欠けたる者達の女王(1)
伯父である西方の森の伯爵と語り明かしたその後、ユウゼンは軽いとは言い難い足取りで城の廊下を歩いていた。
寝不足。喋りすぎ。喉痛い。頭痛が痛い(?)。
とまあ、そういう理由もあるが、それより何より、今からしようとすることに、一番気後れしていた。
シルフィに、会う。
会って、どうしようとか、全然考えていないけど。とにかく。
だってもう、どうしたらいいのかわからない。シルフィが何を考えているのか、自分の事をどう思っているのか全くわからない。どんな覚悟をするにしろ、話をしないと決められない。俺のことをどう思っているんですかと──
「うわームリムリ絶対ムリ聞けるわけないバカだろ自分なんだそれ」
「…………ユウゼン殿下……?」
「こぽっ!? な、なんでもないです……」
なんということでしょう。どうやらもう彼女の客室の前に着いていたらしく、控える自国の侍女に一人つっこみを聞かれてしまった。何この人頭大丈夫、的な視線が痛い。穴があったら入りたかった。
「あ、あの、……シルフィード殿下に、話があるから通してくれ」
傷付いた心を誤魔化しつつ、侍女たちに頼んだ。すると彼女らは一度顔を見合わせる。微妙な反応。嫌な予感を覚えつつ返事を待っていると、一人が代表しておそるおそるといったふうに口を開いた。
「その……シルフィード殿下は気分が優れないので、面会はご遠慮願います……」
「はい?」
なんという。
ユウゼンは思いもしなかった返答に、衝撃を受けた。何度か聞いた覚えのある定型文だった。
しかし、この、タイミングで? も、しかして、会いたくない、とか? そういう? いやでも、別に、そこまで嫌われる覚えは。もしかして、実は怒っていたとか? それともホントに風邪? いやまさか……
「ああっ! もう! わけわからん! どうしろって! シルフィは本当に具合が悪いとっ?」
ユウゼンは半分自棄になり、頭を掻き毟りながら喚いた。
「そ、それは、……」
「神に誓って? 自分の胸によく聞いてみても? 何が何でも? 絶対間違いなくっ?」
「う、い、え、そういう、問題かと言われますと、……」
「じゃあどういう問題があって……! 俺は、ただ! ただ、シルフィ、に」
寝不足で頭の中がぐちゃぐちゃになり、感情が溢れて目頭が熱くなる。侍女がびっくりしたように立ちすくんでいた。いけない。馬鹿か。ユウゼンは自分を戒め、深い呼吸と共に何もかもを押し込める。それくらい、できる。できるのだから。
「ユウゼン殿下。シルフィード様は、……部屋には、いらっしゃらないのですよ……」
「え……? な、なんで」
静かに事情を明かした侍女たちは、理由は知らないという風に首を横に振り、黙って扉を開けて通してくれた。ユウゼンは、半ば操られるように待合室を通り、奥のもう一枚のドアをノックした。
「……セクレチア?」
返事はなかった。だが、しばらくすると誰かが内側からドアを開けてくれた。マゴニアの女官かと思いきや、
「おま……猫、かぶり……」
「どうも。お久しぶりです」
猫の顔(三毛)だった。要するに、ユウゼンが初めてアカシア皇宮で目にした猫かぶり。確か、あのときもこうしてドアを開けてくれた。そんなに、昔のことじゃないはずなのに、やけに懐かしかった。それに、この猫かぶりは……。
ユウゼンはどう接していいのか迷い、微妙な、笑みとも言えない表情をしてしまった。
「……元気そうで、よかったよ。アレクサンドリアに来ているなら、言ってくれれば歓迎したのに」
「いえ、お気遣い感謝します。昨日着いたばかりだったのです。ご挨拶は申し上げようと思っていました……と、いうより、」
トレードマーク、淡々とかわいらしい感じで喋っていた猫かぶり(確か区別名ボガゴンチャーミー)は、ちらっと上目遣いでこちらを見上げ、小首を傾げた。
「もしかして……。わかってしまっていますか」
「……たぶん」
「ひっかけ、でもなく?」
「そう聞く自体、なんていうか……そうなんだろ」
ユウゼンは三毛猫かぶりの黒々とした作り物の目を見つめながら、頬を掻いた。
「シアン」
小柄な猫かぶりは、──ユウゼンにそう呼ばれて、観念したように肩をすくめた。
そして頭に被っていた猫のかぶりものを脱ぐ。
ふわりと、空よりも明るい青の髪と目が現れ、目を釘付けにした。
端正な顔立ちの少年。かつて盗賊に襲われたとき、シルフィードの身代わりに身体を差し出した悲しき傀儡。
とりあえず、元気そうだった。
シアンは猫の顔をその辺に放って、髪を整えながら拗ねたような口調で話し始めた。
「やれやれ……バレるとは思いませんでした。未だかつてなかったことですし、これからもないと思っていました。まあ、両方の姿で会う人自体稀ですしね。改めて、敬意を表します、ユウゼン殿下」
不完全だが不老不死であるところの彼が、顔をしかめながら口を尖らせていると、姿相応の年に思える。ユウゼンは思わぬ再会に気が抜けて、口元を緩めた。あれだけの大怪我だったから心配していたのだ。
「すぐに分かったってわけじゃない……あのとき、初対面の感じがしなかったからな。シルフィの知り合いだったし……それに、気付かない方が失礼だろ」
「否、否。害無き化けの皮を被り、人知れず腹の皮を縒ることこそ逸興。僕の僅少な歓楽を奪うとは何事ですか」
「また人を煙に巻くようなことを……」
シアンは、猫かぶりの時とは随分異なる、抑揚のある喋り方で愚痴った。
「猫を被れば世界が変わる。操り人形は人の世を堂々と歩ける。実に愚かしく愉快なことではないかな、皇子。失礼でしたか、そのようなことは詭弁ですね」
「……悪い。確かにそうかもしれない」
「謝ることはありません。誤ることはあります。例えば、あなたの頭が良いこと。僕が僕だということ。あなたは知らなくてもよいことに気付くかもしれません。それは愚者よりも愚かしい所への道を開くやも」
「は……?」
シアンは白に近い灰色のローブを引きずるようにして、部屋の奥へ歩いていく。天蓋つきのベッドに腰掛けていたドレス姿の女官がすっと立ち上がった。
王女の身代わりをするセクレチアの視線には、何の表情も存在しない。ただユウゼンを見ていた。物を見つめるように。そこには冗談も何もなく、肌が泡立った。
「……シアン殿」
「うん。分かっている。ユウゼン殿下、初めに言っておくと、僕たちは蔑まれたことがある。だから、大切なものを守る時には容赦しない。蔑む者の残酷さをよく知っているからね。その上で、確認しておきたい事だ」
いつの間にかセクレチアとシアンは大窓を背に並び、ユウゼンと対峙していた。
風の音がガラスの向こうで遠く鳴っていた。大きな鏡台の隅で、微かな光がちらちらと揺れた。近い距離は、遠い。遠さは、敵意だった。
「シルフィードの事を本気でなく、覚悟がなく、将来の幸福が欲しいのならば、もうシルフィードには会わないことだ。シルフィードは、美しいが空虚で哀れでどうしようもない人形だから。彼女の言葉も行動も優しさも、空洞みたいなもの。テンペスタリの運命に飲み込まれた壊れた人形だ。あなたなら何となく気付いているんじゃないかな? シルフィードがあなたに近づいたのは、弟のためだけだよ」