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アドニスのオード(2)

 山を降りるときの苦労も時間も何も感じられなかった。いくらかぎこちなかったとはいえ、シルフィードがよそよそしかったわけでもなく、普段どおりに会話を交わしたと思う。アツィルトの誰かに麓まで見送られたような気もする。シルフィードとヘリエルは自分達の馬に乗って帰路へつくようだったから、ユウゼンは待っていた自分の護衛に馬車を用意させ、一人でその中に篭るようにして、不快な振動を感じながら目を閉じていた。


「……信じられないよなぁ」


 誰にも聞かれないはずの言葉は、舞い戻って自分の心を突き刺し、感覚を取り戻させようとする。耳を塞ぎ、目を閉じ、なんとかそれを拒絶する。

 矛盾。会いたかった。なのに何も考えたくなかった。その場の流れに身を任せるだけで。それらしいことを言うだけで。臨機応変など、出来ないからいつだって一番敬遠していたはずだった。

 彼女は違い、少なくとも優柔不断ではなくて、アツィルトの村を守るという堅い信念を持っていた。中途半端に関わるユウゼンをなだめるように、シルフィードは苦しげに笑っていた。



 ……人が好きかどうかって、どうやったらわかるんですか……



 知るわけない。

 知るわけないじゃないか。

 知っていたら、今この痛みも、全部消し去ってしまえるのだろうか。


                      ※


 知らぬ間に少し眠っていた。頭の中がキンとするような不快な目覚めで、ユウゼンは無意識に眉をしかめながら馬車の中の薄いカーテンを開ける。昼を過ぎてもう傾いた太陽と薄曇の空。予感がしたのかもしれない。何か、胸がざわざわとする不穏な空気を感じた。


「……?」


 近づいてくる気配は一瞬で、風のように道を逆行していった人と馬には見覚えがありすぎるくらいにあって。

 刹那の交錯のとき、ブラウンの髪を持つ少女は表情を凍らせて蝋のような顔色をしていた。

 間違いなくシルフィードと月毛の奇獣ルカだった。

 

「シルフィ?」


 呆然と口にした言葉は、数秒後に彼女を追って疾駆するヘリエルと奇獣のリオ、それからさらに遅れて白の猫かぶりの乗った馬の蹄の音に掻き消される。尋常な様子ではなかった。何かあったに違いない。

 ユウゼンは咄嗟に馬車を止めさせ、外に飛び出した。アレクサンドリアに向かっていたはずのシルフィード達は、今戻ってきたばかりの道を砂埃を巻き上げながら逆行していった。

 アツィルト  傀儡            シルフィード

             異形  

  シアン  ソオラ 子ども  排斥  …………

 脳裏に警告のように単語がよぎり、ユウゼンは低く呻く。もう止めればいい。自分ははっきりと振られたのだから、無理に関わることなど何もない。これ以上どうしようもないんだ。

 頭では分かっていることばかりだった。全て、正しい。正しすぎて嫌になる。シルフィードの姿が遠くに消える。消え去って、そうしたらもう二度と会えないような錯覚を覚えた。


「馬を……、」


 何をやっているのか、わからない。

 ユウゼンは御者から馬を奪うようにして一人彼らを追っていた。


                     ※


 戦火を見たことがある。

 陸の先の海峡で、沈み行く大型船が一際強く燃えていた。あれはティル・ナ・ノーグのものだったのか、それともオズの味方だったのか、今となっては覚えていない。海辺は油と血の匂いが充満し怒号に掻き回されていた。まだ幼いカラシウスが射殺すような目で剣を振り上げて命令していた。あのときの雰囲気。


「はあっ……はあ……な……んで……」


 昼間までの静寂に包まれた山の様子はどこにもなかった。いくつもの松明が木々の間の暗闇に浮かび、砂色の軍服の姿が山を包囲している。ユウゼンの知る限り、それは間違いなくマゴニア王国の兵のものだった。

 ユウゼンは夕闇の中を彼らに紛れるようにして、時に昏倒させながらアツィルトの村を目指した。絶望的な想像を何度も頭の中で叩き潰してはこれ以上は無理だと思えるくらいの精一杯の速度で斜面を駆けた。

 シルフィ。シアン。アダマント。ソオラ。異形たち。



  "私はね、普通の人間だったらもう何度死んでいるか分からないんだよ″

  "気持ち悪いでしょ。いいよ、別に。ひどいことしなかったらどう思っても″

  "どうか、シルフィード様を幸せにしてあげてください。あなたを信じています″

  "消えないでいて──わたしの  こころ──″



 彼らの感情を思うたび、叫びがこみ上げ血が滲むほど手のひらに爪が食い込む。どうしてこんなことになった。ソオラは。彼女は遠くの音を拾えるのではなかったのか。だったらもう避難しているのだろうか。きっとそうだ。昼間までは、あんなに皆、穏やかに生活していたのだから……。

 縋るような思いで村に被害がない事を祈りながら、暗い山道を辿った。皮肉なことに、マゴニア兵の気配と松明の灯で村まで迷うことはなかった。

 見覚えのある崖。体力の限界を当に超えながら武装した兵たちをすり抜け、崩れそうになる足を引きずってアツィルトに足を踏み入れ────絶句した。


「────」


 明るかった。

 崖に囲まれた中央にあった簡易施設が燃えていた。熱気と煙が辺りに満ちて、視界を遮っていた。微かに響いたのは人の声と剣戟の音。まだ、誰かが戦っている。

 ユウゼンは腕で鼻口を押さえながら、煙の中に飛び込んだ。一見マゴニア兵以外の人間は見当たらなかったが、耳の神経を集中させて探れば、もう一度死のうめき声が聞こえた。迷わず向かった先は嫌になる程見覚えのある場所。眩暈で倒れそうになる。他のものより大きな建物、今は黒煙と炎に包まれている……


「シアンっ……!」


 その入り口の前で剣を手にしていたのは間違いなく小柄な少年だった。血まみれになり、それでも憎悪を瞳に滾らせ、切りつけられながらマゴニア兵を刺しぬいていた。血が黒い影となって飛ぶ。死体を除き、よろめくシアンはまだ三人に囲まれていた。

 ユウゼンは駆け寄って護衛の力も借りながら三人を昏倒させた。そして、ふっと気付いてしまった。


「う、あ……そんな……」


 シアンの足元に倒れていたのは、マゴニア兵だけではなかったことを。



「ソオラ……聞こえるかい?」



 最後まで守ろうとしていたのだろう。全身を、顔さえぼろぼろにしたシアンが小さな彼女を抱きしめるようにして囁いた。ソオラは腹から大量の血を流しながら小さく痙攣していた。右脇で、昼間彼女に付き添っていた世話役の女性が死んでいる。早鐘を打つように、心臓の音が大きくなった。ユウゼンはよろめきながら二人に近づいた。


「殿下、見て、希望が消えてしまうよ」


 シアンは潰された右目をこちらへ向け、壊れたように優しげに笑った。どろりと闇が滴る。恐ろしくて正視できず、ぼやける視界の中のソオラは今にも息絶えてしまいそうに呼吸をしていた。無意識かどうか、彼女はわずかにこちらへ手を伸ばした。

 いくな。たのむから。

 ユウゼンは無我夢中で祈り小さな乾いた手を強く握りしめた。



 ……た す けて   ……


 

 ずっと閉じられたままだった瞳から涙が流れ落ちて、それきり、だった。彼女は皺だらけの手をユウゼンの手のひらに残したまま、苦痛を口にしながら、命の炎を消した。

 具合が悪かったんだよ、だから遠くの音も聞けなかった、仕方ないのに、守り手として最後まで残るって意地を貫いて、愚かだったね。苦しかったね。

 シアンが彼女だったものをそっと抱きしめながら呟いた。

 しばらく村が焼け落ちる音を蹲ったまま聞いていた。

 やがて、シアンはその亡骸を焼け落ちそうな建物の中に安置する。

 火の粉が舞い上がって、二人の姿を明るく照らし出した。


「……いいのか、弔わなくて……」

 誰が喋ったんだろう。絞り出した声は掠れ、自分のものではないように思われた。シアンはともすれば陽気にさえ聞こえる声音で返事をした。おかしいな。そんなはず、ないのに。壊れている。世界が。

「ええ。僕は皆に言わなきゃいけないんです。ソオラはどこかへ逃げたから見つからなかった、いつか、また会える日を楽しみにしようって」

「……また、あえるひを」


 動悸が激しくなり、上手く息が吸えない。どこにも希望など存在せず、絶望的で悲愴で虚しく、じくじくと身体の内部が締め付けられるように痛んでひどい吐き気がした。死。希望。ソオラ。たすけて。タスケテ。た す け て ――


 はっとして、ユウゼンは壊れかけた自我を保つ。


「他の人たちは逃げられたのか!?」


 とっさに詰め寄ると、少年はガラスのような目をして抑揚なく答えた。


「たぶんねえ。僕らは追われ慣れてるから、こういうときの準備は出来てるんだよ。マゴニア兵に見つかってなければ無事だろうよ。異形は全部駄目になっただろうけど……あ、そういえば、」


 病魔に侵された子どもの如く、青の傀儡は狂気的で背徳的な暗い笑いを洩らしていた。



「カーヤ……初めて生まれたウォルナッツの子どもだけど、マゴニア兵に殺されてたよ」




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