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王国と鳥(3)

 


 静かで、暗くてとても冷たかった。

 床は汚れて湿り微かに異臭がしていた。生き物が流したものが腐った匂い。血が飛んだ白い長衣のままその上に倒れていた。身じろぎをすると金属の擦れる音が静寂に響いた。後ろ手に嵌められ壁に繋がれている枷の音だった。

 朽ちていく。腐敗して。

 とても、静かで、深い沼の中に居るようで。

 口に噛まされた布が唾液と僅かな血でじわじわと汚れていくように。

 どうして舌すら上手く噛み切れなかったのだろう?

 わたしを、いかしているものは、なんなのですか。


 鉄格子に駆け寄ってくる靴音。小さな手を伸ばして誰かが泣いていた。


「姉上……! あね、うえ、私の、せいですか? あんなことを言ったから、ぼくが、何もできないからっ……」


 目を閉じた先の闇は、沼に沈んだ鳥篭の底をゆらゆらと彷徨っている。


 地面。空。

 飛べないだろうか。


 飛べない、だろうか────



                       

                      ※    


    


 ―before several hours




 生まれてきたことに何のイミがあったのだろう?

 

 シルフィードは椅子に腰掛け、マゴニア国第一王女のための部屋の薄いカーテンが風で揺れる様子を目に映している。荒涼の国らしい赤茶色の壁が自分の周囲に存在した。その中で、白い長衣を身に纏う自分は、何かの真似をしても何かの仲間に混じることは出来なかったのだという風に思われた。

 悲観とも違う。

 ただ、純粋に疑問に思っている。


 例えば、自分であるから。考えること、感じること。自分がそう思うことに意義があり、他人に自分の存在意義を尋ねたところで何にもならない。どんなに素晴らしく論理的な答えをくれても、自分が納得できなければ意味がない。シルフィードは納得できる己の存在意義が見つけられない。


 まずベリンダは、シルフィードを生んだことを後悔していた。要するに彼女自身それほどテンペスタリの人生が辛かったのだ。そこに希望が見えなかったから何度も謝罪した。

 それからただ教えられた通りに生きてきた。そうしないと殺されるからだ。

 たくさんの人を助け、感謝された。ウレシイと思ったことはなかった。実感はないけれど、そうしないと殺される。呼吸のような義務に誰が感情を持つのだろう。

 裏切るために、傀儡たちを助けた。今思えば、それは唯一自分から望んだことで、彼らを助ける振りをして自分の望みを叶え、そして彼らを犠牲にする方法だった。当時そこまで考えが及んでいたわけではないが、結果的にその通りになった。ひどいことをした。そんなひどいことをしておいて、その本人さえ絶望している。偽善の中にも真実はあった。人は変わることができないなど、当たり前であったのに。

 レリウスのためにオズを訪れた。ひと時の夢を見ていたのだ。夜見て朝目覚めるとなくなってしまうものと同じ種類の。現実があまりにも重く大きく、絵の具の黒のように広がって、綺麗な色は全部汚れて埋まる。そんな風にしてシルフィードの夢は絶望に塗り込められた。


 自分の中に存在意義を見つけることは出来なかった。

 生まれてきたことに何のイミがあったのだろう?

 人生の中で望んだのは、裏切りの果ての破滅であり、結果的に消えるのなら最初からいなくても同じことだ。ベリンダがシルフィードを生まなかったとしたら、テンペスタリ家は永遠に綺麗なまま歴史に残り、ベリンダも死んだ後だが浮かばれたかもしれない。

 人が存在意義を問うとき、答えとして挙げられるのは人生の幸せ、楽しみや喜びなどの快楽、何かを成し遂げること、その充実感、愛、使命、例えばそういったものであると思う。根源的に、家系、種の保存があるが、シルフィードの場合ベリンダと同じくこれ以上テンペスタリ家を存続させることに拒絶感があり、芦原に献上されたとしても所詮立場のない異国の側室、己の子が不幸になることは目に見えて明らかだった。


 シルフィードは今、何も感じることがない。

 唐突に視界が曇り、それでいつの間にか涙が流れていることに気付くことがある。悲しいと感じているわけではない。なにもない。あの死体を掴み叫んでぼろぼろになって以来、心は消えた。すぐに涙も流れなくなるだろう。

 

 生まれてきたことに、何もイミはなかった。

 目の前で薄いカーテンが揺れている。いつの間にか立ち上がって窓の前に立っている。

 王母ルサールカが贅を凝らした浪費の象徴、ヨートゥン宮からの景色は偽りの自然で溢れている。この荒天の国で虚勢のためだけに犠牲を払い土地に合わないことをしても虚しいだけだ。


 それでも、今の自分以下のものはない。

 

「…………──」


 窓を開ける。地面とは十分な距離がある。空に溶けるような鳥の声。


 透明な鳥。


 Sylphid。


 ああ、蜂鳥のことだね、と言ったのは誰だったのだろう。シルフ。空気の精霊ではなく、鳥類の中で最も小さいといわれる鳥の総称。生き残るために特定の植物との関係を深めたり、花の蜜を吸うのみでなく虫も捕食する不思議な鳥。足は退化しほとんど歩くことができず、飼育することはとても難しいのだと聞いた。


 籠の中で生まれた蜂鳥は、どこへも飛べないまま地に落ちる。

 そういう運命だったのか。


 地面。空。

 飛べないだろうか。

 飛べるかもしれない。


 そして、透明な鳥になって、わたしはもう一度だけ、あの人の声を聞く────





 

 "シルフィ″






「──殿下」


 ──もう少しだった。

 もう殆ど窓から身を乗り出していた。一瞬だけ脳裏に過ぎ去った風のような声に、意識を奪われていなかったら落ちていたかもしれない。ゆっくりと振り返ると、女官が訝しげな顔をしてドアを開けてこちらを見ていた。ごく小さな音がして、自分の涙が地面に触れたのかと気付く。まだ泣いている。シルフィードという入れ物が。


「殿下、ルサールカ様がお呼びです。石膏の間へおいで下さい」


 促され、何を思うこともなく女官の後に続く。瞬きをして、涙が乾くのを待っていた。その内目の前でドアが開かれ、シルフィードは反射的に礼を取った。


「お久しぶりですね、シルフィード殿下。体調は大丈夫かしら?」

「……はい……」


 返事をするために僅かに顔を上げる。

 ダークブラウンの髪を美しく結い上げ真珠の髪飾りで止め、ティル・ナ・ノーグ風のゆったりした白いドレスを身につけた若々しい女が微笑んでいる。無邪気でまるで少女のようなルサールカはその性質を十分に利用して王の寵愛を得、自分の周囲を固め、望むままに散財してきた。きっと貧しい村の暮らしなど見たこともないのだろう。税の徴収は複雑な計算によって誤魔化され、売り物になる収穫物が農民の口に入ることはない。

 部屋の両側や彼女の脇には武装したマゴニア兵が控えている。視線をずらせばレリウスとトロヤンがそれぞれ右と左の壁際に立っているのも認識できた。いるだけで、完全に静観に回っているようだった。


「それはよかったわ。でも、驚きましたよ。異形、でしたか、凶暴な獣なのでしょう? そんな危険なものに関わっていたなんて、もっと早く気付いていてあげればよかったわね。偶然目撃者がいて、慌てて排除させたのよ」

「…………」


 偶然。トロヤンやルサールカと対立したときから何人もの監視をつけておいて、彼女は平然とそう言ってみせる。それがルサールカという人格。

 シルフィードの沈黙を意に介さず、ルサールカは話を続けた。


「ねえ、それで、マゴニアの民は怒ってしまったでしょう? あなたもそれは辛いことだと思うの。今までも縁談はあったと思うのだけれど、葦原中国からの縁談を受けるのが丁度良いと思ったのです」


 あの大国の王の妃ですよ、とルサールカは無邪気な笑顔で告げる。以前は野蛮な民族の国だと吹聴していたはずだったが、目くらましのような贈り物と保身のためにたやすく考えを改めたらしかった。

 それに、彼女は、もう決定したのだ。


「準備が出来次第出立すると先方に伝えてあります。何日必要かしら? シルフィード殿下、何か入用のものがあれば早めに用意しておいてくださいね」

「…………」

「な……! そんな、性急なっ……いつそのような重要なことを決定したのですか!」


 そして声を荒げたのはシルフィードではなく、レリウスだった。右側にいた王はルサールカをきつく睨みつけ、握り締めた小さな拳を怒りで震わせている。彼の他には動揺をあらわにしたものはいない。彼の母親は小鳥のように小さく首をかしげた。


「いつだったかしら? 昨日か、一昨日?」

「馬鹿な! 王は私だ、どうしてなんの許可もなく勝手なことを……!」

「陛下はまだお若いのですから、判断するのも苦労なさるでしょう? ですからわたくしとトロヤンで皆の意見をまとめ、決定したのです。皆さん賛成ですから、ご心配なさらず」

「どこまで、勝手をすれば……!」


 怒りでレリウスの顔色は蒼白だった。同時に泣き出してしまいそうでもあった。たった一人にしてしまった小さな王。彼もまた自分が不幸にしてしまったように思われた。ごめんね。何も感じていないけれど謝罪する。わたしにできることがあるのならば。なんでもしよう。なんだろう。ほら。たとえば粛清。そう。しゅくせい。それがいいのかもしれない。


「──姉上……?」



 意識しなければどこにいるのか、何をしているのか分からなくなる。床を歩いている。石膏の間。ルサールカが正面に座っている。そこへ向かってふらふらと歩いている。彼女の隣に華美な武装をした形だけの美しい兵が立っている。彼の腰に剣が吊るしてある。それに手を伸ばした。飾りの物の兵の腹を正面から蹴り倒しその勢いで、剣を引き抜いていた。心地よい重み。倒れる兵のうめき声、誰かの驚愕の悲鳴とルサールカの呆気に取られた顔。何も感じない。さようなら。その彼女の身体に、シルフィードは鈍い刃を突き立てた。


「ぁ、か、ぎゃああぁあああ!!」

「姉上!」

「何をしている! 早く! 止めろ! 捕らえろ!」


 血で白いドレスが汚れ、ルサールカは椅子から転げ落ちた。壁際に並んでいた兵達が動き出す。もうひとり。トロヤン。彼にも粛清を。

 シルフィードは驚くほど無感情に宰相の姿を探し出して、追いかけた。彼は顔面を蒼白にして踵を返した。シルフィードは追いすがって剣を振るった。


「ひっ、やめろ……!」


 トロヤンは駆けつけようとしていたマゴニア兵を盾にしてその背後に隠れたのだった。シルフィードの斬撃は身代わりにされた彼の腕を切り裂いた。悲鳴が部屋に響き渡る。まだルサールカの声が聞こえる。トロヤンが逃げてゆく。誰かが邪魔をする。剣がもぎ取られ、羽交い絞めにされる。まだ、終わっていないのに。なにも、おわっていないのに。

 レリウス。

 ごめんね。

                                           May be continued―




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