帰還と帰郷 〜To alIskandariya〜
「シルフィード様お待ちしておりました!」
「がぼばっ!!」
そうして懐かしきヘテロクロミヤのアカシア皇宮へ帰還した途端、ユウゼンはセクレチアに顔面へこまされましたとさ。
残念無念。
逆にセクレチアに抱きしめられながら、シルフィードは一発KOされた皇子を見て慌てている。
「ゆ、ユウ──」
「大丈夫ですよ。ユウゼン様の顔に刺されたら即死する猛毒の虫が付いていましたので。もう取れたと思いますよ」
「そう……それは危ないところでしたね……」
いえいえいえ。そんなわけないけど、どうやらまだ危険は去っていないような気がします。恐い。セクレチアの視線が。待ってやめてまだ遣り残したことが。
すごく感情のない、それゆえに恐ろしさが伝わる声で、鬼畜女官が言う。
「シルフィード様……どうして、お顔が腫れてらっしゃるのですか……? 足にも、包帯が巻いてあるようにお見受けしますが──」
「あ、これは」
てめえ何怪我させてんだコラふざけんな畜生そうかそんなに死にたかったのか上等だ鶏地獄落としてやる期待してOK、というセクレチアの氷点下の視線に、ユウゼンは返す言葉もありませんでした。
もう生き延びる道はありません。潔くハラキリか落下かそれとも吊るか、考えていると、シルフィードが頬を掻きながら笑った。
「これは、皆が守ってくれたから、こんなに大丈夫だったっていう証……かな」
「え……」
そんなことを言われるとは思っていなくて。ユウゼンもセクレチアも顔を上げて、ぽかんと口を開けてシルフィードを眺めていた。そんな風に言われたら、思わず赤面してしまう、というか……。
シルフィはそんな様子には気付かず、逆にセクレチアの手首に触れた。
「セレア……どうしたの? 包帯。何か、あったの?」
「ああ、ちょっと掃除してたら打ってしまっただけですよ」
セクレチアはいつもの無愛想でさらっと受け流していた。しかし確かに、セクレチアが怪我をしているなど違和感がある。
シルフィは眉をひそめたままそっとセクレチアの手を取る。軽く口付け、数秒自分の額に押し付けた。
「早くよくなりますように」
ありきたりなおまじないの言葉なのに――セクレチアの頬が赤く染まるのが見えて、ユウゼンはなんて珍しい出来事だろうと呆けてしまった。たぶんそれだけ、王女の役得は素晴らしいものがあった。あなたが必要で、大事だと、いつでも純粋に伝えてくれる。そうされると、自分という人間を許してもいいような気持ちになる。
でも、そんなシルフィが安堵する瞬間はあるのだろうかと、思い始めていた。他人を心配する姿、助ける姿、期待に応える姿、それがあまりにも多くて、少し恐くなる。
とまあ、せっかく人が真剣な考え事をしていたというのに、一体なんなのか。雰囲気をぶち壊す従者・モリスが現れて、礼儀も忠義もなく人のことを指差しやがった。
「ユウゼン様、生きてますね!」
「生きてるよ! なんなんだその直接的過ぎる確認方法! 見ればわかるだろバーカ!」
色々あって死に掛けてようやく帰り着いた主人にたいして、ひどい出迎え方だった。
いらっとして思わず口が悪くなる。けど、シルフィードの前なんだし。ちょっと控えなければ。
そんなユウゼンの涙ぐまし(くはな)い努力を無視して、モリスはトンデモ発言を連発した。
「そのつっこみ、お元気そうで至極結構ですね! 仕事溜まってますから! あとオルシヌス陛下から偶にはアレクサンドリアに帰って来いとお達しが御座いました! さあ仕事をお供に行きましょう!」
「行かねえよバーカ!!」
「えー」
もうだめだこいつは。なんだろう、最初は平凡で普通すぎて何も言うことがないような人間という設定だったのに、いつの間にか筆舌尽くし難い性格になっているなんて。あ、もしかして実はモリスって何人かいるのか。はいはい、納得納得。
「頭大丈夫ですか?」
「ていうか、心を読むなよ……」
「あはは、読んでないですよ、ただ台詞が心に浮かんできたんです」
それもかなりどうかと思うが、そんなことは置いておいて。ユウゼンはモリスの言ったことをちょっと考えてみた。仕事が溜まっているのは予想していたことだから別にいい。問題は皇帝である父親からの呼び出しだ。何か用事があるならば行かなければ仕方ない。だがどうもそうでもないような。たぶん、姉のラティメリアは嫁に行ってしまって取り合ってくれないし、妹のセラストリーナは引っ込み思案だし、弟のカラシウスは性格的に冷たくて取り合ってくれないからユウゼンでも呼んどくか、みたいな?
絶対帰らない。意地でも帰らない。
ユウゼンは断固拒否を仕草で示し、
「首都、アレクサンドリアか……」
「え?」
そのとき、シルフィが唇に指先を当てながら、小さく呟いたのが耳に入った。遠くを見るような、それは例えば、遠くへ行く人を見送るときのような。
ぴんときた。もしかして────
「シルフィ、アレクサンドリアに行ってみたいんですか?」
「え? え、えっと、それは、その、いえ、…………」
「?」
少女は聞かれた瞬間ひどく動揺して、なにかとんでもないことをしてしまったかのように、声を上ずらせた。なんだろう。ユウゼンは首を傾げ、もう一度聞いてみる。
「アレクサンドリアが気になる?」
「そ、の、……以前から、金緑の都と、名高く、マゴニアでも噂を……聞いていて、だから、少しだけ……」
そうか、と途中で気がついた。
シルフィが自分から無意識にでも衝動的に何かを望むのをみたのは、ユウゼンは今が初めてだった。異形討伐の事情はきっとそういうことではないのだろう。子どもがおもちゃを欲しいというように。町人が酒を飲みたいと思うように。貴婦人が宝石を求めるように。
もちろん、一国の王女だったりすれば、わがまま放題をするわけにはいかないだろう。でも、全部押し殺してしまうのは違うし、欲求があるのは恥ずかしいことじゃない。
「俺、子どもの頃旅人になりたかったんだ」
だから、考えながら話す。シルフィードは、うつむいていた顔を、少し上げた。
子どもの頃の話。
今でも実は持ち続けている気持ち。
「オズも、まだ見て回りたい。いつかマゴニアにも行ってみたくて、ティル・ナ・ノーグも歩いてみたい。広大だっていう葦原の、首都高天原に行ってみたい。北の島ヘルヘイム、ニヴルヘイム、イーハトーブにも。それにずっと南にあるっていうエル・オンブレ・ドラドは黄金の島だとか。東には全然違う文化の国、アガルタ帝国だとか崑崙虚、幸福の地ニライカナイっていうのもあるらしい。いつまでもそんなこと考えてるとか、馬鹿かな?」
シルフィは反射のように首を横に振った。
「全然……! そんなことは、」
「よかった。こんなんだから、わかるのかもしれない。もしシルフィがアレクサンドリアに行ってみたいんだったら、一緒に行こう」
出来るだけ少女が考え込んでしまわないように、畳み掛けた。
そのときシルフィが涙ぐんだように見えたのは光の加減だったのか。
驚くほど、印象的で綺麗だった。
「ありがとう。行ってみたかった、アレクサンドリアに」
戻ってきたばかりのヘテロクロミヤ・アイディスから西の都アレクサンドリアへ。
そうして、絶対帰らないと決めた三分後にアレクサンドリアに帰ることにしたユウゼンを、モリスは長らく白い目でみていました。