王国と鳥(2)
「もう、私は貴女を助けることはできない。いくら一人で異を唱えてもトロヤンは派閥を広げ、あの女は王宮を腐敗させ邪魔するだけで……もう、いっそ、」
いっそ粛清でもすればいいのか。
レリウスの呟きは空しく、沈んだ部屋に溶ける。シルフィードは茫洋と少年を見ていた。粛清。その響きは不思議と胸の中になじむような感触がしていた。
レリウスは睨むようにたった一人の姉を見つめると、続けた。
「私は王だ。だから人としての感情など持たぬと決めました。姉上が葦原に嫁ぐことも、必要ならば受け入れる。恨むならどうぞ恨んでください」
鏡のような瞳がゆっくりと瞬く。そこには、偽れぬ自分が映っている。強張って、幼い、今にも座り込んでしまいそうになるアンバランスな権力。
シルフィードは何か言おうとしたのかもしれない。
声の替わりに涙が零れ、だから、空気を震わせるものは何もなくなった。
※
ごめんね。
母親であるベリンダ・テューズ・テンペスタリがことあるごとに漏らした謝罪の意味を、シルフィードは知らなかった。
王妃であると同時にテンペスタリ家唯一の後継者でもあったベリンダは、テンペスタリ家の例に漏れず万人に尽くし身内に厳しい人物だった。
人ありて己あり。
他人がいてこそ、自分が存在できる。
だからいつでも他人に尽くさなければならない。
幼い頃からひたすらそう教えられ、疑問を持つこともなく、シルフィードは過ごしてきた。いや────
『どうして、わたしは──してはいけないのですか?』
幼い頃に、聞いたことがある。他の人がしていること。自分とは違うように思えて、それが羨ましいような気がして、自由の何たるかも知らずそれを訴えようとしていたのかもしれない。
ひどく叱責され、家訓の素晴らしさを何度も繰り返し聞かされ、部屋で頭を冷やすように言われた。考えるな。期待するな。望むな。感謝されることだけをしていればいい。母親は厳しい表情で言った。
王宮のいざこざもあり、シルフィードは生まれてからテンペスタリの地で過ごす期間のほうが長かった。王である父親に会うことはほとんどなかった。礼儀作法など二の次、最低限のルールだけを教えられ、その他は母親と共に慈善事業に明け暮れた。感謝されて、笑顔でそれに応え、淡々と作業をこなす様に誰かを助ける。
『ごめんね』
ベリンダが時々漏らすその言葉が、シルフィードは好きだった。彼女がかけてくれる言葉の中で、それが一番優しかった。彼女は作り物のように綺麗に笑うとき以外、いつも疲れていた。
やはりテンペスタリ家唯一の後継者候補であるシルフィードは、がらんとした静かな屋敷で過ごすことが多かった。二階の窓から外を眺めて、少しだけ空想に耽る。使用人が三人おり、彼らは仕事に対して消極的で、よく噂話をしていた。本当は殺されたのだよね、テンペスタリ家のくせに自己主張が強いような人達は。王様って、恐い恐い。
シルフィードはいつの間にか小さな綻びに惹かれるようになっていた。
例えば声を無くした少年兵と出逢ったとき、ひどく懐かしいような優しい気持ちに襲われた。足りないものがある。あるはずのもの。彼も少し透明で、シルフィードはヘリエルの側にいると安心した。世界の片隅で、身を寄せ合って暖かく朽ち果てる夢を見ることが出来る。同情して、同情されることをお互いに求め、いつの間にかそれを絆にして繋がっていた。
そして、あの原色の青が世界を変えた。
『はじめまして。シルフィード殿下だね。見ようによっては殺そうかと思ったんだけれど、噂以上の人形なのだね』
平然とそう言う傀儡の少年は、シルフィードの中の消えかけた心の最後の欠片に触れた。抉って、冷たい手で掴むようにして。
『許せないんだろう。本当は嫌いなんだろう。マゴニアが、他人が。わかるよ。だからね──』
裏切ればいいのだよ。
そうか。
すとんと、それはシルフィードの中に落ち着いて、足りない何かが埋まったような嬉しさが生まれた。許せないとか、嫌いであるという感情はよくわからないが、裏切ることを想像したとき、今までにない充実感と暗い喜びを得ることが出来た。彼らを匿うことはこの国では許されない。許されなくても、彼らを助けたい。裏切るために? 助ける……?
彼らは今まで自分に対して何かを要求し、感謝を述べたマゴニアの人々とは違って、シルフィードを入れ物の中に当てはめなかった。慈善家とも偽善者とも言わなかった。他人、ではなくて、仲間、のような。でも自分は傀儡ではない。
母ベリンダが死に、ヨートゥン宮に呼び戻され、弟のレリウスに小さな手を伸ばされた。
シルフィードは少しだけ悩み、そう時を経ず王となるであろうレリウスのために、オズ皇国を選んだ。必然的に宥和政策を唱えた宰相のトロヤンと対立することとなり、余分な衝突を避ける意味も込めて逃げるようにしてオズを訪れた。
豊かな国だった。
作法もままならない自分を必死に誤魔化そうとして、息が詰まりそうだった。煌びやかで、賑やかで、誰も知らない国。それでも時々呼吸が苦しくなるのを我慢すれば、ほとんど何も感じず、生前の母のように笑うことが出来た。
『あの、ユウゼン様。以前からお会いしてみたいと思っておりました』
自分の容姿を好む人間が多い、ということをシルフィードは知っていた。母ベリンダは絶世の美女といわれていたし、シルフィードは彼女に似ていると言われた。だから、それだけを頼りにして、彼に声を掛けた。
次期皇帝と目されるオズ第一皇子、ユウゼン・パンサラ・オルシヌス・アレクサンドリア。彼に気に入られれば、きっとレリウスを助けられる。
彼は、少し困ったような顔をした無愛想な青年に見えた。笑顔で話しかけるとぽかんと数秒こちらを見つめ、それからうろたえたように視線を彷徨わせ、シルフィードによく馴染みのある反応を示した。
自分に関係のない別世界の出来事のようだった。発する声が遠く、誰が喋っているのだろうと、客観的に己を見ている。それでもいいか、と思っている。
ダンスが始まったとき、我に返った。練習不足かつ不慣れでほとんど手順がわからない。自分が恥を掻くのは仕方がないが、よりによって第一皇子に恥を掻かせては…………
シルフィードは冷や汗が滲む緊張の中必死で周囲と合わせていたが、発作のようにぎゅっと呼吸が苦しくなり、集中が何度も途切れそうになった。やめたい、なんて……考えるな。期待するな。望むな────
それなのに眩暈で一瞬視界がぐらつき、よりにもよってユウゼンの足を踏んでしまった。血の気が引くと同時に、どこかで安心している自分がいた。束の間でもいいから呼吸が上手く出来るところを探していた。
『──すみません……! 大丈夫ですか?』
顔を上げると、なんだかひどく心配そうな顔がそこにあり。シルフィードは驚いて瞬きをした。泳ぐように舞う人の波の中で二人だけが立ち止まっていた。彼の黒に近い茶色の瞳は不思議なほど深くて、穏やかで、優しい光を宿している。とくんと心臓が鳴って、呼吸が戻ってくる。手を引かれ、華やかな波の間を抜け出していた。その間少し何か喋ったのかもしれないが、よく覚えていない。
『実は俺も、人波の中はあまり得意じゃないんです。浮かれてしまってシルフィード殿下の体調も考慮せず、失礼しました……』
案内された静かな部屋で、自分は病弱ということになっているのだとぼんやり思い出した。マゴニアの第一王女のかたち。そんなことを思っても、いつの間にか用意してくれたボードゲームに夢中になり、楽しんでいた。自然と笑っている。呼吸が苦しかったことなんて忘れてしまう。楽しい? 楽しい…………
それから、たくさんの感情を自分の中に見つけた。少しだけ考えることを、期待することを、望むことを覚え、誰かの前で泣けるのだと知った。胸が苦しいような、けれど心地よいような、不思議な感情を経験した。
すきですよ。
ちょっとだけ、笑ってしまうような事を何度も心の中で呟いていた。アドニスという真っ赤な花の名を冠したオード(頌歌:抒情詩)を読んだことがある。アドニスの花言葉は、儚い恋、期待、消えゆく希望。
わたしの恋だ、と思った。
『それが、わからない、んですか? 好きだという感情が、どういうものか、そんなことが』
だからシルフィードは笑ってみせた。涙が滑り落ちた。すきですよ。心の中で呟いてみた。
わたしが、そう思っているだけだから。人形になど、誰も恋をしない。どうかしあわせになって。
そうして、希望が消えて。
裏切りは、発覚した。
思い描いていた結末。どこまでも落ちて、積み上げてきた偽善を全部崩して、死んでゆこうと思っていた。
でも、偽善は偽善だけではなかった。助けたかった。その気持ちは本物だったのだ。死体を見たときに気づいた。
生んでしまって、本当に、ごめんね。
母親であるベリンダ・テューズ・テンペスタリがことあるごとに漏らした謝罪の意味を、シルフィードはずっと知っていたのだ。