ヘテロクロミヤ侯爵夫人(5)
なんだか長い一日だった。
広い浴場でぼんやりお湯に浸かりながらユウゼンは、どこかのお年寄りのように放心していた。
ヘテロクロミヤ・アイディス侯爵の邸宅はアカシア宮とそう離れているわけでもないし、ユウゼンもカラシウスもシルフィも酒のせいで帰る気力をなくし、今日はここで一泊することにした。といっても各自即行部屋に引きこもってアルコールが中和されるのを待つだけだろうが。
あれからだいぶ時間が経ったので、ユウゼンはラティメリアに勧められて広い浴場を独り占めしていた。普段放浪生活なだけに、豪華で癒される。
「姉上も、すこしは落ち着いてくれればいいのに……」
なめらかで適温の湯にぶくぶくと身体を沈め、ついでに落ち着いて貫禄のあるヘテロクロミヤ侯爵夫人を想像し──ユウゼンは思った。
無理だな、と。
まるでその思いが通じたかのようだった。
バタバタとなにか騒がしいような気配が近づいてきて、いきなり浴場の入り口の戸が勢いよく開かれた。
「か……」
カラシウス? にしちゃあ品がない。訝しげに振り返ったユウゼンは、そこにいた人達を見て目が点になった。
女性のシルエット。
というよりラティメリア。
と、彼女に抱えられぐったりしたシルフィード。
しかも、その、シルフィは髪もしどけなく梳いて、透けるような白いアンダードレスしか身に付けていない、ような……?
呆然とするユウゼンに向けて、ラティメリアが宣言した。
「頼もう!!」
「何が!? ちょっ……入るなら出るから! 三分待ってくれ!」
「やだよ! シルフィちゃんが今すぐ入りたいって駄々をこねたことにするの! そうだよねシルフィちゃん!?」
ラティメリアが明らかに朦朧としているシルフィを容赦なく揺する。
「……はい、……?」
「ほれ見ろホントになった!」
「嘘こけ!! 酔ってるだけやん! 疑問系だしその前にあんた全部仕組んだの暴露してるし変態だし勘弁して下さいホントに……! 頼む止めてくれ、誰でもいいから、俺が許可する!」
さすがにまずいと、後ろでわたわたしている侍女たちに向かって叫ぶ。彼女等はやっと許可が出て、ラティメリアを取り押さえようとしたのだが、ラティメリアは一言でそれを制した。
「こら! わたしに協力すれば後でカラシウスの寝顔見せてあげる」
「「「本当ですか!」」」
みんな、超・あっさり買収された。
そしてラティメリアは勝者の笑顔でユウゼンに言う。
「協力するって言ったわたしに二言はないの。二人でゆっくり入浴してね」
「待っ……! 世話になってるシルフィに対して、あんた鬼か! 悪魔か!?」
「やぁ、人間だよ。キミじゃあるまいし」
それがラティメリアからの最後の言葉だった。
ラティメリアは手近にあった小さめの浴槽にシルフィを放り込み、やって来たのと同じくらいの勢いで浴室の戸を閉めて出て行ってしまった。
「うっ……」
「シルフィ!」
しかも彼女が身を浸したのは暖かい湯ではなく、冷たい水の浴槽だ。
突然の暴挙に身体を震わせてうめいたシルフィに、ユウゼンは布を引っ掴んで腰に巻きながら駆け寄り、そこから助け出す。
冷たくなった肌とふれあい、今まで温まっていたユウゼンも思わず身震いした。
「……す、みませ……」
「謝らないで下さい! 悪いのはこちらなんですからっ……本当に申し訳ない」
言いながら、状況のやばさに徐々に気付く。シルフィが無意識にだろう、自らの冷たい身体を離そうとする。思わず、反射的にその身体を抱きしめる。ひやりと冷たくて、柔らかくて、華奢な身体。シルフィが纏う薄布一枚越しの、それがはっきりと伝わり心臓が跳ねた。
えっと、ごめんなさい疚しいことはないです思わずやってしまっただけです本当に!
「とっ、とととりあえず、身体を温めるってことで……! 失礼します!」
「────」
そうだそれだ。混乱を堪え、ユウゼンはシルフィを抱きかかえて、先ほどまで自分がつかっていた湯船に駆け戻った。
なるべく慎重に湯に入り、シルフィが苦しくないように支えながら座らせる。
寒さに身を震わせていた少女が小さく吐息を漏らすのが感じられて、ユウゼンも少しだけほっとした。
本当に少しだが。顔が熱くて、心臓が苦しい。
出来る限り王女を見ないように、落ち着け自分無我の境地、と心中唱えながら、尋ねかける。
「大丈夫、ですか? 気分が悪いとか」
「……いえ、……ただ、すこし、眠くて……」
「え? ああ」
酒のせいか。酔うと眠くなるタイプに違いない。
そんなシルフィードの安眠を妨害してこんな場所に放り込むとは、ラティメリアは本当に信じられない人間だ。
「本当に申し訳ありません……あんな姉上で、こんな失礼なことを。もう何でもお詫びします、死ぬほど言い含めて今後は──」
「ユウ……気にしないで」
「へ!?」
不意に。
シルフィードが囁き、寄り添うように身を寄せた。
なんで? ちょっと今この状態でそれはやばいほんとうに────
「わたしは……大丈夫ですから……今までわたしが、ユウに言ったことを、覚えていますか……」
固まって、動けないユウゼンを、正面から柔らかく抱きしめて、耳の後ろで囁いている。鼓動と声の他には、もう何も聞こえない。湯のほのかな蒸気と、濡れた肌同士が存在を確かに伝えた。
どれのことだろうと、流されそうな精一杯の頭の隅で考える。
『どうか、好きになって下さい。手を伸ばさずにはいられないほど。溺れるほど』『私と結婚してくれませんか?』
『好きですよ。あなたはとても優しい』
王女が再び、耳朶をくすぐるように、甘い言葉を紡いだ。
ユウゼンを揺るがすには、十分な毒だった。
「だから……、どうぞ、わたしでよければ……好きにして下さい」
「シ、ルフィ」
一瞬で理性が飛んだ。
自分でも知らぬ間に、強く抱きしめ返している。
飛沫と白い水の断面。
頭がくらくらする。暖かい。熱い。苦しくて、それくらい愛おしい。全てを自分のものにしてしまいたい。
本能のまま、目の前のそのすべらかな首筋に唇を落とす直前、深く、安堵したような少女のため息が耳に入った。
──私は、嘘しか申しません……
「っ……!」
思い出した。
思い出してしまった。
なぜあのとき自分が彼女の申し出を受け入れなかったか。
精一杯の言葉。シルフィの気持ちを、少しでも大事にしたかったからではないのか。
少しでも好きになってほしいのに、そう決めたのに、それを、こんな形で自分から壊してしまっていいのか。
いいわけがない。
本当にギリギリで思いとどまり、ユウゼンは呼吸と鼓動を鎮めながら、ゆっくりと、少し濡れたシルフィの髪を、撫でた。
「無理を、しないで下さい。酔っていますよね? きっと今日は色々とご迷惑をおかけして、疲れたことと思います。だから、その、本調子にもどってから、……また向き合わせてください」
少し、沈黙があった。切なくなるような、そんな。
シルフィが手を解いたから、ユウゼンも彼女から手をはずした。
密着していると、熱くて心がはちきれそうだったのに、離れると不思議なほど寂しくて、手を伸ばしたくなる。
シルフィは短い距離に横たわる暖かな水に目を落としたまま、小さく微笑んだ。
「……すみません……出過ぎた真似を、して、……許してください……」
シルフィの髪先から、涙のように雫が零れて、水面が揺れた。
ユウゼンは慌てて声を荒げた。なぜそうなるんだろうか。
「ゆっ、ゆるすとか、そういう問題じゃない! 俺はただ、あなたが自分に遠慮して、自分を大切にしないことが悲しいだけだ」
「…………」
「例えばゲームの時だって、あなたは頭がいいから勝とうと思えばもっと勝てたのに、わざとそうしなかった。さっき水に落とされたときも、俺を気遣って離れようとして、」
「…………」
「そういう、ことも大事だとは思います。でも、シルフィはもっと素直に行動してもいいと思う。少なくとも、俺は、あなたが息苦しいような姿は、見たくなくて」
「…………」
「だって俺は」
あなたのことが、好きなんだから。
とは、一気に顔が熱くなって言えなかった。
やばい。やばすぎる。恥ずかしい。気付けばこんなところで何言ってんの自分。もう、死ねる……
「……シルフィ?」
しかもさっきからなんの言葉もないと思っていたら。
限界だったのか、王女は、浴槽のふちにもたれたまま、目を閉じて、眠ってしまっていた。つまり寝ていた。ご就寝だった。安眠中だった。熟睡だった。要するに聞いてなかった。
「えー……あー……そういうオチかー……」
ユウゼンは一気にテンションを落として、いつもの状態に逆戻りした。
まあ、ほっとしたような、残念なような、眼福だったような、腹立たしいような。
もう無理だ。色々と。
疲れきってのろのろ浴室を出て、待機していた侍女にシルフィの世話を頼み、妙なテンションのまま廊下へ出る。
カラシウスに出会った。
「あ、兄さん。どうやら最大限に鶏っぷりを発揮したみたいだね。もはや尊敬に値するよ……」
「やかましい抉るな。お前こそやつれてるぞ……」
「うるさいな。ヘテロクロミヤ候が不在なのに姉さんに手は出せないし、やたら侍女が入ってきて気が休まらないし、酒は抜けないし……どう。今から繁華街で盛大にハメはずしに行こうかと思うんだけど」
「お前いいこと言った。行く。誰がなんと言おうと行く」
「そうこなくちゃ」
そうしてユウゼンは今日、カラシウスのことを心の底から兄弟だと思ったのでした。
飲酒後の入浴は大変危険ですのでお気をつけ下さい。脳貧血や心臓発作の原因になります。