欠けたる者達の女王(2)
シアンは聞き間違いもしないはっきりした口調で、柔らかく平然とした表情で言った。哀れむことの残酷さを知っている目だった。捻じ曲げられた己を受け入れた凄絶な仮面。
セクレチアは黙ってユウゼンの背後を見つめているようだった。肌がちりちりする異様な緊張感が部屋には満ちている。
言動次第でセクレチアは自分を殺すだろう。今までのような、冗談ではなく。
ユウゼンはそれを感じ取り、一度深呼吸をした。深い、森のような緑の絨毯の上を一歩前に進んだ。
「……シルフィは、自分は嘘しか言わないと、言ったことがある。他人の気持ちが分からない、とも。それから、軽蔑されたくないと……それは」
「真実です。彼女に本当なんてない。ものごとを深く考えれば生きていくことが出来ない。軽蔑されれば存在できない。知ってます? テンペスタリ家の家訓は、初代マゴニア王が決めたものだと。王家は恐かったんですよ。原住民である親切なテンペスタリ達が、自分たちより支持されるのが。だから、閉じ込めた。人ありて己あり、なんて笑わせます……他人へ奉仕するだけの人生など、奴隷と何が違うというのかな」
「シルフィは……一体、何をしようとしているんだ? 今、どこに……それに、お前は」
「私は」
遮り、感情のない目で、今まで黙っていたセクレチアが呟いた。
「シルフィード様を傷つける人間を許さない。死んでもいい。愚かだと思えばいい。あなたはシルフィード様を不幸にするから」
熱い。
異常な熱を肌に感じ、ユウゼンは思わず一歩引いた。
「っ……な……」
刹那目の前の空間が、床が、裂けるようにして炎を上げる。これは、魔術────
「セクレチア……! やめろっ!」
いつか見たビディーのそれとは比べ物にならない規模であり、確実に人間を焼き殺すための威力を宿していた。説明を受けたときに予感したが、やはり彼女は魔術師で。しかも炎は一瞬で消え失せることなく唸るように宙で彷徨っている。火の粉が、熱気が向こう側に立つ二人の姿を歪めていた。近づけない。声も、届かない。
拒絶されたと知った。優柔不断で、覚悟も持たないくせに踏み込んだことを。シルフィは、知られてはいけない何かを持っていて、ユウゼンには知る資格がなかった。
ほとんど、絶望していた。無理だ。酷すぎる。人形。王家。家訓。
なんだよ、それ。
それでいいのか。
──シアンもセクレチアも、世界はそうであると言ったのだ。そうであるから、何も変えることはできない。ユウゼン自身が確信したように。道は一つで、逃げ出すことすら出来ないと。世界はそうできている。ここで自分が引けば、それは証明されるだろう。
寂しいな。みんな。
衝動に突き動かされる様にして、上着を脱いだ。入り口の側に置いてあった水差しの中身を自分にぶちまけ、上着で頭を庇い、二人へ向かって走った。焼け死ぬかもしれないという思いと怒りが混在して、頭の中が真っ白になった。
「…………!」
呆れた笑い声が聞こえた気がした。炎を通過する瞬間、庇われるように手を引かれた。だからか、ほとんど熱を感じなかった。勢い余って床に投げ出される。手をついて麻痺したような身体を起こす。目の前にセクレチアがいた。シンプルな白いドレスの女は身じろぎ一つせず、相変わらず何も見ていなかった。もしかしたら昔を、思い出しているのかもしれなかった。
ユウゼンは昂ぶりに任せてセクレチアの腕を掴んだ。震えそうになる手で揺さぶった。
「何考えてるんだ! ちゃんと……見ろ! 考えろ! あんたが死んだら、シルフィはっ、……」
琥珀の瞳が緩慢に瞬きしている。青白い顔。握り締められた燃え尽きそうな煙草から、嗅ぎなれない独特の匂いがした。
「俺は、あんたが俺を殺そうとしたなんて、思ってない……! 俺は、死んでない……あんたを罰したりしない……シアン、お前だって」
一度振り返り、自分の代わりに火傷を負ったシアンを睨み付けた。面白くなさそうに皮膚の爛れた右頬を確かめていた少年は、きょとんとした顔を向けた。
「いい加減にしろ。そうやって何でもかんでも決め付けるな。シルフィのことも、自分たちの事も、未来も、俺も……。シルフィは、人形なんかじゃない。人間だ。笑うし、泣くし、喜ぶし、悲しんで、精一杯生きてるじゃないか。嘘とか、本当とか、そんなのって無いだろ。あんたやセクレチアがそう思っているだけで、俺は、寂しくて……!」
──信じているのに、信じあっているのに、分かり合えない。辛い。どうしたら喜んでくれるのですか?
辛くなり、それ以上声が出なかった。溶ける様に、セクレチアの乾いた頬に一筋だけ涙が伝った。
シアンのため息が聞こえた。
「ユウゼン殿下……僕は、あなたが逃げると思ってました」
「…………」
「逃げた上でそんなことを言ったのだったら、許さなかったのでしょうが。お人よしでもないのかな。一応殺されかけたのに、不問ですし……僕はセクレチアが本気だとは思わなかったから、止め損ねたのでありがたいですけど。まあ、非力な僕に止められたかと言えば疑問、……うう、げほげほ」
セクレチアの腕から手を離し、ユウゼンは床で咳き込むシアンの背をさする。火傷は右側の顔と首、左手の辺りにあった。侍女を呼び、濡らした布で冷やす。シアンはすぐに治ると嫌そうに辞退したが、放ってはおけなかった。
しばらくは、皆黙っていた。その内シアンが気を失ったように眠ってしまい、ユウゼンは何度か迷った末、セクレチアに声を掛けた。白いドレスの一部に煙草の灰が、不思議な模様を作っていた。
「あのさ……偉そうなこと言ったけど、責任とかは、別にいいし……これまで、シルフィのことを守ってきて、俺よりずっと頼りにされてるんだから、将来の事前向きに考えて欲しいと思っただけだから……」
「……。そうですか」
セクレチアは窓辺の椅子に腰掛け、ぽつりとそう言った。しばらくまた黙り、その内ユウゼンはもう一度、今度はセクレチアとシルフィードの出会いについて、尋ねた。セクレチアは、淡々と言葉を返した。その次はマゴニアの事。それから、魔術の話。旅路の出来事。毎日の仕事の話。質問して返答を聞き言葉を交わすだけ、苦しかった心が楽になっていった。
「うん……、」
寝苦しそうにシアンが目覚めたことで、会話は終わった。青の傀儡はいやにぼんやり瞬きを繰り返し、起き上がるまでに時間がかかった。ユウゼンが水を差し出すと、一応一口二口飲み込み、もういいというようにつき返される。火傷はきれいに治っていた。
「ああ、やれやれ……面倒だ……起きるんじゃあなかった……いいベッドだし。寝よう。おやすみ世界」
「コラ」
そして再び寝ようとしたシアンを、ユウゼンは容赦なく叩き起こした。傀儡はひどく不服そうな顔をしたが、完全無視した。
「話は終わってない!」
「嫌だ嫌だ……話したくないなあ……いいんですか? ここから先の話、もし漏れたら本気で死にますよ? 殺しますよ?」
「殺すとか簡単に言うな……わかったから。言うわけないだろ。さっきも死に掛けたし。もう引けない」
「ああもう、本当に……」
決意して約束すると、シアンも腹を決めたようだった。ベッドから降り、猫の顔を被りなおしながら促した。
「シルフィードの秘密を知りたければ、僕ときてください。嘘しか言わないという彼女の、これだけは真実です」