胎動の声 鉄鎖の白刃(7)
今度こそ、確実に、その異形は息絶えた。
「はあ、はあ……」
返り血を呆然と拭いながら、シルフィードが肩で息をしている。今にも倒れそうなほど、青ざめた顔色をしていた。それでも一歩ふらついただけで、周囲に目を向けた。ヘリエルはすでに毛皮のない一頭を屠っていた。ランザは苦戦している。シルフィードは、ただ反射のように、そちらへ加勢についた。血の匂いを嗅ぎつけたのか、新たな異形が姿を現すのも見えた。
そして、
自分は。
こんな所で?
一体何を、
ヤヌートが眼前で警戒しながら、背中越しに厳しい声を発した。
「無理をしないで下さい。あなたはこんなところで死んではいけない人です」
「……そんなことは」
「わかってますか? そうですね。俺も、ランザも、おそらくあの方々もそんなことは分かっているでしょう。だから守る。あなたが死ぬとしたらおそらく、我々全員が死んでから。最後の最後でしょう。見えないところでも、どんどん屍は積みあがってますよ。あなたの死のかわりに。黙許しますか。目の前で、あなたのために人が簡単に死んでいくのを」
「──誰のことを騙ってる!」
耐えられなくなってユウゼンが怒鳴りつけると、ヤヌートは振り返った。逃げ出したくなるような、澄んだ眼光だった。
「尋ねているんですよ。そうやって、権力で押し切るだけの力も資格もあなたにはある。それは強さかもしれない」
冷や汗が出て、身体が震えた。聞きたくない。
聞きたくない。
ヤヌートはそんな声無き声など、完璧に握りつぶしてみせた。
「あなたは、あなたの中途半端さのせいで他が死んでいくのを、許容するんですか?」
“世界は、そうであると定められている”
幼年時代。それが、ユウゼンが世の中に対して悟った最初にして最後の真相だったのだと思う。
首都アレクサンドリアの王城と、その周辺が全てだと思っていた子どもがいた。物心つくか、つかないかという子ども。子どもは、その全ての中で自分は自由だと、何でも出来、誰とでも話せるし、いつか願い、何にでもなれるのだろうと、小さな子どもにありふれた未来の夢を見ていた。
ある日、城に旅する音楽家がやって来た。子どもはその音楽家からたくさんの演奏を聞き、多くの話を聞き、驚きと共にひどく憧れた。演奏はもちろん素晴らしかったけれど、それよりも、世界という見知らぬ、広く悲しく愉快で恐ろしく、不思議な世界に惹きつけられて。
子どもは見つけた夢がいつか叶うことを、疑いもせずに大人に話した。大人は、曖昧に笑って言った。
『あなたは旅をすることが出来るでしょう。ですが、旅人になることはできません』
どうして? なんで? 旅ができるのに旅人にはなれないの? じゃあ、何でもできるっていうのは、どういうこと?
大人は、曖昧に笑って今に分かりますよと言った。
それから日がたたない内に、子どもは友達から祭りに行こうと誘われた。水を蒔いて、花を撒く。それが面白そうだから、行ってくると大人に話すと、大人は首を振った。
『あなたは祭りを見学することは出来るでしょう。ですが、参加はできません』
子どもは泣いて頼んだが、結局そのうちに一日は終わってしまった。
それから、子どもらしく不満を持ち続けていた子どもは、考え、ある日それを実行した。そんなそぶりも見せず、上手く人の目を盗んで城から抜け出した。
眺めてはいたが歩いたことのない街は、巨大で、煩雑で、恐ろしく、けれどその分心臓がはちきれそうなほどどきどきして面白かった。子どもは上手いこと、街をふらつく本当に危険ではないが正義感とは程遠い小悪党の男を味方につけて、自分の装飾品を売ったり馬車に潜んだりして城下を出た。調子のいい小悪党は今まで接したどんな大人より大人らしくなく、粗雑でろくでなしだったけれど、情に厚く、気安く、豪快で頼もしかった。何かもよく分からないものを手当たり次第食べたり妖しい店に連れて行かれたりインチキ興行に文句を言ったりスリをしたり失敗して死ぬほど逃げたり名も知らぬ人々と怒鳴りあい笑いあったりしながら、子どもは、これが世界なのだな、と身体全体で理解した。
貧しさや、悲しさも知った。それは小さな女の子の形をしていて、子どもにぶつかるようにしてお金を盗ろうとした。子どもはとっさにお金を庇って、小悪党は女の子を蹴りつけようとした。子どもは小悪党を諌めて女の子と話をした。知らない世界を聞いて、知らない世界を聞かせた。女の子はその内ひどく謝るようになり、子どもは気にせず女の子と友達になった。狭くて大勢が暮らす不衛生な場所で、慣れない仕事を手伝い、くたくたになって星を眺めた。いつかここを出るわと言った女の子に、小悪党もそうしろそうしろと煽って、じゃあ三人で旅人をしようよ、と子どもは言った。夜が明けるまで、そんな話をしていた。
子どもは翌朝すぐに連れ戻された。
怒られ、心配され、今まで以上に大人に囲まれるようになった。別にもう、抜け出す気はなかったけれど。ただ小悪党と女の子に会わせて、と頼んだ。友達だからと。
大人は厳しい声で言った。
『少しなら会わせてあげてもいいでしょう。ですが、友達にはなれません』
子どもは頭がよかった。神童といってもいいくらいに頭がよかった。だからこれまでのことを総合して自分が思っていたことや大人が言ったこと、それを検討した結果をすぐに出すことが出来た。
要するに、
――世界は、そうであると定められている。
定められた中で自分は自由で、許される中で何でも出来、特定の誰とでも話せるし、決められた範囲内で何にでもなれる。すなわち、定められた範囲外では不自由で、許されないことはしてはならない、不特定の誰かとは話してはならなくて、決められた範囲外の何かにはなれない。
それは例えば子どもが王の子であるからというわけではないと、子どもは知っていた。例えばあの小悪党にだって、定められた範囲がある。誰とでも話せるわけではないし、何でも出来るわけではないし、何にでもなれるわけではない。女の子もそうだ。出来ないこともあるし、出来ることもある。女の子の範囲は、きっととても狭い。生まれた場所、身分、親、近所、環境、とにかく、そんなもので範囲は定められる。そこからあえて出ようとすることは出来るのだろうか。出来るかもしれない。ほぼ確実に出来ない。それはきっと死に近いこと。そう。そうなんだ。そういうことか。
それが、ユウゼンが世の中に対して悟った最初にして最後の真相だったのだと思う。
ユウゼンはそれ以来深く考えることを止めた。努力することも止めた。もともと頭は悪くないから義務を果たすことに問題もなく、義務を果たしていれば「決められた範囲」から落ちることはないと知っていた。面倒で、定められた範囲内で自由に振舞うことにした。高尚な趣味、文化、咎められないくらいの付き合い、とるにたらない遊びの数々。定められた未来の皇帝。決定事項を怖がっても何の意味もない。
不満も不安もない。
そう出来ているんだから、あったって仕方がないじゃないかと、思った。