酒屋の魔女(2)
――孤独で、寂しくて、きっと浮いていたんだろうと思っている。
ビディー・アーリーが初めて首都アレクサンドリアに呼ばれた二年前のこと。
生まれ育った顔見知りばかりの村から、迎えに来た立派な馬車に乗って、一人きりで王城の前に降り立った。初めてその地に足をつけたとき、見上げて、立ち尽くしてしまった。アレクサンドリアは煌びやかに物と人で溢れ、大きくて整然としているのにざわめき、賑やかなのに誰も知らなくて、時間という時間が急いで走り回っているみたいだった。
『アレクサンドリアに招待いたします』
突然立派な身なりの役人がやってきてビディーにそう告げたときには、胸が高鳴った。
切実ではなかったにせよ、少女らしく村の縛りが息苦しくなるときがあった。ビディーの家は酒屋で、ビディーは看板娘として毎日同じ人々に同じように対応していたのだ。時々町へ出たり、友人と集まったりはしたけれど派手なことも出来ないし、時々、ずっとこのままここでこうしているのかな、と寝る前に考えた。
だから、偶に旅人の客がやって来たときには嬉しかった。知らない、流行や信じられないような事件、大きな街の話を聞いて、いいなあと憧れた。
一つだけ人とは違うことができた。魔術だ。まだ、オズでは珍しい魔術の素質があって、お酒を飲むことで自然とイメージを捕まえることが出来た。勉強して、それがはじめて「認識」なんだと知った。手品みたいにすればお客に喜んでもらえるし、それが噂になってビディーの酒は不思議な力が宿っている、なんて評判にもなった。
だからだろう。
オズでは非常に珍しい自然魔術師として、王城に招待された。
嬉しくて、何を考えることもなく、二つ返事で了承した。村の友達も羨ましがった。大人たちは心配していたけれど――それだって、そのときは煩わしいとさえ思った。
ここから出られる。
少しの間、自由なんだ。
考えるだけで、心が浮き立った。
なのに、――実際に来てみれば圧倒され、ただただ流されるだけだった。
城に、小さな部屋を与えられて、しばらくぽかんと外に広がる街を見ていた。見慣れぬものばかりで、混乱してしまいそうだった。
着いてすぐ、城にふさわしいようにと衣装を着せられ、城の侍女に大体の行動範囲を案内された。行っていい場所、だめな場所、大広間、サロン、食堂、庭園、部屋への通路。本当に簡単に、挨拶や礼もならった。ビディーはなんだかくらくらして、上手く覚えられなくて侍女を呆れさせてしまった。疲れてるんだ。いつもは、大丈夫なのに。そう言いたかったけれど、どうしてか、言えなかった。
「あなたは、何が出来るの?」
同じように城に呼ばれた楽団や、曲芸団に声を掛けられることもあった。
彼らは集団で、一人でいるのはそのときはビディーだけだった。旅人の気さくさはあったが、仲間になれるはずもなく、そのとき初めて一人で寂しいなと感じた。
こんなに人が居るのに。
こんなに、人が居ても。
自分が、とても小さく透明に思えて、居場所が見つけられなくて、絵本の中のような現実味のない城中の部屋から、ずっと外を眺めていた。
「魔術を披露して下さい」
そう言われるまで、長かったのか短かったのかよくわからない。アレクサンドリアに来て三日目だった。
「魔術、ですか?」
「ええ。もしかしたらオルシヌス陛下もご覧になられるかもしれません。頑張って下さい」
そのために呼ばれたんだ、とは思っても、驚いて声が震えた。まさかそんなに大事になるなんて考えもしなかったから。余興、程度なのだろうけれど。でも、この国と重なる人、こんな夢のような街に住む人達を田舎の小娘が楽しませるなんて、本当に出来るのだろうか。ビディーは息が苦しくなった。
出来ない。
全然自信がない。
でも、今更出来ないなんて言えるはずがない。
そのときは魔術を容易に使うためのエレメントなんて当然なかったから、本番前の舞台裏で、ビディーはいつも以上に酒をあおっていた。酒を飲むことで、大体いつもふっと深層に入っていける。でも、不安に押しつぶされたままで、上手く感覚がつかめず、あせっていた。
披露する会場では楽団が演奏を行っており、時折歌声が漏れてくる。この後が出番だ。堅苦しい感じはないようだが、明らかに見たこともない雲の上の貴族たちばかりで、その華やかさと美しさがビディーを余計に萎縮させた。
器量がよいなんて村では言われていたけれど。地味な黒髪に黒目、癖の強い髪。特別容貌が優れているわけでもなく、体つきも普通。少しくらい化粧をしてごまかしても、都会の令嬢たちに適う訳がなかった。その上失敗したりしたら、絶対許されないに決まっている。もしかしたら村にまで迷惑がかかるかもしれない。
頭を振って、酒をのどに流し込んだ。
味がしない。
ただ、熱い。
「ではどうぞ、こちらへ。出来る限り失礼のないようお願い致します」
いよいよ侍女に案内され、ビディーはふらふらと進んだ。
本当に歩いているのかどうか、よくわからない。酔いでぐらぐらする。顔は、真っ赤かもしれない。逆に、真っ青かもしれない。
帰りたい。
ふっと頭をよぎった切実な本音を、すぐに忘れようとした。必死に握りつぶしている間に、目の前には煌びやかな人々がたくさんいた。声を上げそうになって、なんとか押しとどめた。震える。そんな場合じゃない。早く、しないと。教わった礼をとる。全然上手くいかない。少しだけ、笑い声が起こった。恥ずかしい。楽にならない。
「炎を、出して操ります……」
うわごとの様に言い、目を閉じた。集中できず、とても深層に届きそうもなかった。どうしても周りを意識する。酒が、気持ち悪い。そんなこと気にしてる場合じゃない。こんなところじゃムリ。お願いだから。ああ、なんでダメなの――
地獄のような時間だけが過ぎ、不審げな囁き声が聞こえた気がした。一分が何時間にも思われた。嘘。嘘なんじゃないの? そんな呟きが耳に入ったとき、ああ、もうダメだ、と心が崩れた。
何も考えられなかった。涙が溢れ、視界がぼやけた。炎を見るために薄暗くしていたから、ろうそくの明かりだけがちらちら揺れていた。
帰りたい。
帰して。
贅沢な事を考えたり、もうしないから村に帰して。許して。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――――
「――はべろっ!!」
「!?」
その直後、どこからか盛大な奇声が上がった。若い男の声だった。
当然辺りは騒然となり、どうやら重要人物だったのか、ばたばたと一斉に明かりがともされる。
ビディーは想外の事態に、涙もひっこんだ。
「ユウゼン様っ?」
「どうなさいましたか!」「敵襲!?」
「あ、の、えっと、なんていうか……」
皆が注目したその場に居たのは、なんだかひどくばつが悪そうな、シンプルな身なりの青年だった。地味だが端整な顔立ちで、それなのに、遠慮なく衣装を料理で台無しにしている。食べようとして、自分に向けて全部ぶちまけた、という感じだった。
そばで慌てていた従者が、事態を理解したのか動きを止めて彼に白い目を向ける。
「……ユウゼン様?」
「ハハハ、その、ちょっと、零してしまった、みたいな?」
「みたいなぁ? ちょっとぉ?」
「す、少し」
「少しぃ?」
「いや、だいぶ……」
「だいぶぅ?」
「ごめんなさい、かなり、いや全部です俺は馬鹿です終わってますすいませんすいません……」
明らかに身分が高い上席なのに、従者にぺこぺこしている青年。辺りは苦笑も含め、大きな笑いに包まれ、カカシ、なんていう声も聞こえてきた。結局、彼はそのまま退室することにしたようだった。
不意に、声が聞こえた。
「あ、でも俺、彼女の魔術が見たいから、一緒に」
「え……?」
「実は前にも見たことあるんだけど、そのときは感動したな。もう一回個人的に見たいから」
そうだったのか、と会場は和んだ空気に押されて、納得してしまったようだった。どうぞこちらへ、と彼の従者が人のよい笑顔を向けてきて、ビディーは反射的に従っていた。
彼の背中だけを追っていた。わからなかった。カカシ、という単語。カカシ皇子、と国民にとても親しまれている第一皇子がいた。そうなのかもしれないと、ぼんやり考えた。次期皇帝と確実視され、とてもじゃないけれど関わることなんてなかったはずで。
入ってはいけないと言われた城の奥まで歩くと、彼は止まった。部屋の前。振り返った顔はやっぱり端整で、でも少し困ったような、ひどく親しみ易そうな印象だった。それでもどうしていいかわからなくて、心臓が跳ねた。
「えーっと……どうする? なんか食べる? しばらく、部屋に居てくれたら帰すからさ」
「あ……すみませ、いえ、申し訳、ございません……わ、たくし、」
「いいよ普通に喋ってくれた方が。同じくらいの年だろうし。ん? 違うか?」
「まあユウゼン様は、敬えるような部分が皆無ですからお気楽に、ビディー様」
「うわー断定されたー」
やっぱり、そうなんだ。
ユウゼン殿下とわかり、しかしそれ以上に気軽過ぎる雰囲気に戸惑っていた。彼は部屋に入ると、ビディーを小さなテーブルの前にある椅子に座らせ、衣装室に入っていった。おそらく彼の私室で、流石に豪華だが、頻繁に市井の商品が置いてあったりと温かい部屋だった。
見とれているうちに、着替え終わった彼が出てきて、同じタイミングで料理が目の前に運ばれてくる。簡単な、パンとスープとフルーツの盛り合わせ。
ユウゼンは目の前に腰掛、ビディーに食べるように薦めると、自分も祈りを捧げて手づかみでパンを食べ始めた。
「やっぱ豪華すぎるのもあれだよなあ……。これくらいがちょうどいい」
酔って、眠ってしまって、夢でもみているのかもしれない。
本物みたいで、暖かくて心地のいい夢。
「あたしの、こと……知らなかった、ですよね?」
「ん?」
食べながら書類をめくっていたユウゼンが顔を上げる。目が合うと、少しだけ恐怖と緊張がよみがえり、ビディーは息をのむ。深くて、優しい、あるいは様々な感情を流し込んだ海のような、黒に近い茶色の瞳だった。ビディーが見たこともない瞳だった。彼だけのもの、という気がした。
どうして嘘をついたんだろう、と気になって仕方なかったから、ついに聞いてしまって。彼が自分の魔術を見たことがあるなんて、嘘だ。
――まるで、助けてくれたみたいに。
彼はすぐに気まずそうに目をそらして、ぽつりと口にした。
「どうだったかな。知ってたような、知らなかったような」
「あたし、魔術が、上手くいかなくて、」
「あんなところじゃ仕方ない」
「インチキ、かも、しれないですよ……」
「そうなのか?」
不意に、彼が笑った。
そんなことないだろう、と包み込むような笑みだった。たとえ、本当にインチキだったとしても――
「泣くなって……」
孤独が、溢れてきて止まらなかった。これは涙なんかじゃないんだ、と思った。寂しさ。孤独。望郷。緊張。当てはまっても言い表せなかった。
寂しい。帰りたかった。ここは、自分の世界じゃないみたいだった。一人だったんだ。あたしはここにいても、ここにはいなかった。ビディーは泣きながら、何度もそう言って凍った心を溶かした。
「もう、ここにいる。帰ってもいいし、居てもいい」
一瞬だけ彼の手がビディーに触れて、離れた。
それからビディーは、泣きつかれて、テーブルに突っ伏して眠ってしまった。気づいた時は朝で、びっくりするほど心地いい寝台の上だった。ぼんやり辺りを見回すと、眠る前と同じ部屋で、早朝の白い光が執務机で眠っている彼の姿を照らしていた。
ビディーは、そっと近づいて、肩に手を掛けようとした。
邪気のない横顔。
なぜだか泣きそうになって、触れられなくなった。ずっと見ていたいのに、まともに見れなかった。
ビディーは結局、片隅の窓際に椅子を引っ張ってそこに座り、窓の外を眺めた。
美しく広がる金緑の建造物。広場や大聖堂、大門、囲むように流れる豊かな川の流れが見渡せた。
彼は従者に起こされて目覚めてからも、部屋に居続けるビディーを咎めたりはしなかった。それどころか食事なども用意してくれ、偶にたわいもないことを話しかけてきたりした。ビディーは大抵黙って部屋の隅に座り、彼が仕事をする姿を眺めていた。驚くほど真剣で、いい加減な様子など微塵もなくて、それだけでいつの間にか時間が過ぎていた。
「アレクサンドリアも、そんなに悪いところじゃないんだ」
夕方になって、仕事が終わると、ユウゼンはそんな風に言ってビディーを街に連れ出してくれた。その夜は夢のように楽しかった。いろんな物を見て、気取らない人々と仲良くなった。
それ以来、ビディーはアレクサンドリアに滞在する間、出来る限りユウゼンの傍にいた。村へ帰る別れの朝、どうしようもなく胸が一杯になって、見送ってくれる彼の姿をじっと見ていた。一秒でもいいから長く見ていたかった。傍に置いてと、言いたかった。声を出せば泣いてしまう。だから、どうしても言えなかった。
「またな」
手を振っている。
――あたしは笑えないけど、笑っていて。
遠ざかる街を見ながら、いつまでもそう祈っていた。