一章
がらりと物語が動き出します。あ、ちなみにタイトルも変更しました。
一章:転職
村山とセミ丸の生活は、実にけたたましい。
「なんやねんこいつ?顔かわええけど、めちゃめちゃデブやないの?!」
部屋中にヤニの臭いが充満する。吸っているのは村山ではなく、セミ丸の方だった。
セミ丸の趣味嗜好は、村山とは正反対で、タバコに酒は勿論、ときにはシンナーにまで手を付けるほど。そのため、何度も村山からクズ呼ばわりされ、止めるようにと説得されたが、悉く約束を踏み倒した。
ある日曜日の休日。真っ昼間から村山のいない部屋で、セミ丸は隠し持っていたアダルトビデオを鑑賞している。
「あかんわ!まるでブタやな・・・!せやけどどうしてやろう・・・なんやムラムラしてきた!!」
ぬいぐるみでありながら、欲情を覚えるというセミ丸。彼の姿を見ずに、話を聞く限りでは中年男性のそれと大した差は無いように思える。
「ただいまー」
そこへ、スーパーでの買い出しを終えて村山が戻ってくる。
「あ~~~オレもエッチして~~~!」
大声でセミ丸が気恥ずかしい言葉を口にする。村山は足元を滑らせ、朝早くから並んで買ったばかりの卵を割ってしまいそうになった。
「おうおかえり。卵は無事に買えたようで何よりや」
「じゃねぇよ!!!人が苦労して朝早くから並んでいる間に、おまえはこんな時間からアダルトビデオ見やがって!!!」
「ええやないか。昼間見るからええもんやないの・・・お!見ろよカズキ!もうひとり増えたで!おお!!三人になった!!!あ~~~オレも三人でエッチして~~~」
「やめろこのバカ!!!///なんでもいいからそいつを消してくれ!!!///」
女性への免疫が無いわけではないが、朝早くから見るものではないと主張する村山の言葉に、セミ丸は仕方なくテレビのリモコンを切った。
「ったく・・・ナンギなやっちゃな~。おまえのそういうクソ真面目なところがあかんちゅーてるやないの?」
「真面目とかそういう問題じゃないから!そもそも僕はアダルトビデオなんて借りた覚えはないけどな!!どこで盗んできたんだ!?」
「何をバカなことぬかす!盗んであるか、アホたれ!ちょっと、隣の部屋の大学生の部屋に窓から入り込んで、それで・・・」
「それを盗んだっていうんだよこのバカペンギンが!!怒られるのは僕だってことわかってるのかよもう~~~」
結局、セミ丸がこっそりと拝借したアダルトビデオを律儀に返しに行った村山だが、心境としては言うまでもなく、穴があったら入りたいという気分だった。
幸いなことに、大学生の方は村山を咎めることは無かった。それ以上に、アダルトビデオを所持していたことが近所にばれてしまった事に焦燥を抱いた。
「はぁ~・・・」
部屋に戻った直後に漏れ出る嘆息。生暖かくも、その息を吹きかけられれば幸福というものをすべて不幸に変えてしまうかのようだ。
暗鬱な村山を見て情けなく思ったセミ丸は、かぁ~と言ってから例の如く一喝。
「まったく!ええわかいもんがなんや!そげな溜息なんか付いてるうちは、幸せなんか一生やってけぇへんからな!断言したる!」
「僕的には、お前がこの部屋に隅付くようになってからずっと不幸つづきだよ!ぬいぐるみのくせしてちっともかわいくないんだよ!同じペンギンでも、ドンペンの方がまだよかった!」
たまりにたまりまくったストレスを爆発させ、セミ丸への率直なクレームを付ける村山。
それを聞くなり、プチン・・・という音が鳴り―――セミ丸の眉間に皺が寄る。
「いまなんっていうた・・・?」
怒気を孕んだ低い声で村山に聞き返す。
「ド・ン・ペ・ンの方がよかった!!そう言ったんだ!!」
老人にもはっきりと聞き取れる声量と口の動きで、村山がセミ丸にとって最も屈辱的で言葉で罵倒する。
セミ丸は勢いよく村山に飛びかかった。そして怒髪天衝、怒りに身を任せて殴る、蹴るの暴行を加える。
「おどらあああああ!!もう一遍!!!もう一遍言ってみろや!!!だれがドンペンや!ドンペンってよくも言えたな!!!」
「いたたたた!!!!バカ止めろ!!止めろって!!!」
我も忘れて村山に怒りの矛先を向けてくるセミ丸は激しかった。部屋中にある物すべてを壊しかねない勢いで、容赦ない暴力の嵐を浴びせる。
だが、一方的にやられっぱなしということもなかった。
業を煮やした村山は殴られた箇所をセミ丸の部位にオウム返し。更には、台所から包丁を取出し、ぬいぐるみであるセミ丸に刃を向けて降伏を迫る。
「それ以上来てみろ!こいつでてめぇの身体をバラバラに引き裂く!」
「やれるもんならやってみい!!どうせゴキブリも殺せない臆病者のおまえには一生無理やからな!!だはははははは!!!!」
「このクソぐるみめ・・・・・・調子に乗るのも大概にしやがれ―――!!!」
堪忍袋の緒が切れた瞬間―――村山は包丁を掲げながらセミ丸に向って突進する。
そのタイミングで、部屋のインターホンが鳴り響く。
「宅配便ですー!」
第三者が部屋にやってきたことに焦りを抱いた二人は、咄嗟に荒れ果てた部屋を他人が見てもいいように片付ける。包丁は元通りの位置へと戻し、ひとまずは誤魔化せることができるだろう。
「い、いま開けます!!」
声のトーンが若干高いのは、彼の中のフラストレーションが完全には沈静化していないことの証拠である。
額に汗を浮かべながら、村山は玄関の扉を開放する。
「おとどけものです」
「ああ、どうも!ごくろうさまでした!」
「判子お願いします」
「はーい!」
手短に業者とのやり取りを終え、宅配物を受け取り居間へと戻る。
「ふう~~~。すげー焦った~~~・・・!あれで大家さんが来たらエラいことになってたかもしれない」
「ここの大家。メチャクチャうるさいって有名やもんなー」
「前の住人が、ペット禁止のくせにこっそり飼ってて、それがバレたら即出て行かされたんだってよ。僕たちも気を付けないと」
それを聞くと、セミ丸はベッドの上に乗っかり、断言する。
「オレはペットちゃう。ぬいぐるみや!」
「だったら!ぬいぐるみならぬいぐるみらしく、ちったー大人しくしてろ!!ったく・・・えーと、誰からだろう・・・」
気を取り直して荷物を確認する。段ボールの上に貼られた紙に書かれていた送り主の名前と住所に、村山は目を見開く。
「あっ。北海道の母ちゃんからだ」
「何や仕送りか?」
「多分そうだと思うよ。何が入ってるのかな・・・・・・」
段ボールに掛けられたガムテープをはがし、おもむろに箱を開封し中身を取り出す。
「お。じゃがいもが入ってる・・・缶詰にカップ麺、手袋と・・・・・・いろいろ助かるな~」
様々な生活用品がぎっしりと詰められている。どれも貧窮しがちな若者にとっては大変にありがたい代物だ。
地元北海道を離れ、東京に出ること二年―――仕送りを通して、母親の息子への愛情をしみじみと感じ始める今日この頃。村山は内心、ありがとうの気持ちでいっぱいだった。
「あれ?」
段ボールの中に入っていたものを一通り取り出していた矢先、村山は呆気にとられた声を漏らす。
「なんやねん?変なものでも入ってたんか?」
「これって・・・・・・」
村山は丁寧に段ボール箱の中に収められた、掌に乗る程度の大きさのものを取り出す。
気になったセミ丸が顔をのぞきこむと、何十年もの昔に使われた年季の入った手帳が、村山の掌に乗っかっている。
「えらい古くさい手帳やな!年期もんやな」
「おじいちゃんの手帳だ・・・・・・」
セミ丸の言葉の後、村山は漫ろに寂しさを覚えながら呟いた。
「じいさんって・・・カズキの?」
「もう大分前に死んじゃったけど・・・・・・僕は昔からおじいちゃん子だったからな~」
そしてそのとき、村山はふと思い出す。
「そういえば、この手帳・・・小さい頃におじいちゃんから貰ったんだっけ。わざわざ送ってくれたんだ」
幼少期に今は亡き祖父から譲り受けた大切な手帳を、村山の母親は彼の元に送り届けてくれた。
手帳の中を開くと、祖父が書き綴った殴り書きの文字がびっしりと書かれている。そのことに、村山がしみじみと思いを馳せていると―――
―――おじいちゃん!
「え・・・」
それは、遠い昔の自分の声だった。
唐突に景色が変わり始め、色彩がセピアトーンに集約されると、村山はその目に幼き頃の自分と、生きていた頃の祖父の姿を見た。
一瞬幻覚ではないかと思った。だが、幻覚と呼ぶにはあまりに現実味を帯びていて、それでいて色がセピアで統一されているという不思議な世界。
幼き頃の村山は、祖父がよく座っていた庭の縁側で走り回り、祖父に呼び止められると満面の笑みを浮かべながら大好きな祖父の元へと歩み寄る。
―――おじいちゃん!ほら!!
幼き村山は庭先で見つけたカブトムシを自慢げに祖父に見せ、対する祖父は孫の喜ぶ姿に感慨無量の笑みを浮かべる。
「おじい・・・ちゃん・・・・・・」
夢のような、だが夢とはどこか異なるこの異質な空間に入り込んだ瞬間―――村山の心は狂ったようにこの一瞬のひとときに縛り獲られる。
永遠に続くともわからない幸せな頃の時間を、二十四歳となった大人の村山が凝視する。
もう少しの時間だけでもいいから、この幸せなときに浸っていたい・・・―――そう思っていた矢先、村山は現実からの呼びかけを受ける。
「・・・キ・・・ズキ・・・カズキ!」
意識が現実の世界に戻った。
我に戻った際に、村山の目に真っ先に飛び込んできたのは、セミ丸の顔だった。
呆気にとられる村山を怪訝そうに見ながら、セミ丸は言う。
「なにボーっとしとるんやおまえは」
「え。ああ・・・ごめん・・・ちょっとね」
何度か首を横に振って、現実の世界に戻ってきたことを確認する。
村山は不思議な体験の後、祖父から貰った遺品の手帳を大切なものとして、箪笥の引き出しの中へと仕舞い込む。
「感傷にでも浸ってたんか?女々(めめ)しいもんやないの!」
「あのな!別にいいじゃないかよ。これにはおじいちゃんとの思い出が詰まってるんだから・・・・・・でも不思議だな」
「?」
「一瞬だけど・・・・・・頭の中に直接、小さい頃の僕とおじいちゃんが一緒にいたときの情景が、鮮明に思い浮かんだんだ」
本当にあれは夢だったのか、そう思った村山は、先ほど経験した不思議な出来事について考察する。
夢と現の間で経験したあの出来事は、単なる幻覚の一種なのか・・・あるいは手帳に込められた、死んだ祖父が今の自分に充てた天上からのメッセージだったのか・・・
いずれにしても、その真偽を確かめる術は存在しない。だが村山がひとつだけ感謝したことがある。
遺品を通じて、多忙な毎日の中ですっかり忘れかけていた、幼き頃の大切なひとときを思い出すことが出来たのだ。
村山一樹が見た情景―――遺品に込められた死者のメッセージを体験する。
この日、思わぬ形で才能を目覚めさせた彼の新たな人生は、この時から始まっていたのだ。
◇
村山の身に起きた、不思議な体験から数日が経過した。
その日村山は、会社でいつものように仕事をこなし、いつものような平凡な毎日を送っていた。
デスクに向かって仕事に励んでいた砌、彼の一つ下の後輩が声をかけてきた。
「村上さん、絶好調じゃないっすか!」
「何が?」
「何がって・・・決まってるでしょう!今期の営業成績、トップじゃないですか?」
後輩は村山の背中をポンと軽く叩くと、営業成績が一目でわかるボードを指さす。その中で、今期の営業成績で村山はダントツのトップを勝ち得ている。
「ああ。そうだな。自分でもびっくりしてるよ」
「こりゃ昇進も近いかもしれませんね」
「だといいけどな」
入社から二年。それなりの苦労と気疲れにも慣れ始め、仕事の要領を早くに掴んだ村山は、営業課で着実に自分の力を伸ばしつつ、会社の業績を上げるのに一役買っていた。
かねてより、コミュニケーション能力は高く、人付き合いも卒なくこなし、且つ他人からの人望も厚い。これらの事を考慮すれば、入社二年目の村山にも昇進の機会は充分に考えうる話だ。
内心、昇進があったらいいなと期待をしていた村山は、そうなることを祈って仕事に励んでいた―――
「村山君」
不意に村山の肩に手を置かれ、低い声で呼びかけられた。
振り返ると、すぐ後ろに立っていたのは営業課の課長であり、村山の上司だった。
「か、課長!」
突然の課長の登場に吃驚する村山。
課長は罰の悪そうな表情で村山を見ながら、軽く咳払いをする。
「ちょっといいかな?」
「あ・・・はい・・・」
課長に呼び出しを受けた村山はデスクを離れ、課長の後ろへと着いて行く。
(もしかして本当に、昇進の話とかだったりして・・・・・・)
てっきりそんな淡い希望を抱いていた村山だが、課長の後姿はどうもそういう雰囲気を醸し出していない。
村山は咄嗟に呼び出しを受けたことについて逡巡する。
入社二年目で、仕事も覚え始め村山だが、重大なミスが全くなかったという訳ではない。ところどころで小さなミスもいくつか犯しているから、そのことで会社に何らかの不利益を生んで、その責任を問われるのではないか―――不安に支配されがちな村山は、小会議室の中へと入る。
小会議室に入った直後、課長はブラインドで外の景色を遮断し、電気も何もつけていない薄暗い部屋で、村山に話しかける。
「まぁ、かけたまえ」
「はい」
村山はおもむろに、そばの椅子に腰を下ろす。そして、課長の話に耳を傾ける。
「それでだ、村山君。君に大切な報告があるのだが・・・」
「報告?はい、なんでしょう・・・」
当たり前のようにそう尋ね返すと、課長は真顔を浮かべながら村山に口にする。
「来期から・・・いや、明日から君は、この営業課に居られなくなる」
「・・・はい?!」
自分の耳がボケたのではないかと思った。だが課長がいった言葉に嘘や偽りは毛ほども感じられず、否が応でも厳格なる事実であることを痛感する。
「悪い事は言わない。君に残された選択肢はふたつにひとつ。この会社を辞めるか、あるいは―――」
「ちょっと待ってくださいよ!」
納得がいくわけも無かった。怒気を孕んだ声を張り上げると、村山は椅子から立ち上がり、長机を叩いてから課長に物申す。
「一体どういうことですか!?なんでいきなり会社を辞めることになるんですか!?正当な理由があるんでしょうね!説明してください!」
「まぁ、落ち着きたまえ」
怒りに燃え、理性を失いかけている村山とは対照的に、課長は無感情にも思えるほど冷静だった。
一旦村山を椅子に座らせてから、課長は咳払いをし、再度話を切り出す。
「この不景気の世の中、我が社もギリギリのところで首が繋がっているのだ。ある程度の犠牲はやむを得ないのもまた事実でな」
婉曲した言い回しだが、要するに課長は社員のリストラもやむを得ないということを村山に言ってきた。
「それが私だというのですか?・・・冗談じゃない!!私はね!この2年間、ノルマを上げるために死に物狂いで努力して来たんですよ!課長が教えてくれたんじゃないですか、入社したてで右も左もわからないこの私に、営業のノウハウを叩きこんでくれたのは!」
「・・・・・・」
入社したばかりの村山の直接の指導者だったのが、目の前の課長だった。当時は営業課の係長であり、常に人も情報も右往左往する東京に出て働きはじめた村山を、厳しくも温かく指導してきた。
そんなつい最近の記憶を脳裏に浮かべながら、課長は神妙な表情を作る。
「辞めるという選択肢もまたひとつと言いましたけど・・・じゃあ、あとひとつは何なんですか?辞める事よりもマシな選択肢があるんでしょうね?」
という村山の問いかけに、課長が口にした答えは遣る瀬無い思いでいっぱいだった。
「・・・・・・ある意味では、辞めるよりも辛いことになるかもしれないぞ」
「どういうことですか?」
課長は上層部から下された、村山への辞令を言い渡す。
「―――村山君。明日から君は管理部に異動だ」
「管理部に?」
「これは業務命令だ。変更はできない」
「・・・・・・」
突然言い渡された辞令に、村山は何も言い返すことはできなかった。
苦労はあるが、遣り甲斐を持ってしてきた営業の仕事から唐突に外され、管理部への異動を命じられた。
だがその翌日、彼が目にした光景は―――あまりに想像とは異なる地獄のような風景だった。
辞令が下された村山は翌日、営業課で使っていた荷物を段ボール箱に詰め、会社の廊下を歩いていた。
辞令に従って、会社の階段を下り続ける中、一抹の不安を覚えていた。
「なんだここは・・・・・・?」
管理部は営業課の下の階にあるということは知っていたが、それにしてはおかしな点がいくつかある。ひとつは、辞令にはエレベーターではなく非常階段を使って移動することが支持されていたこと。もうひとつは、その辞令を知っているのは、会社の中でもごく一部だということ。
村山の額に冷や汗が浮かんだ。なにか、とんでもない罠に嵌められたのではないかという強い不安が込み上がる。
「ほんとうにこんなところに仕事部屋なんかあるの?」
そう呟きながら階段を最後まで下った先に、村山の仕事部屋が見えてきた。
電気も碌にない薄暗い廊下を歩いたところにポツンと設けられた一枚扉。この扉の向こうに何が待っているのか―――意を決して村山はドアノブに手をかけ、おもむろに開放する。
扉向こう側をのぞいた瞬間。村山の頭の中は真っ白になった。
「・・・・・・・・・なんだよこれは?」
そこは最早仕事をするような環境とはほど遠い空間だった。黴臭い部屋の中に無造作に放置された廃棄資料でいっぱいの段ボール箱の山に埋もれている、一人分のデスクとパソコンが一台。
ここが、村山一樹の新たな仕事部屋として与えられた。
だが村山は瞬時に悟った。ここが会社が自分のために与えた仕事部屋などではないということを―――
「まさか・・・・・・ここって・・・・・・」
村山は目の前の光景に近いものを、その状態を指す言葉を、何らかの形で脳に留めてあった。その記憶を引っ張り出した直後―――村山は段ボール箱を強く地面に叩きつけ、激昂する。
「チクショー!!冗談じゃねェぞ!!こんなところに入れられるくらいなら、こっちから願い下げだ!!望み通り辞めてやる!!!」
怒号が部屋中に反響。
村山は最悪な現状を理解し、会社を飛び出した。
当初は会社を辞めるつもりなど微塵もなかった彼だが、会社が要求してきた理不尽な仕打ちを前に、その考えはあっさりと捨て去った。
図らずも彼は、課長の言葉にもあったとおりの選択肢に及んだ。
村山一樹が、この会社に戻ることは二度と無かった――――――
◇
「うっそ~!こんな燃費がええわけあるか」
ひがな一日。セミ丸はぬいぐるみらしく、部屋に閉じこもりダラダラと過ごしている。村山のベッドの上に転がり込み、車雑誌を見ている。
そんな時―――ドンッ!という音と共に扉が開く。
怪訝そうに玄関の方をのぞき込むと、息を乱した様子の村山の姿があった。
「ただいま!!」
「カズキ?どないしたんや、一体・・・もう仕事おわったんか?」
「仕事?・・・はっ!誰があんな仕事できるかよ!!辞めてやったぜ!」
「はぁ!?辞めた・・・!辞めたって、会社をか!?」
「ああそうだよ!」
会社での勤めが早く終わったのかと思えば、村山が口にしてきたのは退職宣言。あまりに唐突過ぎる話に、大抵の事では驚かないセミ丸も耳を疑い、車雑誌を放り投げて村山の元へと歩み寄る。
「んなアホやろ!?オレをダマそうっていう魂胆が見え見えや!どうせあれやろ、若気の至りみたいなあれで、仕事サボる口実かなんかやろう?」
だが、実際はそうではなかった。
冷蔵庫から取り出した麦茶を一気飲みした村山は、怒髪天を衝くが如く、怒りに支配された様子でコップを強く叩きつける。
「こっちは本気でイラついてんだ!人を追い出し部屋なんかに入れやがって!!」
「追い出し部屋?なんやそれ?」
「不況の中、無作為に社員を地下室みたいなところに閉じ込める一種のパワハラみたいなもんだよ。最近ニュースでも取り上げられてるだろ?」
『追い出し部屋』
それが、村山が会社から受けた陰湿な嫌がらせの名前である。
会社が募集する希望退職に応じないリストラ対象社員を集めて、自己都合退職に追い込むといわれる部署の通称で、業績の不振から大規模なリストラを進める大手電機メーカーなどの大企業を中心に設置されているといわれ、2012年12月に新聞がその存在を報じて以来、大きな議論を呼んでいる。
報道によると、配属された社員は社内失業状態に陥り、自らの出向先を探すことや雑用などの単純作業ばかりを強いられたあげく、最終的には“自主的”な退職を選ばざるをえなくなることから「追い出し部屋」という名がついた。
村山一樹が勤めていた会社も、それなりに大きな会社であり、不況からリストラ対象者を募っていた。
だが解雇には必ず正当な理由がなければいけない。もしも突然のリストラを言い渡された元社員が会社を相手に訴訟を起こした場合、ほとんどの確率で会社は敗訴し、多大な損害賠償請求を飲まざるを得なくなる。そこで、そうしたリスクを避けるために会社がとった行動は、追い出し部屋に押し込むことで社員の自主的な退職を求めるということだった。
「だけどそれがよりによって僕かよ!!こっちは入社してまだ二年目!!ようやく軌道に乗って来たかと思ったらこの様だ!!」
普段は温厚な性格の村山が憤慨する。
彼は裏切られたのだ。自分の障害を懸けて働いて行くと誓った会社から、早々に見切りをつけられた―――
腸が煮えくり返る村山の様子に、普段は口やかましいセミ丸も圧倒される。
「な、なるほど・・・いろいろ大変やったんやな。せやけどカズキ・・・勢い余って辞めたのは男らしいっちゃらしいが・・・」
「?」
「辞めたら辞めたで、仕事探すの大変ちゃうのか?この不景気の世の中、新卒ならともかくな」
セミ丸は危惧している。村山が会社を辞めたことに対して、率直な不安を感じていた。
村山は新卒採用で会社に入社した。だが今回のことで村山は会社を辞め、無職となった。たとえそれが己のプライドを深く傷つけるものであったとしても、無職となったからには早々仕事を見つけなければ、生活に多大な支障をきたすことになる。
セミ丸がそうした危惧の念を抱く中―――村山は楽観的な見解を述べてきた。
「大丈夫だって心配すんなよ。追い出し部屋に入れるようなクソみたいな会社じゃなきゃどこだっていいんだから!見てろよ!!直ぐに仕事なんて見つけてやるからな!!」
しかし、現実は村山が思った以上に厳しい状況にあるということを、彼はにゅじつに痛感するのだ―――
会社を辞めて無職になった彼は、あらゆる企業への再就職に拍車をかけた。
だがそのすべてが不発に終わった。村山は、人生で最大の岐路に立ってしまった。
「はぁ・・・・・・ぜんぜんみつかんねぇ~~~~~~!!!」
「しゃあから、勢いだけじゃあかんゆーてるやろうが」
セミ丸の危惧したことがいよいよ現実味を帯びてきた。村山が無色であるということは、率直に生活の供給源である資金が絶たれたことを意味しており、少ない貯金を切り崩す状況も、時間の問題となった。
「どうしよう~~~///マジでピンチだ・・・!あと1週間以内に仕事見つけないと、ここの家賃も払えず部屋を追い出される羽目になる・・・!そうなれば僕たちは・・・!!」
「なんやて!?あかん!そりゃ絶対にあかん!!おいボケナス!!なにをグズグズしとんや!さっさと仕事見つけ!!」
「これでも一生懸命やってるよ!!!だけど・・・・・・あ~~~どうすればいいんだよ!!」
求人募集はあっても、企業が村山の能力を買ってくれるわけではない。そして無意識のうちに、村山は自分の趣味嗜好に合わせて企業をえり好みしていた。それが災いして、人生始まって以来の窮地に立たされることとなった。
「もうあれこれ悩んどる場合ちゃう!片っ端に求人雑誌を読み漁るんや!できるだけ日当が高い奴をな!!」
「く~・・・えり好みなんかしてる余裕じゃないよな・・・」
こうなったからには、プライドもそれらの感情も投げ捨てて、とにかく働ける場所を業種に関係なく探すほかは無かった。
セミ丸と一緒に膨大な求人雑誌を読み漁り、微かな希望を信じて次なる仕事を見つけだそうと努力した。
そして、微かな希望を信じた結果―――セミ丸が見つけてくれた。
「おっ。おいカズキ、これなんかどうや?」
「なにこれ?」
おもむろにセミ丸から雑誌を受け取った村山は、セミ丸が赤いペンで囲ってくれた蘭を凝視。書いてある文字を読み上げる・
「『遺品整理の“死伝手”―――お亡くなりになられた方の遺品なんでもキレイに整理いたします』・・・・・・遺品整理?」
「この前新聞で見た記事にな、これの特集があったんや!最近需要が多くて、結構ねらい目やと思うで」
『遺品整理』
核家族化が進み、夫婦二人や一人住まいの高齢者世界が増加。子どもも遠方に住んでいたり、仕事が多忙などで遺品整理に携われないケースが多い。親戚付き合いも薄まり、かつてのような形見分けも少ない。周りとの交流もなく、孤独する老人は数多い。
そんな事情を背景に、家族に代わって遺品を片付ける遺品整理業の需要が増している。セミ丸が見つけたのは、正にその求人だった。
「でも遺品整理って、資格とか必要なかったっけ?」
「そんなもん後からでも取れる!ほら見てみ、ここ!この遺品整理業者、資格もなにも一切不要の人材募集いうてるやないか!」
求人情報を見ると、特に必要な資格は必要なしと書かれていた。
「確かに・・・」
村山が危惧する資格というのは、遺品整理し認定協会が定める民間資格「遺品整理士」のことであり、単なる遺品整理業は許認可等が無く、誰 でも出来る業務だ。但し、遺品整理に付随する業務【廃棄物の処理】【物品の売買】【運搬 ・配送】等の業務には許認可が必要となり、こういった業務を取り扱う上で上記のような資格が必要となって来る。
「ダメもとで電話してみー。男はいつでも、当たってくだけろや!!」
「・・・そうだな。じゃあ、ダメもとで電話してみるか」
えり好みをしている余裕など、村山にはなかった。
セミ丸からの勧めを受け、意を決して村山は遺品整理業者“死伝手”へ電話を掛ける。
緊張の面持ちで、受話器の向こう側から聞こえる声を待つ村山。
「・・・お電話ありがとうございます・・・・・・遺品整理の死伝手です・・・」
プツンという音の後―――かすれた女の声でそのような言葉が聞こえた。