。屋敷に入ると、植物をモチーフにした飾りや模様が色んなところにあって目に付く。玄関にはやさしい印象の女の人の肖像画が飾ってあり、見守ってくれている気分になった。その側に花を生けるのが伯爵の日課なのだとネリネさんは言っていた。
ライムは町に行った経験も少ないから流石に豪華な邸宅は珍しくて、住んでいてもまだ慣れない。柔らかいベッドとか、自分用の机や鏡に遠慮してしまいそうだった。嬉しいんだよ、伯爵は子どもを授からなかったからね、とネリネさんは笑い飛ばした。冗談じゃないって思ったけど、物だってせっかく作られたんだから使わなきゃもったいないし。
「やあ、ライム、マーテンシー。とうとう伯爵に捕まったみたいだね」
客間に入ると青い髪の若い長老がお茶を飲みながら肩をすくめた。こんにちは、と挨拶しながらライムも同じように肩をすくめてみせる。シアン長老はもともと自分と同じように人にはありえない鮮やかな髪と目を持っているから、なんとなく親近感は感じていた。もちろん彼は不老不死かつ身体能力の低下という枷も負わされ、きっとずっと苦労している。
でも、前は同時にとても恐かった。柔和で優しくしてくれるのに、絶対どこかに突き放した冷たいような感情を漂わせていて、ライムは能力のせいで余計にそれを感じ取ってしまった。ほんとに、未来が見えなくなった。
「人聞きの悪いことを言うね? こんなに素晴らしい素材がいるのに磨かないなんて詐欺だ! ルパンだ! かわいい子には服を着せろ!」
「何言ってるんだか……」
今は、ちょっと違う。
ハルジオンに来てからシアン長老は以前より無愛想になった。でも、感情が柔らかくなって、前よりずっと取っ付きやすくなったと思う。ライムは今のシアンは素直に好きだと思える。商人は一旦休憩しているようでモデストゥスと大体一緒にいて、議論したり、いつの間にか彼の秘書みたいな感じで執務を手伝い始めているようだ。意外だけれど、結果的には馬が合うみたいだった。
ライムはマーテンシーの手を引いて仕方なく付き合ってやるよという雰囲気を漂わせながら衣裳部屋に入る。女中が二人待ち構えていて、あっという間に着替えさせられ髪まで整えられていじくりまわされる。マーテンシーが嫌がらないか不安になったけれど何とか大丈夫で、実はおしゃれに興味がないわけはないから、魔法のような女中さんの手にぼうっとみとれていた。
「いいわねえ、ブラウスの色と同じ綺麗な髪だわ。飾りは、どれがいいかしらね〜」
「きれい?」
「もっと手入れすれば艶も出るでしょ。後でオイルをあげるからね」
蝶を正確に模った金色の髪飾りが、大嫌いな緑の髪に飾られて、つい鏡の向こうの自分に指を伸ばしていた。わたし?
髪と同じ明るい緑のブラウスと、派手すぎない手触りのいい黒のスカート。それに、それに柔らかくて履きやすくてすごくかわいいデザインのダークブラウンのブーツ。
マーテンシーを見てみると、光沢のある白のシャツにフリルのついた紺色のロングスカートを履いていて、とてもよく似合っていた。本人は頓着しないけれど、やっぱり美人で……。
「よく似合ってるじゃないか! 素晴らしいね」
女中さんに背中を押されて出て行かないわけにはいかなくなって、ほんとに恥ずかしかったし、うかつにも抱きしめられそうになった。あわてて逃げて睨むと残念そうにしていたけれどそれでも嬉しそうで、ライムは苦笑するシアン長老の背中に隠れていた。
「まあ、年寄りの楽しみに付き合ってやればいいさ。いい品だろうしね」
「そう、でしょうけど……なんか、やだ……」
「馬鹿で変人だが、伯爵は嘘吐きではないようだよ。信じてみる価値はあるんじゃないかな?」
「え、だって、そんなの、……」
マーテンシーも褒めちぎっている西方の森の伯爵を横目で見ながら、口の中で呟く。一番人間を信じていなかったシアン長老が、そんなこと言うなんて。
もごもごと俯いていると、明るい声が聞こえた。
「どうだい、せっかくだから町へ行かないかい? まだ案内していなかったしね」
「え……」
「うん、我ながらいい考えだ。これは見てもらわなきゃもったいない」
「待ってよ……わたしは」
すっと血の気が引くような思いに肌が泡立って、ライムは硬い声を出した。今すぐにでも実行してしまいそうなモデストゥス。なんで、そんな簡単に、わたしたちを町へ連れ出そうだなんて、思えるの?
どす黒い不安と孤独が湧き上がってきて気持ちを押しつぶした。
「行かない……行きたくない。馬鹿じゃないの? 見世物にでもする気? どうせ汚らわしいって、嫌な目で見られて笑われるのに。やだよ。人間なんて嫌い。大嫌い」
午前の柔らかい日差しの部屋で、自分の声だけが寒々しく響いていた。シアンの微かなため息がやけに大きく聞こえて、モデストゥスの視線がまっすぐにライムを捉える。ああ──
なんでなの? 悲しそうな顔して、全部わたしが悪いみたいに……!
伯爵は動揺することもなく、やさしく真摯な声でしゃべった。
「私は、ライムが好きだ。他のみんな、マーテンシーやシアンもね。ずっと憎んでいるのは苦しくて楽だけど、悲しいことだよ。ライムはいい子だ。少しだけ許してくれないか? 今さら信じるのはきっととても恐ろしく、勇気がいることだが、私はハルジオンの誰にもライムを馬鹿にさせたりしない。優しくて誇らしいんだよ。私は君や他の子どもたちも、本当に養子にしたいと思っているのだからね」
「なんで、傀儡、なのに、……」
「その前に、人間だろう? 私は会った時からずっとそう思っている。少しも恐くないよ」
「────」
恐い。やめて。わたしは、人間なんかじゃ、────
「ちがうっ! 知らない! そんなのわたしじゃない……!」
悲鳴を上げるようにして怒鳴ると、今までぼうっとしていたマーテンシーが耳を押さえて座り込み、金切り声を上げて泣き出した。マーテンシーは怒鳴り声がすごく嫌いだったのに。ショックで立ちすくんでしまう。わたしが悪いんだ。わたしなんか、わたしなんて──
「ライム! 待ちなさい……」
大声で泣くマーテンシーに伯爵が気を取られているうちに、部屋を飛び出した。全速力で玄関も出て、屋敷の敷地を駆け抜けて、砂漠にも例えられるハルジオンの森の中に飛び込んだ。涙で上手く足元が見えなくて、木の根につまづいて顔から地面に転んだ。
「っ……うっ……ひっく……!」
反射的に顔に触れると、鼻がじんじんして右側の唇の脇や頬が擦れて血が出ている。蝶の髪飾りが外れて草の上に転がっていた。痛くて、情けなくて嗚咽が漏れた。
マーテンシーは泣き止んだだろうか。
恐がりで少しの勇気もなくて人を傷つけてしまうばかりの醜いわたしなんて、きっといないほうがいい。
※
ずいぶん長いこと道もない森の中を歩いた。
足の痛みで歩けなくなったライムは、弱くなる午後の太陽を木々越しに見上げるようにして、木の根元に倒れていた。側の枝に巣を張る蜘蛛や草の茎を這う蟻たちが時々涙で黒い模様になった。
お父さん。お母さん。
思い出してみようとする。とても古い記憶の中にある。でも、違うんだろうなとすぐに否定した。わたしはきっといらなかったから売られたんだ。わたしを抱き上げていた誰かは、わたしを買って運んでいくあの恐ろしい魔術師だったんだ。
かさかさと、蛇がうごめくような音がして、ライムは身を縮めた。ザアザア、木々は恐ろしげに鳴り続けている。草葉の陰から、なにかぞっとする目に見えないもの達に見つめられているような気がした。夜になったら気温が下がって、獣やもっと恐ろしいものたちがうろつきまわる。そしたら自分は寒さと痛みに震えながら、齧られて啜られてバラバラの骨だけになるんだ。
「う、ひっく、……ぐすっ、ぅえぇん……!」
恐くて寂しくて痛くて、とうとう泣き声を漏らした。やだよ。誰か。たすけて。こわいよ。こわい。こわいよ……!
「…………!」
そのとき聞こえたそれは、遠い声で、幻みたいにライムの耳に届いた。ライムは夢中で泣き声を上げた。答えるように、声は近づいて、それは間違いなく人の気配になって──
「やあ、見つけた! よかった、すぐに伯爵に知らせよう!」
夢じゃなく。本当に駆けつけてきたのは知らない、見たこともない男の人たちだった。ライムを探していたみたいで。嬉しがって、安堵している素直な感情。どうして? なんで、気味悪がらないの……
「ライム……!」
そのうち、聞き覚えのある声がして、でもそれはひどく掠れてしまっていた。全速力で駆け寄ってくるのは、別人みたいに正装をくしゃくしゃにした伯爵で。ライムは怒鳴り声を予測して、ぎゅっと目を閉じた。触れたのは暖かい手だった。
「だ、大丈夫かい!? かおっ顔に、怪我、医者ーー! 誰か名医を呼んで来いーー!」
「伯爵ぅ、転んだだけですよ。大げさな。傷口をきれいにしとけばすぐ治りますって」
「だ、だだだってこんなに泣いてるじゃないか!? 痛いんだろうっっ?」
「ぷっ、慌てすぎです。きっと安心したんですよ……それか、」
心配して、甘やかして欲しいんじゃないですか?
ライム捜索に問答無用で招集された男の言葉は、泣き声に掻き消されて二人の耳には届かなかった。
怪我に触れないようにそっと少女を抱きしめた伯爵に、少女はしがみついていっそう激しく泣いた。
「今日が積み重なって昨日になる。今日が続いて明日になる。だから、今日を頑張って精一杯生きれば、人生全部いい日になるのさ」
馬車の中で、ライムを宝物のように抱きかかえながら、西方の森の伯爵は歌うように呟いた。今日、とライムはオウム返しで囁いて、頭の中で繰り返した。私の妻がよく言っていた言葉だよと、伯爵は小さな物語を聞かせてくれた。ある貧しいお針子の女の人の話。
今日だけなら、変われるかもしれない。
馬車に揺られて温かい眠りに落ちながら、あの肖像画の女の人が夢の中で笑ってくれた気がした。