清廉道化(4)
目の前に、世にも美しい女神が立っていた。
彼女はこちらに視線を合わせると、途端に心配そうに声を掛けてくる。
『大丈夫でしょうか』
ユウゼンは、なぜそんなに不安そうにしているのかと不思議に思い、どこかぼやけた景色の中大丈夫だと微笑もうとして、
「殿下の心配を無視するとは永遠の眠りについているとしか思えない所業。ここは一思いに──」
「ぎゃあっ!!」
まぶたを開いた瞬間、目の前を銀の輝きが通過して、ユウゼンは完全に覚醒した。
すうっと、本当にギリギリで血が出ない程度に顔の肌が切れたのが分かる。
冷や汗が垂れる。
生命の危機を感じて身構えながら飛びのくと、目の前にあの鬼畜女官セクレチアが座っていて、細いナイフを持っているのが見えた。
殺す気だった。
今、絶対殺る気だった……!
「あ、すみません。果物むいてたら手が滑っちゃって(笑)」
「笑い事ーー!?」
ユウゼンはベッドの隅に避難して、シルフィードが戻ってくるまで追い詰められた小動物の如くガタガタ震えることしか出来なかった。
「よかった! 目が覚めたのですね、心配しました……急な災害で大変でしたね」
幸い王女はすぐに戻ってきてくれた。心底安心したようなシルフィード殿下の優しい心に触れて、ユウゼンは和みかける。だが、その台詞に若干疑問が浮かんだ。
「災害……?」
「その、急に椅子が倒れたのですよ。どうしたのかと驚いたんですが、オズではよくある災害だとセレアが」
「はいそーなんですご愁傷様でしたー」
薄笑いのセクレチアが全くの棒読みで言葉の凶器を放った。なるほどね。どう考えてもおかしいけど事実を口にしたら殺されるに違いない。いじめよくない。
「ああ、やはり腫れていますね……後で必ず専門医に見てもらってくださいね?」
「す、みません──」
シルフィードはユウゼンを覗き込むようにして、手に持った冷えた布をそっとこめかみに当ててくれた。用意してくれたらしい優しさが胸にしみる。
ところで、天蓋付きの柔らかいシルフィードの客室のベッドの真ん中で、密着しているこの状況はどうなんだろうか。自然と顔が赤くなってしまう。ああ、細い手首だ────
そして、
「シルフィード様、ここは私にお任せ下さい。お礼参り──いえ、看病はお手の物ですので」
「!!(言葉にできない)」
「セレア……確かにいつも丁寧ですし、じゃあ、お願いしますね」
待って止めてもう邪なこと考えないです調子乗ってました許してたすけて神様……!
貼り付けた笑顔と巧みな殺気をひしひしと感じながら、結局ユウゼンはセクレチアの守備範囲内でふるえるはめになった。
閑話休題。
数分後、どうにか生命の危機を乗り越え、ユウゼンは覚悟を決めて切り出す。
「あの、先ほどの話になるのですが」
「はい」
結婚、婚約の事だ。ベッドの側に跪くシルフィード王女は、どこまでも落ち着いた様子で相槌を打った。
余裕で勝算がある、というよりも、自分の感情が他人に影響を与えないようにしているのだろうと、そんな風に感じる。
他の貴婦人方に比べればシンプルな部屋や衣装を視界に収めながら、出来る限り真摯に聞こえるよう声を出した。
「少し、考えさせて下さい。シルフィード殿下にとっても重大な出来事ですから。後悔することがあっては悲しいのです」
「それは……」
シルフィードが意外そうに呟いた。じっと見つめられてユウゼンは思わず目を逸らしそうになる。数秒我慢した甲斐あって、あの優しい涼しげな笑顔を見ることが出来た。
「お気遣い、感謝いたします。ですが、私なら大丈夫ですので」
「う……は、はい……」
なんだか、素なんだろうか、一々すごい台詞だこれ。
今度こそ目線を逸らして白壁に掛かった宗教画を見ていると、王女は元気に立ち上がった。
「では、お近づきの印に、私のことは気軽にシルフィとお呼び下さい」
「はい!? そんな、失礼な──」
「結婚を前提としたお友達ですよ? ダメですか?」
「うっ……」
小首を傾げる動作が反則的にかわいらしく、ユウゼンはコンマ一秒で完敗した。
「えっと、シルフィ……」
「あはは、自分で言っといてあれですけど、結構照れますね……!」
わずかに頬を染め、髪をかきあげる仕草も。
結婚を先延ばしにした自分が信じられない馬鹿だと思える。
とにかく愛しくて。
「じゃあ、俺のことも呼び捨てにして下さい。敬語も要らないから」
「え、そ、そんなことできませんよ! 私などがオズ皇国の」
「友達なのに?」
「そう、ですけど……それとこれとは、」
「シルフィ」
「っ……」
みるみる顔を真っ赤にさせて、シルフィは観念したように深呼吸した。律儀に、必死そうに視線を合わせ、
「じゃあ……、ユウ……」
消えるような声だった。
「よく出来ました」
なんだかそれだけのことが途方もなく嬉しくて、それがおかしくて、ユウゼンはこらえきれず笑った。シルフィも、赤くなった頬を押さえながら、結局くすくすと笑い声をこぼした。
いくらセクレチアに胡散臭そうな目で見られても、この瞬間を自分だけのものしてしまいたいと、願った。