胎動の声 鉄鎖の白刃(2)
真っ直ぐぶつかった視線は、すぐにそらされて、数秒の張り詰めた沈黙があった。後に、シルフィードは微笑と共に頭を下げた。
「……ごめんなさい。殿下をそんな風に思っていたわけでは決してありません。心配してくださってありがとうございます」
忘れてください。失礼します。
囁くようにそう続けて、シルフィードは背を向けた。
扉の側にいたモリスが驚いたように瞬きするのが見えた。
ユウゼンは、暗澹たる気持ちで王女が扉に手をかけるのを見ていたが、彼女がためらいなく出て行こうとするだろうとは薄々感じていた。出来ればそうして欲しくなかった。一体、本気でユウゼンが怒っていると思ったのだろうか。思ったのかもしれない。
届かなくなる前に、どうにか気持ちを振り絞ってシルフィードに声をかける。
「シルフィ」
彼女は手を止めた。しかし背を向けたまま振り向かない。振り向けない。だからユウゼンは皇子というこの役割が嫌いなのだった。自分なのに、それが嫌だ。脱力してしまいそうな罪悪感が胸に溜まっていく。
少し、くぐもった声が答えた。
「はい」
「どうして、そんなに行きたいんですか」
ぽたりぽたりとこぼれた透明な雫が床に小さな染みを作っていた。静かだというのに、心には確かな動揺が滲んだ。
シルフィは振り向かないまま鬱陶しそうに袖を顔に当て、小さく呟いた。
「そう思ってしまうからです」
きっと、本人以外には理解できない回答だ。それでもそれは、馬鹿にしているわけでもなんでもなくて、精一杯の答えなのだろう。思った。
本当に、自分はこの涙をどうにかすることは、出来ないのだろうか? そんなことすら出来ないつまらない人間だっただろうか。
ユウゼンは決心して細い背中に近づき、二歩手前で声をかける。逃げられないように敢えて断言した。
「わかりました。任せてもいい」
「え……」
やっと振り向いてくれた。もう涙はどこにも残っていなくて、赤い目元以外は普段と変わらない美貌。気丈というより強情。堅牢というより不憫。ユウゼンは困ったように眉をしかめてみせた。
「マゴニアの第一王女じゃなくて、シルフィの頼みなら、俺は、無条件に受け入れたくなるんです。馬鹿でカカシで鶏だから」
自分で認めたよこいつ、というモリスの暖かい視線なんて見えない。どうでもいいと思う。好きな人が笑ってくれれば別に。
シルフィはまだ信じられないように瞬きをして、唇に指の根元を押し当てた。微かに頬が紅潮して色づいていた。
「いいんですか? 本当、ですよね」
「気は進まないけど、本当です」
「……ありがとうございます!」
「あ、ちょっと待った!」
なんたることか、許可が出た途端部屋を飛び出していこうとするシルフィードを、ユウゼンは慌てて止める。気が早すぎる。だが不安そうな顔をしたシルフィに押される形で、早口になった。
「俺も行く。モリス、身代わりの用意と着替えと馬その他よろしく」
「はいはい仕方ないですねー」
「はい?」
ぽかんと立ち尽くすシルフィをいい事に、さっさと書類を分けてモリスに説明をしながら邪魔な上着を脱ぐ。
膳は急げだ。装備はどうなっていただろう。腐ってないかな。
しばらくすると我に返ったらしく、シルフィが慌てて止めに入った。
「だ、だめ。だめですよ……そんな迷惑なこと! それに危ない。あなたを危険な目に合わせるわけには」
「シルフィ、それさっき俺が言ったことと同じ」
「いえ、同じじゃない。だって私は私の都合だ。私のわがままのせいでどうしてあなたが──」
「これも俺のわがままですって」
ここで、「あなたが好きだから心配で行かないわけにはいかないんだ」と、言えたらよいのだろうが……そこはハートの問題なので。
なおかつ食い下がろうとするシルフィに、卑怯かもしれないが最終手段を使う。
「同行が認められないなら、この話はなかったことにしますよ」
「…………」
思った通りぎゅっと眉をしかめたシルフィだが、予想以上に冷静で生真面目だった。
「それは……仕方ありません……私情で命を掛けるわけにはいきませんから」
ああ。そんなことを言っていたら何も出来ない。それはユウゼンの勝手な持論であるかもしれないが。
「今更。俺の放浪癖知らないわけじゃないでしょう」
「だから、それとこれとは……」
「違っても。シルフィが行きたくて、俺も行きたい。問題ないって」
「ありますよ! そう言うなら私はもう行きたくない。だから止めてください」
「いーや、もう決めた。行く。一人でも行く。政務したくない」
「なんですかその屁理屈は」
これはモリスの笑顔のつっこみである。シルフィは口元を引きつらせて、
「本気ですか……?」
「もちろん。さあ、行きましょう」
「ちょ、ちょっと……! だめ! 通しませんよ!」
当初と逆、わけのわからない展開になってきた。
シルフィはよほどあせったのか、腰の護身剣を鞘ごと抜いて握り締めている。あの、それ抜き身じゃなくても殴られれば骨とか折れそうなんですけど……。




