酒屋の魔女(3)
「ねえ、怒ってる?」
ビディーがそう聞いてきたのは、行きつけの酒場で頼んだ料理がテーブルに並んだ頃だった。目の前で、野菜スープや燐魚の包み焼きが湯気を立てていた。
ぼーっと食べようとしていたユウゼンは、ちょっとだけ彼女を見て、首を横に振る。
「や、別に、そういうわけじゃない……」
言葉の割には、自分でも暗い声を出していると思う。どうにも上手く制御できないのだ。本当に、自分らしくない。
黒髪の魔女はうつむき気味に言った。
「ごめんなさい……でも、どうしても」
――再会の嬉しさを知らないわけではなかった。
実際ユウゼンだって、一人のときに思いがけなく懐かしい人に出会えば、食事くらい誘っただろう。ビディーだってそういう人には違いない。
だけれど。
今日は、よりによってシルフィと約束していた。マゴニアの王女という配慮は抜きにしても。
よくわからないが、あせる気持ちもあったのだ。結局、あんなにあっさり引かれるとは思わなくて。確かに自分も押されてはっきりビディーの誘いを断れなかったのは悪いが。
怒ってるわけじゃなくて、落ち込んでるんだよ。
口に出掛かったセリフを喉の奥に落とし込み、ユウゼンは思い切ってグラスの酒を一気飲みした。
「もういいって! 飲もう食べよういただきます!」
空腹感もいまいちで、騒ぎたい気分でもなかったが、自棄酒なら余裕で出来そうだった。
「うん」
ビディーもようやく顔を上げて食べ始める。持ってきてくれていた彼女の秘伝という酒は、流石においしくていくらでも飲めそうだった。シルフィ、なにしてるんだろう。頭をよぎるそんな思いが腹立たしくて、ビディーの笑顔と食事に溺れようとする。
「それ、もう空だよ……!」
屈託がないようで、少し臆病さものぞくビディーの笑みは素直で嫌いじゃなかった。酒屋の看板娘らしく、気さくな世話焼きも、年頃の青年なら惹かれるだろう。行きつけの店だったから、常連の連中にからかわれながら、ユウゼンはもうムリだと思うまで、ムリだと思っても飲んで飲んで飲みまくった。
「ね、大丈夫? 歩けるの?」
「だいじょーぶだいじょーぶ……」
夜も更け店を出る。そのときには支えられて歩くのが精一杯という醜態だった。まあ、意識はあるし、最悪の事態ではないだろう、なんてふらふらと考えていた。
「馬車に乗られますか」
すっと、護衛の影が話しかけてきて、ユウゼンは頷いたものの、実際にそうしようとしたところ吐き気に耐えられなくなった。
「ちょ……止まっ……」
ビディーと護衛は慌てたようにユウゼンを外に連れ出してくれる。道路沿いの木の裏側に回って、二度吐いた。咳き込みながら、やけに苦しくて、ひどく馬鹿馬鹿しくなった。疼く心の屈託も全部吐き出してしまえればよかった。
「大丈夫、大丈夫」
ビディーは背中をさすりながら、呟くようにそう繰り返していた。いつの間に用意したのか、水と布を差し出してくれる。収まって、口の中をゆすいで口元を拭き、空っぽのような気分のまましばらく道端に座っていた。
ビディーも隣に腰掛け、同じようにじっと夜の街にうずくまっていた。もう、人も建物も夜に沈んでいる。木の、風に震える音がしみこむように響いていた。
「あたし、初めてこの街に来たとき、別の世界に来たみたいだった」
思い出した。確かに、ユウゼンが初めて目にしたのは、押しつぶされそうな一人の少女だった。
もう、ひどく遠くぼやけた思い出。
「でも、村に帰るってなったときには、本当にイヤだった。ここにいたかった。そう、言いたい人が、……一人だけいた。臆病だったから、何にも言えなかった」
ビディーは、不意に立ち上がった。夜の静寂に波紋を立てることにおびえるように、そっと――
「好きです」
座るユウゼンを正面から抱きしめて、ビディーは言った。
温かい身体を感じ、細い肩越しに見える夜が、揺れた。
まっすぐで、真実の言葉が、ユウゼンの心の一番弱いところを傷つけた。
このまま抱きしめ返そうか。
なんて。
頭の冷静な部分で考えているだけなんだ。
柔らかい緑の幻影がいつまでも脳裏に揺れていた。
遠くに憧れて、消えてしまうだけの信じられないほど美しく優しい瞳。
こっちを向いてほしい。
そう願っていただけで。
滲んで、零れ落ちた。
「俺は――あの人が、好きだ」
呆然と呟いた。ビディーがゆっくりと離れた。闇の中で、ビディーは泣いていた。でも、泣きながら、笑っていた。
「泣かないで……」
いつか、彼女にそう言った気がした。
夜の片隅で。
暖かい手が濡れた頬を包んで、温めて、離れていった。