10、ネックレス
「ごめんなさい、優太くん……」
「モモ先輩のせいじゃないですよ」
落ち込んで肩を落とす桃音と、乾いた笑いを浮かべながら桃音を慰める優太。
体育館の横を、校舎に向かって並んで歩く二人は、頭から靴の先までびしょ濡れになっていた。
「だってわたしが落ちなければ……」
項垂れる桃音の声は小さい。
先ほど、プールにいるという幽霊に会いに行った優太と桃音だったが、プール周りのフェンスには鍵がかかっていた。今の季節は春で、プールを使う必要はない。それを考えれば、鍵がかかっているのは当たり前のことだった。
しかし幽霊に会うという二人の気持ちは固く、どうしようか相談した結果、フェンスをよじ上ってプールへ侵入することになったのだ。
誰にも見つからないようフェンスを上るのに苦戦しながらも――主に苦戦していたのは桃音だが――、二人はなんとか、プールサイドに立つことができた。
そこで桃音は、プールに住んでいるという女の子の幽霊の名前を呼んだのだが、反応はやっぱりなかった。諦めきれず、プールサイドを歩き回りながら名前を呼び続けたのだが……途中で足を滑らせて、桃音はプールに落ちそうになった。
反射的に優太は桃音の手を掴んだ。だが突然だったこともあり、桃音の体を支えきることができなかった。
そして二人は、まだ肌寒いこの季節に、冷たい水の中へ落っこちたのである。
「へくちっ」
濡れたカーディガンの袖から少しだけ指を覗かせて、桃音が口を押さえる。寒いのか軽く震えていた。
「大丈夫ですか?」
桃音の様子を心配しながら、しかし優太も同じ気持ちだった。
濡れた髪や制服が、肌に張り付くのが気持ち悪い。プールの水も汚かったし、何より濡れたことで体温を奪われるのが辛かった。吹く風が濡れた制服の冷たさを強調してくる。
全身びしょ濡れの状態で身震いする優太と桃音を見て、学校に残っている生徒達が、目を丸くして優太達に注目する。
驚きと好奇の視線を痛いほど感じて、優太は顔が熱くなった。
「とりあえず体操服か何かに着替えて……」
このままでは風邪を引いてしまう。
提案を口にしながら、優太は隣を歩く桃音に顔を向ける。
そして硬直した。
濡れた二つ括りの髪の毛の先は、桃音の胸元にあった。胸元が開いたカーディガンの下から覗くカッターシャツに、濡れた毛先から水の粒が滴り落ちる。水滴は、肌にぺったりと張り付いたカッターシャツに吸い込まれていった。その水滴を思わず目で追った優太が見たのは、白地に浮き上がるぼんやりとした肌の色と、下着であろうピンクの色。
どうやら桃音は、カッターシャツの下は下着以外上何も付けていないらしく……。濡れたせいで、本来なら隠れているはずの肌と下着が、ほぼ丸見え状態になっていた。
「優太くん?」
真っ赤になった優太を見て、どうかしたの? と桃音が首を傾けた。
「い、いえ、なんでもないです! 早く着替えましょう! 職員室でタオルか何か借りて……」
優太は慌てた様子で、下駄箱へ駆け寄った。濡れた靴と上履きを履き替える。
靴を履き替える優太を見て、桃音も同じように上履きに履き替え始めた。
「ではわたし、職員室にタオルを借りに行ってきますね」
「あ、いいですよ、俺が……」
「いいからいいから♪ 待っていてくださいなー!」
桃音は明るくそう言って校舎に入り、下駄箱に優太を一人残すと、職員室に繋がる廊下を駆けて行ってしまった。
一瞬優太は桃音を追いかけようかと悩んだけれど、待っていてと言われた手前、動くのも躊躇われた。下手に動いて、入れ違いになるのも困る。
そのため優太は、先ほど桃音が通り抜けた校舎の入り口に足を踏み入れ、そこの壁に背中を預けて、彼女を待つことにした。
「うっ……」
しかし背中を預けてから、優太は自分の体が濡れていたことを思い出す。壁に背中を預けたせいで、濡れたシャツが一層強く、優太の背中に張り付いた。同時に壁の冷たさが生々しく、制服越しに襲ってくる。
思わず優太は、壁から背中を離した。
壁を背に、しかし体重を預けることはせず、優太は大人しく桃音が帰って来るのを待つことにする。
ポタポタと髪や服から垂れた雫が、優太の足元を濡らしていた。
「寒……」
独り言を呟きながら、目にかかりそうになった、濡れて束になった髪を掻き上げて――。
そういえば、と優太は、自分の首元に手を伸ばした。
ネクタイを緩め、襟元へ手を入れる。引っ張り出したのは、ガラスの十字架が付いたネックレスだ。十字架は小指の先ほどの大きさもなく、優太は親指と人差し指でそれを弄ぶ。
「外すか」
ガラスの部分はまだいい。しかし金属製のチェーンをこのままにしておいたら錆びてしまうかもしれない。それは嫌だった。
十字架から指を離すと、優太はネックレスのチェーンを首から外す。
「……」
手のひらにネックレスを載せて、優太はぼんやりとそれを眺めていた。
ほとんどの生徒は、部活動をしているか、帰宅しているのだろう。廊下に優太以外の姿はない。
そのため、普段生徒の声でざわめいている廊下は、シンと静かだった。時折遠くから、部活をしているらしい生徒の声が微かに聞こえてくる。
まるで自分一人だけ取り残されたかのような、不思議な感覚。それこそ、廊下の端から、この世のものではない何かが、こっちに向かってやってきてもおかしくはないような――。
「優太くん!」
「っ!」
ぼんやりとしていた優太は、唐突に名前を呼ばれ、ひどく驚いた。
その際手のひらから、するりとネックレスが落ちる。
「あっ……」
重力に逆らえず落ちていくネックレス。反射的に掴もうとするが、優太の手は宙を切り、目的のものを手中に収めることはできなかった。
優太の視界の端で、誰かが動くのが見えた。
「たーっ!」
廊下の向こうから勢いよく走ってくるのは、両手に白いタオルを持った桃音だった。濡れたスカートが太ももに張り付くのをものともせず、優太の元へ駆け寄ってくる桃音は、タオルを投げ出し、途中からうつ伏せのスライディング状態で、頭から優太の足元に滑り込んできた。
落ちていくネックレスを掴もうと、桃音が伸ばした両手。だが目測を誤ったのか、桃音の指はネックレスに触れることはなかった。
優太の足元、桃音の目の前で、ネックレスが音を立てて廊下に落ちる。
そして、石の廊下とガラスの十字架が勢いよくぶつかって……。
十字架は無残にも、真っ二つに割れた。
呆然と優太は、壊れた十字架を見つめていた。落としてしまった。割れてしまった。頭の中では今の現状を理解しているのだが、感情が追いつかなかった。何も言えなくなるほど、何も考えられなくなるほど、ネックレスの十字架が壊れたのは、優太にとって衝撃だった。
「あ……」
桃音も、優太と同じく、呆然と割れた十字架を眺めていた。しかしすぐにハッとしたように我に返ると、慌てた様子で十字架の欠片とネックレスのチェーンを拾い上げる。
「ご、ごめんなさい……。間に合いませんでした……」
立ち上がった桃音は、真っ二つになってしまった十字架の破片と、ネックレスのチェーンを手のひらに並べ、優太を見上げた。
ネックレスの持ち主でないにも関わらず、その表情は、持ち主以上に泣きそうなものになっていた。
その表情を見て、頭の中が真っ白になっていた優太は、急に現実に引き戻されたような感覚を起こした。
「あ、いや……、元は俺が落としたのが悪いですし……」
粉々に割れなかったのが唯一の救いだろうか。チェーンに繋がった半分と、桃音の手の上にある残り半分の十字架を見ながら、優太は思う。
元はといえば、落とした優太が悪いのだ。壊れたことを嘆いても、悲しんでも、怒っても、誰のせいにもできない。文句すら言えない。
それが分かっていたから、優太は無理やり顔に笑顔を浮かべた。
「大丈夫、ですから」
「でも……」
桃音からネックレスと破片を受け取り、優太はそれをポケットの中に入れる。
ネックレスを壊してしまった現実を見たくなかった。
それに、どうやら受け止められなかったことに責任を感じているらしい桃音を慰めなければ、とも思っていた。
だから優太は、桃音が放り投げたタオルを拾い、一枚を桃音に渡した。
「大丈夫ですよ。綺麗に割れたんで、逆にどうにかなります」
「で、でも……」
桃音はタオルを両手で握り締め、唇を噛み締める。
「学校にまで着けてきてるくらいだから、大事なものだったんじゃないですか?」
今にも泣きそうな桃音の声音。
ずきりと、優太の胸が痛む。
桃音の言う通りだった。このネックレスは、優太にとって大事なもので、かけがえのないもので、同じものを買ったからといってどうにかなるようなものではなかった。
「それは……」
優太は一瞬言葉を失う。けれどだからといって、どうしようもないと分かっていた。
「……大丈夫です」
ここで頷けば、桃音はさらにショックを受けるだろう。あそこで受け止めていれば、と考えるだろう。元はといえば落とした優太が悪いのに、だ。
だから優太は、話題を逸らすことにする。
「本当に大丈夫ですから。それよりモモ先輩、心霊スポット知ってます?」
「え?」
突然変わった話題に、桃音が驚いたような顔をする。
優太はタオルで乱暴に自分の髪を拭きながら口を開いた。
「舞潟駅から少し行ったところに、昔病院だったっていう廃墟があるんですよ」
そこは優太が昔一度行ったことのある心霊スポットで、心霊系の雑誌に載ったこともある場所だった。距離としていえば、柊高校の最寄り駅から電車を乗り継いで一時間程度のところにある。
ネットなどの噂では、幽霊を見た人がいるとかいないとか。ちなみに優太も、何人かとそこへ行ったことはあるものの、幽霊を見たりなどの、怖い体験はしていない。ぐるりと中を一周して終わってしまった。当時一緒に行った、ネットで知り合った何人かと、ここの噂は嘘だったのだ、と肩を竦めたものだけれど……。
あれからも幽霊が出た、という噂を耳にしているので、今行けば見ることができるかもしれない。
「聞いたことはあります。でも行ったことはなくて……」
「じゃあ次、そこに行きませんか?」
「え……」
「部活動の一環として。幽霊が出るって言われてる場所ですし」
「んー……」
「例の幽霊部員だって人も呼びましょうよ。俺まだ会ったことないですし」
髪や体を拭きながら優太は続ける。
体を拭く優太につられて、桃音も体を拭きながら、考えるように唸っていた。
「でもそうなると夜ですよねー。優太くんのお家は門限とか厳しくないんですか?」
「ああ、大丈夫です。俺一人暮らしなんで」
「そうなんですか?」
桃音が目を丸くする。まあ高校生で一人暮らしなんて、そうそうあることではない。
「うーん……」
「あ、もしかしてモモ先輩が都合悪いですか?」
言い淀む桃音を見て、優太は困惑のような表情を浮かべた。
心霊スポットへ行く。しかも目的が幽霊であれば、行く時間も帰る時間も、そこそこ遅いものになるだろう。移動にも時間はかかるし……。
優太はそう考えて、別の案を出そう、と頭を巡らせたのだけれど。
「いえ、わたしはいいんです」
優太の質問に間髪入れず、桃音は答えた。
そしてにっこりと笑う。
「じゃあ次は、そこに行きましょうか」
「いいんですか?」
「はい。でも……」
桃音は少しだけ困ったように笑った。
「例の幽霊部員の子に会えるかなーと思って。何せ幽霊部員なんで」
どうやらすぐに頷かなかったのは、そのことを考えていたかららしい。
「絶対来てくださいって言いますけど、来なかったらごめんなさい。そのときは二人で頑張りましょうね!」
一体何を頑張ろう、なのかは分からないが……。
とりあえず優太は、はい、と返事をしておいた。
「適当に拭いたら着替えますか」
「そうしましょー!」
大体体を拭き終わって優太が促せば、桃音は笑顔で首を縦に振った。
どうやら先ほどネックレスが壊れてしまったことから、上手く話題を逸らすことができたらしい。
……ネックレスについては、アクセサリー好きの柚莉香に聞いてみよう、解決策を考えてくれるかもしれない。
そう考えていれば、同じく体を拭き終わったらしい桃音が、括った髪をタオルに包んで、水気を切っていた。
「では日にちを決めたら、また連絡しま……へくちっ」
「そろそろ着替えに行きますか」
「そうですね……」
苦笑する優太に、鼻を啜りながら桃音は頷く。
どちらともなく二人は、着替えのジャージを教室へ取りに行くために、並んで歩き出して――。
『幽霊さんと仲良くなろうの部』略して幽霊部の、一回目の活動は終了したのだった。
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