胎動の声 鉄鎖の白刃(3)
モリスが何の真似か、愉快そうにシルフィを応援した。
「シルフィード様、殴り倒して東境街道に行っていただいていいですよ」
「なんでお前が決めるんだコラ!」
「いやあだって、いつも振り回される人々の気持ちを理解した方がいいと」
「いいじゃんちょっとくらい! ぎりぎり義務果たしてるじゃん!」
「義務を果すのは当たり前のことですけど」
正論ばっかり言いやがってなんてうざい従者だ。ともかくここでぐちゃぐちゃ言っていても仕方がない。モリスはいいのだ、どうでも。シルフィードは困惑顔で扉を塞いでいる。ユウゼンは彼女の望みを叶えたいし、危険から守ってもやりたい。
彼女を納得させるにはどうすればいいのだろう。
「あー、じゃあ、わかりました、殴り倒していいですよ。それが出来たら俺は同行しない。シルフィも行っていい」
ユウゼンが宣言すると、モリスもシルフィードも顔を引きつらせた。思いっきり違った理由で。
「ドM……?」
「違うわ!」
ユウゼンはまず軽蔑の視線を向けたモリスの頭を殴った。
モリスは心底痛そうに頭をさすりながら呟いた。
「ドS……」
「どっちだよ……」
ていうかどっちも嫌だから。違うから。あえて言えばN。ノーマルということで。
そして改めてシルフィードに視線で問うが、彼女は一般よりずっと遠慮深いのだった。
「い、いえ、そんな、殴り倒すだなんて……」
「出来ないならそこ通してください」
「え、で、も……それは……」
「人間思い切りやわがままや素直さや迷惑かけることとか、時には大事だと思いますよ」
「それは、私には……」
言葉が途切れる。ユウゼンが行動を起こしたからだ。
短い距離を詰めて、護身剣を取り上げようと手を伸ばす。鞘に手が触れる──寸前に、シルフィードは手を引きユウゼンにも自分にも手が届かない場所にそれを放り投げた。距離感の問題だろう。
ユウゼンは思考の間を与えず、扉を抜けようとした。
シルフィが阻止しようと反射的に蹴りを繰り出してきた。見事に股間狙いで、迷いがなく、つまり絶対にくらいたくなかった。冷や汗と共に後退する。シルフィは小さくステップを踏んで一旦体制を建て直し、低い位置から踏み出して至近距離に飛び込んできた。あごを狙った右手からの掌底。寸でかわす。続けて流れるように身体を半回転させてのバックエルボー。避けるために動かした顔の横を掠める。
いや、やばい。本当に。マジで遠慮はどこへ行った。ていうかシルフィ、訓練成果と才能が見事に発揮されていて、本気で殴り倒されそうな……。
モリスが目を輝かせて明らかにシルフィを応援していて、てめえ覚えてろよと言いたかった。いや、自業自得っちゃそうなんだけれども……。
仕方ない。
ユウゼンは決心し、ローキックを後退して避けながら、執務机の上に手を伸ばした。そしてそこに先ほど脱いであった自分の上着をつかんで、シルフィに向かって投げかぶせた。
「あっ……」
作戦勝ちだ。卑怯だろうがなんだろうが。唐突に視界を奪われてふらついた少女を、それごと抱きしめて受け止めた。
しなやかで細い身体は強張って瞬間的にもがき、一度ユウゼンの足の甲を踏みつけた。けれどすぐに力を無くした。ユウゼンは布越しに、ゆっくりと、慎重にシルフィードの髪を撫でた。
体温と小さな震えを通して、伝わってきた。
動揺と、混乱と、悲嘆や、苦痛、諦観。
それはすぐに類稀な美貌と笑顔が覆い隠してしまう。それらは不思議なくらいに交じり合って、シルフィの存在を隠して、薄める。そのときシルフィは安堵して、遠くに目をやる。ほんの少しだけ、何かに期待するように。ユウゼンはそれほど心動かされる表情を知らなくて、気付けば頭から離れなくなっていた。
「ごめん。ごめん。ごめん……違うんだ。ただ、心配なんです。だめですか……そばにいるのは」
いつも、消えてしまいそうで、これくらい側にいなければ、確かめていられないような気がする。知りたいし、力になりたい。もっと受け入れて欲しい。頼ってくれたら、いくらでも頑張れる。
シルフィは身を預けたまま、くぐもった声で喋った。
「すみません……、……よくわからないんです。私は何も考えていないから。人の気持ちもわからない。軽蔑されたくなかっただけなんです。ごめんなさい。一緒に来てくださいますか」
ああ、また。また、この人は、どうしようもなく困って何ものも溜め込んでしまう。
説得できる言葉を知らなくて、ユウゼンは悲しさを腕に込めて声を飲み込んだ。
シルフィードは知ってか知らずか抱擁を解かせると、何事もなかったかのように平然と歩き、護身剣を腰に戻した。
振り返って鷹揚に笑う。
「行きますよ」
「え、ああ……」
扉が開かれて、シルフィードが部屋を出て行った。
潔すぎる変わり身に、ぽかんとしていたユウゼンだったが、モリスに声を掛けられて我に返る。
「難儀ですねえ。大丈夫ですか?」
しかしなんのことだかさっぱりわからない。あまり、聞きたくない気もする。
「何が」
「だって、相当歪んでるじゃないですか、シルフィード殿下って」
「はあ!? お前なんてこと言って──」
「完璧主義の強迫観念みたいな感じと、自己犠牲が合わさって感情が安定してないように見えます。そんな方でも、本当にお好きなんですか?」
何か、ひどく冷たい響きがあったように思え、ユウゼンは眉を寄せ、モリスを睨んでいた。
「モリス、人をそういう目で見るのは止めろ。それは一番大事なことじゃないだろう」
珍しく本気で叱責すると、モリスは曖昧にはぐらかした。
「そうかもしれません。そうじゃないかもしれません」
時々、何を考えているのかわからなくなる男だ。今は取り合っていられない。
ため息と共にユウゼンは適当に手を振って出て行こうとする。
「俺のわがままに怒ってるんなら、後で埋め合わせはするから……」
「ユウゼン様。好きなら好きと、言わなきゃ伝わらないですよ?」
「────」
仕返しなのだろうか。そうは思っても、耳に痛い言葉で送り出したモリスに、ユウゼンは何も言い返すことは出来ないのだった。