酒屋の魔女(1)
あの、異形達に関わった出来事が幻だったかのように、アレクサンドリアでの日々は明るく穏やかに進行していた。
ユウゼンはカラシウスに遊ばれ、セクレチアに時折蔑まれ貶められながらも、めげずにシルフィードとの時間を確保しようとしていた。幼少より飽きるほど過ごしてきた場所なのに。シルフィが居るだけで新鮮に感じられ、不思議な気分になった。
「シルフィ、もしよかったら今日は劇場に招待するよ。知り合いの作家が新作を披露するらしくて。知ってるかな? アイボリー・ピアロって奴」
「しっ……」
いつもの半死にの仕事終わり。セラストリーナとの楽器の練習を終えたらしいシルフィを捕まえて提案すると、王女は目を丸くしてこちらを向いた。綺麗なシルヴァグリーンの瞳が、何だか猫に似ていた。
「知ってます……! 彼の"エアリアル・スノウ"、簡単な台本しか見たことがなかったのだけど、ぜひ本物を見られたらと……」
「よかった! 今度のは喜劇らしい。シャンデリエっていう題目で……」
文化・芸術の話ならいくらでも喋れる。セラストリーナの部屋の前から廊下を歩き長い階段を降り、結構な距離があるにも関わらず気づけば城の入り口を抜けていた。
そしてモリスに手配を頼み、庭園でシルフィと談笑しながら馬車を待っていると、ふと走ってくる人影が見えた、ような気がした。
というか、実際そんな生易しい出来事ではなかった。
強烈だった。
具体的に言うとタックルだった。
「ユ、ウ、さ、ま!!」
「ふべろっ!?」
ありえない。なんでやねん。なんかした? したっけ? タックルされるようなこと?
そんな、まさかの激突する勢いで腰に抱きついてきたのは――
「お、お前、……もしかして、ビディー? ビディー・アーリーか?」
本当に辛うじて受け止めて、衝撃から立ち直ろうと四苦八苦しながら声を出した。地味な黒のミニドレス、強いウェーブのかかった黒髪を無造作に一つにくくった見覚えのある少女。
神秘的で大きな黒い目で、真っ直ぐにこちらを見上げてそれは嬉しそうに笑っていた。
「そうです! やっぱり覚えててくれたんだっ……あたし、今年またお城に呼ばれてね、ユウ様に会えたらなって、そしたら、ほんとにっ」
「わ、わかった、から」
とりあえず落ち着いて欲しい。
お願いします。
そんなささやかで切なる願いはどうやら伝わらないらしく、少女――ビディー・アーリーはユウゼンの両手を掴んでぶんぶん振り回していた。しかも、途中でシルフィに気づいたらしく、はたと動きを止め、むっとした表情をしてしまって。
「……そういえば、この人、誰?」
「あほう! 失礼すぎてすいません! こちらはかのシルフィード・オブ・マゴニアだぞ!?」
いきなり睨むなんて、とんでもないことをしでかす。
とっさに叱責すると、シルフィが戸惑ったような表情をすぐに消し、いつものように笑った。
「初めまして、私、マゴニアから参りましたシルフィード・フリッジ・テンペスタリと申します。よろしければ、お見知りおきを」
「あ。うんと……」
優雅で柔らかい挨拶に、流石のビディーも一瞬見とれたようだった。小さな声で「そっか、お姫様」と呟く。それから少し間をあけて、不承不承という感じで自己紹介を始めた。
「あたし、ビディー・アーリーといいます。アイナという村で酒屋の店員をしてて、魔術が使えるから、偶にこうして呼ばれて、披露したりしてます」
そう、ビディーはオズ皇国では珍しい、自然魔術師の素質があった。そのため以前にも見世物として城に招待されており、ユウゼンはそのとき初めて魔術を見た。その際、やけになつかれてもしまったわけであるが……。
ビディーは義務的に言い終わると、ぱっとこちらを振り仰ぎ、明るい笑顔で言い募った。
「ね、ユウ様、今からヒマじゃない? あたしとご飯に行かない? こういうこともあろうかと、うちからおいしいお酒持ってきたんだよ!」
「あ、いや、実は今から……」
「一回でいいからさ、お願い! どうしてもだめ? 絶対ムリなの? あたしとはイヤ?」
「う、その、」
「どうぞ、行って来て下さい。私はまた今度でいいですから。せっかくの再会ですし」
「え゛」
そして。シルフィの優しい声が、今確実に心を突き飛ばしたような気がした。若干頭がくらくらした。
だってビディーのことが嫌いというわけではないが、やっぱり今日は、シルフィと劇場に行きたかったわけで。先に約束して、演劇も楽しみにしてくれていたわけで。なにより、ちょっとは自分との時間を楽しみにしてくれてるんじゃないかと思っていたから。
「そう! ありがとう。ね、行こうよ!」
ビディーが左腕に手を絡めて、歩き出した。
シルフィは一礼して本当にあっさり城の中へ戻っていく。
ユウゼンは引かれるままに歩きながら、半場呆然と王女が消えた入り口を眺めていた。