12、幽霊部員
放課後、優太は桃音と共に、例の心霊スポットへ来ていた。
ちなみに、桃音は幽霊部員にちゃんと声をかけたらしいのだが、気が向いたら、としか返事がもらえなかったらしい。
そのため必然的に、優太は桃音と二人きりという状態になった。
柊高校を出て、歩いて十分の最寄り駅。電車に乗り、下車してさらにバスに乗り換えて、そこから徒歩二十分。電車の乗換えがスムーズにいかなかったり、軽く道に迷ったりなんかして、結局目的地に着いた頃には、ゆっくりと日が沈み始めていた。
「ここが例の……」
廃墟を見上げながら、桃音が呟く。
優太と桃音の目の前にあるのは、寂れて古くなった建物だ。白い壁紙は汚れて灰色になっているし、蔦も絡んでいる。駅から随分離れたそこは、人通りも多くない。周囲に民家や他の建物はなく、敷地内は雑草で荒れていた。ポツン、とまるでここだけが現代社会から取り残されたかのような、妙な錯覚を起こす。
そんな廃墟は、夕日に照らされて、暗く重い雰囲気を纏っていた。
イメージとしては、テレビ番組でよく出てくる、心霊スポットそのものだ。
廃墟の出入り口には、半ば崩壊した文字で、舞鶴見病院と掲げられている。
開けっ放しになっている出入り口や、割れた窓ガラスの向こうには、光が届かないせいで暗闇が広がっている。
見つめていると、その暗闇の中に吸い込まれそうで、ぞくり、と優太の背に悪寒が走った。
前に一度来たことあるはずだった。そのときは背筋が寒くなるようなことはなかった。いや、今まで色々な心霊スポットを訪ねたし、怪談を調べたりしたが、こんな風に感じたことあっただろうか。
「……本格的に暗くなる前に、行きますか?」
いくら背筋が寒くなっても、ここに来ようと言ったのは自分だ。帰りましょう、などと言えるはずもなく、だったらさっさと行くしかないと、優太は隣に立つ桃音へ尋ねる。
「そう……ですね。夜の方が色々危ないです」
辺りを見回しながら桃音が頷く。
確かにこの周りは人通りが少ない。夜になって、もし誰かに襲われでもしたら、それこそ幽霊に会うより危ない目に遭う。
一瞬そういう意味で危ないならもう帰るべきだろうか、と優太は思ったが、それを口にする前に、桃音が歩き出してしまった。慌てて優太も廃墟に向かう。
割れたガラスが痛々しい、開いたままの扉。散らばったガラスを踏み拉きながら、二人は病院の中に入る。
――病院の中は、荒れていた。
廊下の窓ガラスはほぼ割れており、そこら中にガラスの破片が飛び散っている。心霊スポットへ来た誰かが書いたのだろう、色取り取りの落書きが、大量に壁を埋め尽くしていた。時折部屋を覗いてみるが、物はほぼなく、埃と汚れが吸い込む空気の中に充満している。
病院だった、という雰囲気だけが、この建物の中には残っていた。
「思ったより、暗いです……」
優太に体を密着させるようにして、桃音が廊下を歩きながら呟く。その足取りは重く、前へ前へ進むのが躊躇われているかのようだった。
「日もほとんど沈みましたしね。怖いですか?」
歩く度に一瞬触れてしまう小さな体。思わず自分の体温が熱くなるのを自覚しながら、優太はそれを誤魔化そうと質問する。
桃音は優太に顔を向け、恥ずかしそうに、困ったように、笑った。
「ちょっとだけ」
「もしかしてお化けとかダメな人ですか?」
「いいえ、それはないです。仮にも幽霊部部長ですから。ただ、正体が分からないものが怖いんです。もしかしたらいるかも、とか。いるならさっさと出てきてくれた方がいいのに」
「それは分かります」
優太は苦笑する。
例えば、ホラー映画の、何かが飛び出してくる怖い場面。その何かが飛び出す瞬間より、何かが飛び出してくるかもという緊張感が、優太は怖かった。いるならさっさと出てきてくれた方が、というのは、きっとそういうことなのだろう。
「それにわたしは、人間の方が怖いかなって思うときあります」
「え?」
思わず優太は聞き返す。
その途端優太の靴が何かを踏んだ。パキッという音がする。
「キャー!」
桃音が絶叫した。
「何!? 何ですか!?」
「モモ先輩落ち着いて……!」
目を凝らしてみれば、足元は見える。音の正体も分かるはずだ。
しかし桃音は混乱しているのか、叫んで首を横に振っている。しかも反射的にだろう、すぐ近くにあった優太の腕に抱きついてきた。
桃音は、優太の腕を抱き込むようにしてくっついてくる。腕が桃音の体に押し付けられ、柔らかな体の感触をありありと感じてしまう。特に柔らかな感触は、まさか胸――?
「っ!」
優太は空いている方の手で、ポケットを弄った。桃音の甲高い叫び声に圧倒されながら、スマートフォンを取り出す。
「モモ先輩落ち着いて! ライト! ライトつけますから!」
桃音に片腕を拘束されながらも、優太はなんとかスマートフォンを操作し、ライトをつけた。
途端小さな強い光が、優太と桃音の足元を照らす。
二人の足元には、ガラスの破片と、ボールペンが落ちていた。心霊スポットに来た誰かの忘れ物だろうか。
どうやら先ほどの音は、このボールペンを踏んづけたときのものらしい。
「な、なんだ、ボールペンですか……」
ライトに照らされたボールペンを見て、桃音は心の底から安堵したように大きく息を吐く。
「ごめんなさい、びっくりしちゃって……」
「いえ、それはいいんです。ただ、あの……」
「ふえ?」
優太はライトで自分の腕を照らし、顔を背けた。
桃音はライトの灯りにつられて、ライトが照らす優太の腕を見る。そしてがっしりと強く、自分が優太の腕を、抱き枕のように抱いていることに、今初めて気付いたらしい。
「ひゃ! ひゃああああ!」
顔を真っ赤にし、桃音は勢いよく優太の腕を離した。
「ご、ご、ごめんなさい! わたし夢中で……!」
「いえ、大丈夫です、大丈夫ですから」
ぺこぺこと何度も頭を下げる桃音に、優太は首を横に振る。
正直、嫌だったかといえばそうじゃない。むしろ柔らかな感触に、ときめいてしまっていた、なんて……。
そんなこと言えるはずもなく、優太も顔を赤くしたまま無言になった。
お互い沈黙してしまい、シン、と音ではないオトが鼓膜を刺す。
むしろこうやって静かにしている方が、何かが突然起こるんじゃないかと、怖い。
優太は「それじゃあ行きましょうか」と、この沈黙を破ろうとした。
……ヒタ、と、足音が聞こえたような気がした。
「……?」
優太は振り返る。ライトの灯りは足元を照らしているため、振り返った廊下の向こうは暗闇で見えない。
そういえばいつの間にか、窓の外では太陽が沈みきり、空は黒に染まっていた。
「ゆう……」
優太の様子を不思議に思ったのだろう、桃音が顔を上げる。
そして視界の端に何を見たのか、前方に顔を向けて表情を明るくした。
「ユッキー!」
「え?」
「例の幽霊部員ですよ! 来てたんですね!」
そう言いながら桃音もポケットから、優太のとは機種の違うスマートフォンを取り出した。ライトをつけ、走り出す。
「あっ……!」
ライトで照らした前方は突き当たりになっていた。桃音はそのまま突き当たりを左に曲がる。足音から判断するに、階段に繋がっているのだろう。
「モモ先輩!」
優太はライトで前を照らしながら、桃音を追いかけようとした。
その瞬間――スマートフォンのライトが、消えた。
「え……!」
突然のことに優太は驚く。
ライトに頼っていたせいか、目は咄嗟に暗闇に慣れなかった。そのため優太はその場から動くこともできず、立ち尽くす。
何も見えない暗闇の中で目を凝らし、必死に目が慣れるのを待った。
そのとき。
……不意に、ヒタヒタと、足音が聞こえて、優太は息を呑んだ。
先ほど桃音が走って行った方向とは逆、つまり優太の背後から、その足音は聞こえてくる。ヒタ、ヒタ、と間をあけて聞こえてくる足音が、次第に近付いてきているのが分かった。
誰だ?
優太の背に悪寒が走る。妙に荒い自分の呼吸が鼓膜を震わせていた。自分の体温が、いや、周囲の気温までもが、先ほどより下がっている気がした。無意識に噛み合わない歯が音を立てる。
その間にも足音は、確実に優太へ距離を詰めてきていた。
硬直して、足音の聞こえる背後を振り返ることもできず、優太はスマートフォンを強く握り締める。
一体なんだ? 疑問が頭の中を支配する。
だんだん大きくなる足音。近付いてくる何かの気配。
優太はごくりと唾を飲み込んだ。
自分と桃音以外に、誰かが肝試しでもしているのだろうか。それなりに噂のある心霊スポットなのだ。自分達以外に誰かがいてもおかしくない。
このまま硬直していても仕方ないと、優太は大きく息を吐いた。
そして緩慢とした動作で、震える体を自覚しながら、躊躇いがちに振り返る。
きっと他の誰かがいるのだという希望。それを確信するために。
しかし。
「ひっ……」
振り返って、背後から近付いてくる何かを確認して、優太は掠れた声を漏らした。
暗い廊下の向こうから、ゆっくり、ゆっくりと歩いてくるのは、一人の女性だった。
灯りのない暗闇の中でも、何故か女性の姿はよく見えた。闇の中に浮かぶナース服。だらりと垂れ下がった細い腕が、歩く度にゆらゆらと揺れている。腕と同じように揺れているのは、お腹辺りまで伸びた黒髪だ。櫛を通していないのか、髪は乱れていた。俯いていて顔は見えない。
足取りはふらついていて、まるで酔っ払いのようだった。
そんな女性を凝視して、優太は息をすることさえ忘れていた。
体中が震えた。寒気がした。心臓さえ止まったような気がした。
生きている人間には、決して見えなかった。
「あ……」
優太が凝視する中、女性が足を止めた。
「あ……」
ゆっくり、ゆっくりと、女性が、顔を上げる。
「あ……」
無造作に伸ばされた黒髪の下の目と、目が、合って。
瞬間、女性が。
にやり、と。
赤い唇を、どこか楽しそうに、歪ませて――。
笑う女性を見た瞬間、優太の恐怖が絶頂に達した。
意識しない内に口が開く。絶叫が迸る一歩手前。
金縛りにあったかのようにその場から動けない優太に向かって、先ほどのゆっくりとした動きが嘘のように、女性が前進した。目を見開く優太の眼前に、飛ぶように女性は迫り、そして――
突如、優太と女性の間に、誰かが割り込んだ。
「……っ!」
驚きに声を失くす優太の目の前にいたのは、柊高校の制服を着た女子生徒だった。背は優太とほぼ変わらず、長い黒髪をポニーテールにしてまとめている。優太に背を向ける形なので、女子生徒の顔は分からない。
「ふっ!」
短い掛け声と共に、女子生徒の足が振り上げられた。膝上丈のスカートが翻る。足の裏で女性を蹴り飛ばす動き。
しかしその蹴りは、空を切っていた。
「え……?」
何故なら蹴りを放った瞬間、優太が瞬きをしたその一瞬の内に、女性の姿が消えていたからだった。
女子生徒は辺りを見回し、誰もいないか確認している。
優太は今目の前で何が起こっていたのかすぐに理解ができず、思考停止した状態で、目の前にいる女子生徒の背中を見つめていた。
優太の手の中で、スマートフォンのライトが光る。
「優太くん!」
そんな優太に、猫のように甲高い、焦りを含んだような声がかけられた。
ライトを向けて見れば、廊下の角から、桃音が優太の元へ走ってくるところだった。
「大丈夫?」
「な、何が……」
「今取り込まれそうになってたんだよ!」
「取り……?」
泣きそうになっている桃音と顔を合わせながら、優太は呆然と呟く。
桃音の言っている言葉の意味がよく分からなかった。いや、何より先ほどの女性はなんだったのだ? 気付けば先ほどまで感じていた恐怖も寒気もなくなっていた。気温も、春の夜であるため肌寒くはあるものの、震えるほどのものではなくなっている。
「ここに住んでる悪い幽霊さんです。残念ながら仲良くなれそうにはありません……」
そう言って桃音は肩を落とす。
幽霊。その単語を聞いて優太は、現実味がないまま、あれが幽霊だったのか、と考えた。
今までのことが夢だったかのように実感はない。だが心にも体にもさっきの恐怖がありありと残っている。つまり今のが、俗にいう怪奇現象だったのだろうか。
「初めてだ……」
優太の独り言は掠れていた。ただそれは、まだ残っている恐怖心と、興奮からだった。
「本当に幽霊はいるんだ……!」
今まで見たことはなかったし、怪奇現象に遭遇したこともなかった。だが今優太は、そのどちらも体験したのだ。
恐怖心が興奮に覆い隠される。思わず優太は拳を握り締めていた。
そんな優太を、ポカンとした様子で桃音が見上げている。
優太は興奮に目を輝かせ、先ほどの女性幽霊をもう一度見ようと、周囲を見渡した。
そして自分の前に、女性幽霊と自分の間に割り込んだ女子生徒が、まだそこにいると気付く。
「あ……、あの、ありがとうございました」
近付いてきた女性幽霊を追っ払ったのはこの人だったと、優太は今さらながら思い、慌てて頭を下げた。
それから改めて、目の前にいる女子生徒を見る。
優太に向き直っている女子生徒は、優太が見たことのない子だった。目線の同じ切れ長の目が、無感動に優太を見つめ返していた。スッとした鼻筋と不機嫌そうに引き結ばれた唇。年上なのか、どこか大人びて見える。
「ありがとう、ユッキー」
「……ふん」
桃音がにこやかに言えば、その女子生徒は腕を組んで、ぷいっと顔を背けた。動きに合わせて長いポニーテールが揺れる。ヘアゴムを外せば、黒髪はきっと腰辺りまであるだろう。
「モモ先輩、あの、この人は……」
幽霊であろう女性を、蹴りの一発で追っ払った。一体この人は何者なのだ?
桃音を見れば、にっこりと笑顔を浮かべていた。ひよこが走るようにとてとてと桃音は移動し、女子生徒の隣に並ぶ。
「ぱんぱかぱーん! ご紹介します!」
自分より頭一つ分以上背の高い女子生徒を手で差し、桃音は明るく声を張り上げる。
「時藤雪ちゃん! 通称ユッキー!」
「ユッキー言うな」
「ひゃん!」
ツッコミなのか、時藤雪と紹介された彼女は、右手で桃音の頭を叩く仕草をする。
しかし右手は桃音の頭に当たらず、そのまま桃音の頭を通り抜けた。
「!」
それを見て、優太は大きく目を見開く。
「モモ先輩……まさか……」
……蹴りで幽霊を追い払うことができる人。そういえば学校の七不思議で、ユッキーという名前を聞かなかったか?
優太が震える声で言葉を紡げば、桃音は「えへへ」と笑った。
「ユッキーはね、幽霊さんと仲良くなろうの部の『幽霊』部員だよ」
笑顔の桃音と対照的に、隣に立つ雪はまた「ふん」と鼻を鳴らして、つまらなそうに優太を一瞥した。
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