19、幽霊の正体
なんやかんやしている内に、時間は夜の一時をとうに過ぎていた。
「んー……ふにゃ……」
「起きてくださいよ、モモせんぱーい」
「にゅー……」
優太の部屋ではしゃぎすぎたのか、桃音は床で、猫のように丸まって眠っていた。
「風邪引きますよ。床も固いし」
優太は何度か声をかけ、桃音を起こそうとしているのだが、彼女は一向に起きる気配がない。
結局優太は、桃音を起こすことを諦めて、せめて風邪は引かないように、と桃音の体に布団を掛けた。
……それにしても。
布団を桃音にかけた優太は、思わず眠っている桃音を見つめる。
桃音には危機感がないんだろうか。男の一人暮らしの部屋で、無防備に寝てしまうなんて……。これじゃあ襲ってくださいといっているようなものである。
「いや、もしかしてそういうことなのか?」
何も考えていないフリをして実は、自分が襲ってくれるのを待っている、とか?
そんなことを考えて、優太はごくりと唾を飲む。興奮と期待に、胸が高鳴る。
「……」
「おい」
自分の欲望に従うべきか、ここは紳士でいるべきか。そう考えていた優太に、低い声がかけられた。
「祟られたいのか?」
振り返れば、優太と桃音から少し離れた位置に立って、壁に背を預けている雪が、眼光鋭く優太を睨みつけていた。
……そういえば雪もいたのだった。
第三者がいる状態で、無防備な女の子に手を出すような勇気はない。そのため優太は桃音から離れると、一番近い壁に凭れて座った。ちなみに優太が凭れているのは、雪が立っているところとは反対側の壁で、距離はあるものの彼女と向かい合うような形になった。
「ナニモシマセン」
「…………」
「本当ですって!」
不審感顕わな雪の表情に、そこまで信用がないのかと優太は慌てる。
「……ふん」
不機嫌そうに、雪は顔を背けた。
部屋には、優太の呼吸の音と、桃音の寝息が響いていた。周囲も寝静まっている時間なので、時折道路を走る車の音以外は何も聞こえてこない。
沈黙が部屋に満ちた。
喋る相手はいるのに、お互い口を閉ざしている。その状況は居心地が悪く、優太はどうしようと考える。
「えっと、あの、そういえば」
その居心地の悪さから逃れようと、優太は沈黙を破った。
雪の目が、優太を一瞥する。
「その……どうしてユッキー先輩は、モモ先輩と仲良くなったんですか?」
「ユッキー言うな」
「あ、すみません」
噛み付くように言う雪に、慌てて優太は頭を下げる。
そんな優太を見て、雪は腕組みをするとまた、優太から顔を逸らす。
引き結んでいる唇は、何も話してくれそうにない。やっぱりこの沈黙を耐えねばいけないのかと、優太は眉尻を下げた。
「……モモとは」
だからこそ優太は、不意に話し出した雪に、驚いた。
思わず雪を見つめれば、雪は目を細めていた。まるでどこか懐かしむかのようだった。
「初めは仲良くなる気なんてなかったんだ。生きているやつに姿を見せる気もなかったし、一人でずっとあそこにいた」
あそこ。それはきっと、学校の裏庭にある桜の木のことだろう。
「突然話しかけられて驚いた。視えるはずないと思っていたからな」
「なんで仲良くなったんですか?」
「……なんでだろうな」
優太の質問を聞いて、微かに、雪の唇の端が吊り上がった。
「私にもよく分からん。ただしつこくてな。『幽霊さんと仲良くなりたいんです』とか言って。クラスから孤立していたし、だったら幽霊と仲良くなろうと思っていたんだろう」
それが、幽霊部――『幽霊さんと仲良くなろうの部』を作ったきっかけ。
「無視しても無視しても、あいつは来た。耳にタコができるほど言われたよ。友達になりましょうって」
雪の口調は優しげなものだった。
懐かしむように、楽しむように、嬉しそうに、雪は続ける。
「そんなこと言われたのなんて、初めてだったんだ。それで気が付けばこうなってた」
不意に雪が視線を動かした。見ているのは眠っている桃音だ。
桃音を見る雪の目は、慈しむような、という表現がぴったりだった。それくらい優しげな目で、彼女を見ていた。
雪のそんな表情を見るのは初めてで、優太は何も言うことができずに、雪を見つめている。
「私なんかと仲良くしようと言ってくれたのは、してくれたのは、桃音が初めてなんだ。だから私にできることであれば桃音にしてあげたいと思っている。昔から色々視て苦労してきているしな。生きているもの相手だったら何もできないが、幽霊相手で何かあったら私が守ってやれる」
目を閉じる雪。
表情から、口調から、優太は雪が、桃音のことを大切に想っているのだと知った。
「…………おい」
「え?」
「何笑ってる」
目を開けた雪に睨まれて、優太はそこで初めて、自分が笑っていることに気が付いた。
先ほどまでの優しい雰囲気は消え、今の雪は、普段優太が見ているぶっきらぼうな彼女に戻っていた。
「いやー、その、ユッキー先輩って優しい人なんだなって思って」
「なっ……!」
まさかそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。優太の言葉を聞いて、雪は大きく目を見開いた。絶句しているのか、開いた唇が何か言う気配はない。白い頬が朱色に染まる。
「な、な、なな何を言っている! 殺すぞ!」
「え!? 褒めたつもりだったんですけど!」
拳を握る雪に優太は慌てた。いや、幽霊なので当たらないはずではあるが――触れられるようにすることもできるとは言っていたが――真っ赤になりながら睨みつけてくる雪に、怒られる筋合いはないと思ったのだ。
「うるさい!」
雪は怒鳴るように言うと、勢いよく優太から顔を背けた。長い黒髪が大きく揺れる。顔どころか首まで真っ赤になっていた。
「……」
もしかして。
雪を見ながら、優太は思う。
これは怒っているのではなく、照れているのか? それを誤魔化したくて、怒鳴ったのか?
なんとなくそれが正しいような気がした。素直に褒め言葉を受け止めることができない、子どものような誤魔化し方に微笑ましささえ感じる。だがそれを口にすれば、さらに雪が声を荒げるだろうことは分かっていたので、優太はそれ以上何も言わなかった。
「そういえばユッキー先輩は、幽霊が出たときって分かるんですか?」
これ以上この話題を続けなくてもいいだろうと、優太は質問を口にする。
「あ、ああ。なんとなくな」
話題が変わったことに安心したのか、ホッと小さく息を吐いて、雪は答えた。
優太は自室にある時計に目を向ける。
時刻はいつの間にか、午前二時を指していた。この三日、続けて幽霊が出た時間である。
優太はベランダの窓に歩み寄ると、小さくカーテンを開けた。そっと外を覗き込む。
そして窓の外のいつもと同じ場所、アパート裏手の街灯の下に、見覚えのある女の子が立っていることに気が付いて、息を呑んだ。
「っ、モモ先輩!」
優太は急いで、寝息を立てている桃音に歩み寄る。
「起きてください!」
「んー……」
「幽霊です! 出ました!」
「ふにゃっ!?」
肩を揺すりながら叫べば、幽霊という単語に反応したのだろう、桃音が目を開けた。
「ど、どこですか?」
「外です。気付かれないように、ゆっくり」
まだ寝ぼけているのか立ち上がった足元が定かではないものの、桃音は目を擦りながら頷く。
優太と桃音は、並んで窓の傍まで行くと、外から自分達が見えないように気を付けながら、外の暗闇に目を凝らした。
人影のない道。街灯の下で、白いワンピースと長い髪を風に揺らしながら、女の子は立っていた。俯き気味のせいで帽子に顔が隠れている。
「ほぇー……」
桃音が優太の横で、目を瞬いていた。
「……あれ、幽霊さん?」
「ずっとこの時間、同じ場所にいるんです。絶対そうですよ!」
女の子を見つめながら、優太は大きく首を縦に振った。
心臓が興奮で高鳴っているのを、優太は自覚する。ごくりと音を立てて唾を飲み込んだ。無意識に手は拳を作っていた。
「俺に会いに来てるんだ。幽霊が」
興奮を隠せない口調で優太は呟く。
桃音もそんな優太を見つめていた。
「やっと会え……」
「違う」
感嘆の声を上げる優太を遮ったのは、静かな雪の声だった。
「あれはただの人間だ」
「え……」
優太と桃音の後ろから外を覗き込んだ雪の言葉に、優太は眉根を寄せる。
「人間……?」
「ああ。幽霊じゃない。生きている」
冷静な雪の声は、優太に嘘だと言わせる隙を与えなかった。淡々と事実を述べている、それがありありと分かった。
「っ!」
だから優太は、立ち上がると玄関に向かって走り出した。
「優太くん!?」
後ろに立っていた雪の体を通り抜けて――通り抜けた瞬間寒気が走った――驚く桃音の声を無視して、荒々しく玄関の扉を開けると、外に飛び出した。靴を履く時間も惜しかった。
嘘だ。
頭の中に浮かぶ、思い。
幽霊じゃない? 人間? じゃああれは、なんなんだ。誰なんだ。なんであの格好をしてるんだ。
靴下のまま、優太はアパートを出る。
裏手に回り込めば、アパートの裏手にはまだ、女の子の姿があった。
女の子は優太の存在に気付いたのか、慌てたように背中を向けて逃げようとする。しかし足の速さは優太の方が上だった。
「待てよ!」
逃げようとした女の子の手首を、力強く掴んで優太は引き止めた。温かい手首は、彼女が生きているということを裏付けていた。
「顔見せろ!」
背中を向けた彼女を引っ張り、無理やり自分に顔を向けさせる。
「きゃっ!」
そのまま乱暴な動作で優太は、女の子の被っていた帽子を剥ぎ取った。
――時間が、止まったような気が、した。
女の子の顔を見て、優太は目を見開くしかなかった。
「なん、で……」
優太の目の前に立っていたのは、幽霊ではなかった。優太が望んでいたものではなかった。
「……」
そこにいたのは、見慣れた少女……十年以上ずっと一緒にいる幼馴染み。
「柚莉香……」
呟く優太の声は、掠れていた。
頭を、鈍器で殴られたかのような衝撃が走る。目の前のことが信じられなくて、頭の中が真っ白になっていた。
「なんで……」
「……」
柚莉香は何も言わない。優太に手首を捕まれたまま、唇を噛んで俯いていた。
「なんでだよ」
「……」
「なんだよその格好! お前、どういうつもりでッ!」
呆然と何も考えられなかった頭に、突如怒りの感情が湧き上がった。それはすぐに優太の体隅々にまで広がり、血液を沸騰させた。
「俺をからかってたのか!?」
夜中ということも忘れて、優太は怒声を柚莉香に浴びせる。
「毎晩わざわざそんな格好してここに来て! 俺をからかうためか!? 俺をバカにしてたのか!?」
「痛っ……」
無意識に柚莉香の手首を握る手に力がこもり、柚莉香の表情が痛みに歪んだ。
それでも優太は、手の力を弱めようとしなかった。むしろさらに強く、逃げることは許さないというように、柚莉香の細い手首を拘束する。
「答えろよ柚莉香!」
「優太くん!」
怒鳴る優太の背後から、普段では聞かないような鋭い、桃音の声がした。
ちらりと優太が振り返れば、優太を追いかけてきたのだろう、桃音の雪の姿があった。急いで駆け寄ってくるのが見える。
「っ!」
優太の意識が逸れた、ほんの一瞬。その隙をついて、柚莉香が掴まれていない方の手で、優太の手を叩いた。痛みに優太の拘束が緩んだ刹那、柚莉香は優太の手を振り解いて走り出す。
「おい! 柚莉香!」
優太は慌てて柚莉香を追いかけようとしたのだが、柚莉香の白いワンピースも黒髪も、すぐに夜の闇に紛れていった。
優太は呆然と、その場に立ち尽くす。
幽霊じゃなかった。柚莉香だった。からかわれていた。嬉しかったのに。会えたと、思ったのに。
「あ、あの、優太くん……」
「くそっ……」
隣まで駆け寄ってきた桃音が、おずおずと口を開く。
しかし優太は応えなかった。応える気になれなかった。
怒りやショックの感情が、ぐるぐると胸の中で渦巻いていた。
「くそぉ……!」
優太は拳を握り締める。
ジジ、と音を立てる街灯の下で、しばらくの間優太は、心配そうな顔をする桃音と黙ったままの雪を前にして、項垂れることしかできなかった。
* * *