胎動の声 鉄鎖の白刃(5)
宿場町は旅籠、木賃宿、茶屋、商店などが立並び、その宿泊、通行、荷物輸送などで利益をあげていた。ユウゼンとシルフィードが辿り着いた時にはすでにあたりの日は落ちて、通りにはいくつもの灯が誘うように闇を照らしていた。大都市ヘテロクロミヤ・アイディスと他国を繋ぐ主要街道だけのことはある。町は活気に溢れ、商人、食べ物の匂い、一夜の宿を求める人々、いかがわしい引き込みなど様々な要素が交じり合って、まるでそれは一つの流れのように蠢いていた。
用心深くフードを目深に被ったシルフィードはすぐにヘリエルの姿を見つけ出して、手を振った。
「首尾は?」
すらりと体格のよい金髪の武官は人波をすり抜けながら頷き、持っていたランタンを持ち直して、何か手話のような仕草をする。シルフィードは頷いて、ユウゼンを振り返った。
「あまり、寝心地はよくないかもしれませんが……よろしいですか?」
「うん。俺寝るのは得意だから」
真顔で大仰に肯定してみせると、やっとシルフィは少し頬を緩めて笑ってくれた。
そしてヘリエルに続いて歩き、少々うらぶれた雰囲気のあるごく普通の宿泊施設に辿り着く。ヘリエルは馬を厩に預けるのもそこそこに、シルフィードを人目に触れさせないように二階の部屋へ案内した。八歩程度で奥まで行き着く広さで、ほとんど四つのベッドがあるだけの部屋だった。
「お先に少し、休みますね」
そう断って、食事もしないまま、外套を脱いだシルフィードは右端のベッドに横たわった。ユウゼンが何か声を掛ける暇もないような早いタイミング。疲れているような表情は見せないのに、本当は随分無理をしているのかもしれない。
ため息が出そうになり、しかし同時にヘリエルに何か合図をされて、ユウゼンは数秒その意味を考えていた。お腹に手を当てたり、何かを飲む真似、階下を指差し、首を傾げられる。
「ああ、食事?」
金髪の武官はこくりと頷いた。意思が通じると、どことない達成感があった。
ユウゼンは空腹だと肯定して、ヘリエルの案内で一階へ降りる。一階はそこそこに賑わう食堂で、二人で並んで栄養のありそうな肉料理を食べた。雰囲気と疲れが相俟って、ずいぶんとうまかった。
「ヘリエルは、喋れないのか?」
その間に、ユウゼンは今更なことだが、その問いをぶつけてみた。
武官は少し考えるような仕草をして、ゆっくりと首を横に振った。喉に微かに右手で触れた。
いいえ、声が音にならなくなったのです。
周囲のざわめきに混じって、ほとんど聞こえない無声音で、ヘリエルははじめてユウゼンに向けて喋った。
「……ずっと?」
いえ、兵になってからです。
「そっか──シルフィとは、いつから一緒に?」
それからそんなに経たない頃です。
「知ってたのか」
殿下が、声を掛けてくれました。
「シルフィが」
幸運でした。幸福です。出会うために、無くしたのだと思います。
少しずつ、動作を加えながらユウゼンはヘリエルと話をした。思慮深く忠実で思いやりがある。静かだ。安心できる。少し感動しながら、ユウゼンはヘリエルの声を聞いていた。気付けば酒を勧め、自分も口をつけている。その内にヘリエルは言った。柔らかい微笑で、それなのにほんの少しだけ苦しそうな、何かを堪えるような表情だった。
──シルフィード様を、よろしくお願いします。あなたなら、きっと大丈夫です。
押されるように頷くと共に、ユウゼンは確かに動揺もしていた。もしかして。そうなのか。いや、そうって、よく分からないのだが。なぜヘリエルはそんなことを言うのだろう。いや、今まで散々デートであるとか、誘っているわけだし、おかしくはないけれど。それにどうして自分は動揺してしまうのか。いやいや、そんなのは、それは──
「うん! そろそろ戻ろうか!」
これ以上というより以下がないようなわざとらしい台詞でぶった切ってユウゼンは席を立った。後ろめたい。そういう種類の感情が後を引く。
ヘリエルは何も言わず、シルフィードのために食事を用意して、二人で二階に上がった。シルフィは寝息も立てず、まるでそこにはいないようだったが、ヘリエルが近づくと身を起こして小さく礼を言った。
それから、後は寝るだけで、明日にはいよいよ異形を排除しなければいけないのだからと早めに目を閉じた。眠気はすぐに襲ってきて、沈むような暗闇の中で、遠い微かな音を耳にしたような気がした。例えば、足音。扉を開けて、外へと出て行く、ような、そんな────
「……?」
いや、そのままだ。
はっとして、ユウゼンは身を起こした。月の位置からすれば、深夜を過ぎたところだった。自分が眠りに落ちてから数時間は経過していた。
物音を立てないように辺りを窺うと、隣のベッドにヘリエル寝ているのはわかった。だが、正面にはシルフィードの影がない。先ほど出て行ったのだろう。
「…………」
考えようとしたけれど、先に身体が動いて部屋を出ていた。
心配、だった。
今日、執務室に現れて以来ずっと、シルフィは落ち込んでいるような、無理をしている様子だった。どうしてあのとき、シルフィは泣いたのだろう。辛くて悲しいことが、どこにあるのだろう。
「いつまでこちらにおられるのです。もう帰還なさればよろしいのに」
宿を出てすぐ、足が止まった。人通りも少なくなった大通りの影で、二つの人影が向き合っていた。フードをかぶったシルフィと、知らない男だった。
シルフィの表情は、月明かりを受けて青白く、強張っていた。話し声は続いた。
「意味がないと言っておきます。トロヤン様も、ルサールカ様も心配しておりますよ」
「心配……なんて……」
「そうですね。余計なことをしないかどうかの、心配でしょうねえ」
「……私は、……出来ることを、ただ」
「あなたの役割じゃないのですよ」
「どうして、そんな風に……あなたは葦原に、国を奪われたいと、そう……」
「予想です。何もかも、どうなるかなどわかりませんよ」
「可能性を無視すると……? レリウスも、そんな考えは」
「まだ王ではないのですから。判断を誤ることもあります」
「…………」
「あなたの役割じゃないのですよ」
「────」
「忠告はしましたよ。痛い目を見ないうちにご帰還下さい。まあ、もう手遅れかもしれませんが」
シルフィードが唇を噛み締めて何か言おうとして、それは言葉にならず、男は哀れむような冷たい一瞥を残して闇に消えた。
少女はそれを目で追うこともなく、数秒呆然と立ち尽くして、やがてすぐ側にあった厩の隅まで歩いた。馬に、おそらくルカに手を伸ばそうとして、止めた。糸が切れたようにその場に座り込んで、どこか、遠くを見るような目を夜に向けていた。
わからなかった。どういうことなのか、とか。もどかしく、後ろめたくて、痛みを覚えた。
動きたくないと、重い、重すぎる足を、自分の物じゃないように感じながら、馬鹿だと自嘲した。この足は自分のものだ。動きたくないだとか、きっと本心なのだから。そんなことで、シルフィのところまで行って、一体どうしようと。偽善だとか同情だとか、自己満足の類だ。
でも、それでも無視するなんて出来なくて、怯える心臓のまま震えを押し止めて彼女の元へ歩いた。
「……、ユウ……?」
ああ。
久しぶりに、そう呼ばれて、何かが胸の中で暖かく溶けた。
ただ、名前を呼ばれるということだけで嬉しかった。そういう人を失いたくなかった。
ユウゼンはシルフィードの手を取って、立ち上がらせて、何も言わずに少し歩いた。屋台がいくつか並んでいて、その内の一つでスープを買った。
「どうぞ。あの、きっと、落ち着くと思います」
「……ありがとう」
ためらって、でもシルフィは受け取った。二人で道の端に腰掛けて、少しの間そうしていた。シルフィは食べながら、細い声で何かを言いかけた。
ユウ。わたしを、
そして結局言わなかった。本当にありがとう、と言葉をすりかえた。目が合うと、シルフィは頬を緩ませた。
「笑いたくなかったら、笑わなくていいから」
笑うとかそんなこと、一々考えるわけがない。困らせたいわけじゃなかったけれど口から滑り出た言葉に、シルフィはそうだねと、小さく笑った。