05
綺麗な景色ばかりでは見飽きてしまう。だから、いつもはあえて悪い景色を見る。だって、じゃないと世界が、色褪せて見えるから。
「東雲!」
廊下に響く怒声に意識が戻る。
先ほどまで夢を見ていたかのようなそんな既視感を覚えて、頭の中はまだボーっとしている。
「城先輩…」
自分の目にコンプレックスを持っている城先輩は、色素の薄い前髪で目を隠す。吊り上った一重の細い目は、歳の離れた妹に怖がられるのだそうだ。
「廊下のど真ん中で何ボーっとしてるんだ?人にぶつかるぞ」
「なんでもありませんよ」
ネクタイを締め直して、城先輩を見る。城先輩はバスケ部の部長であり、偽善者だ。俺は先輩のそんな所を気に入っている。自覚のない偽善者より、自覚のある偽善者の方が好みだ。
「何か、あるんなら言えよ」
「はいはい。あったら言いますよ」
クルリと方向転換して、授業をサボる為に屋上を目指す。
俺の世界はとても狭い。
勉強に、部活。それと女だけの狭い狭い世界。この学園に入学したのは単に、この学園からスポーツ推薦が来たからだ。
元々、バスケは好きだった。ボールの重さ、パッシュの床を擦る音、匂い。それのどれもが俺を高揚させてくれた。
なのに、今は腐りきった自分が居る。ゴールに向かって適当に放れば入るボール。試合中に止むパッシュの床を擦る音。遠く離れた点差は、相手を絶望に追いやるだけだった。そうして、俺の世界は徐々に狭くなり、閉ざされていくのだろうと思った。
「君、バスケ上手いのね」
そんな腐りきっていた俺に、最初に声を掛けてきたのは先輩だった。クリーム色の長い髪から良い匂いした。
「私、木野蓮華っていうの。貴方は?」
「………田中翔太」
綺麗な人だと思う。その綺麗さに欠点はない。だけど、わかる。この人は、期待されすぎた可哀想な人だ。咄嗟に偽名を使ったのはなんとなく。綺麗だけど、優しいけど、大好きだけど、そんな女は腐る程居る。
中学の時に一度目の運命の出会いを果たした彼女を俺は、心底心酔し、そしてこの人といつか結婚出来ればと考えた。
そして、二度目の運命の出会いが俺にはあった。入学式直後に、寄った桜並木のベンチで漫画を読んでいた女。黒い重たいセミロングに、青いラインの入った黒いセーラー服。その女に寄り添うように、先ほど買ったばかりと思われる書店の空の紙袋が置いてあった。
「前、よく見ないとぶつかるよ」
「うわあっ!!!?」
前面からチャリがこちらに向って爆走していた。ギリギリの所でかわせたが、あたっていたら、バスケが出来なくなっていたかもしれない。
「ありがとー、ございます…」
返事はなかった。
女に無視されたのは初めて、なんとなく悔しくて女の座りに座って、女が読んでる漫画を覗きこんだ。そこにはちょうど、「前、よく見ないとぶつかるよ」というセリフがあった。しかもなんだそのコッテコテの格闘漫画。最新刊出たのかよ。俺も買わないとな…じゃなくて。これ、思わず口に出しちゃったのか?そういう事か?それを俺がたまたま聞いてて、たまたまチャリが爆走しながらここを通っただけって、えー…。
「なぁ、」
「………」
「…………」
「………………」
この女、漫画に夢中になりすぎだろ。
「おい」
ちょっとムカついて来て女の太腿をがっしりと掴む。なかなか柔らかい。これじゃ、ただの痴漢にしか見えないな。
ふむ。と考えて女の肩に手を回して、自分の膝の上に移動して、柔らかい太腿フニフニと揉む。
「え!!?ちょ、ちょっと…!」
「んー」
柔らかい上に、尻は安産型と来てる。なかなかいいな。何を隠そう尻フェチな俺には堪らない。左手がお腹辺りを彷徨ってい始めた頃に、顎に痛恨の衝撃。
「変態滅びろ!!」
女は勢い良く俺から離れて、走り去ろうとしたが動揺していたのか数歩先で転んで、ノソリと起き上る。俺はほぼ無理矢理女が座っていた所に座らせた。
「触らないでください」
そう言って、盾替わりにした漫画本はコッテコテの格闘漫画。俺を笑わせたいのか?
「なぁ、アンタって好きな子居る?」
「志蒼龍が今の所好きですね」
「いや、好きなキャラクターの話をしてるわけじゃないんだけど。俺も好きだけど」
「好きは幻想。嫌いは認知。愛は現実。私の持論」
……幻想?
この女は、俺の先輩への好きも、バスケの好きも、幻想だというのか?あぁ、でも、そうかもしれないな。人の想いの移り替わりは目まぐるしい。
「私は今、この本が好きだけど、いつかこれが好きでもなんでもなくて、中古本屋に売りに行くかもしれない」
「は?」
「それと一緒で、他人が他人を好きになるっていうのはとても簡単な事だと思う。逆に、他人が他人を嫌いになるのはとても難しいんだと思う。なんとなく嫌い。この人のここが嫌い。そういう人は世の中沢山居るんだと思う。けど、好きや嫌いという感情を育むには、その人自身を知らなければ出来ない事で、そうなるまでにはその人の事を視界にすら入れていないという事、だと思う」
「……それも、アンタの持論?」
「そう。愛は、なんだかんだ言って、結局好きなんだと思う。家族とか。嫌いだ嫌いだ言ってても結局、好きなの。そういうの、愛だと思う」
なんだかんだ言って、結局、好き…?
そんなの、俺にはバスケしかない。
そうか。俺は、バスケを愛してるんだ。
苦しくて、辛くて、狭いだけの俺の世界は、先輩のお蔭で広がったと思った。それは幻想で、本当は全然広がってなくて、抗う事さえ許さずに、この女に現実を叩き付けられただけだった。
「俺さ、好きな先輩が居て、この人の事、この先ずーっとブレる事なく好きで居るんだろうなって、思ってた。バスケよりも、好きなんだって、この人の為ならなんだってしてやろうって、そう、思ってた」
女は俺の話を黙って聞いていた。相槌すらないそれは、本当に聞いてるのかわからなかったが、どうでもよかった。
「けど、アンタのその持論聞いて、真っ先に思い浮かんだのは先輩じゃなくて、バスケだった。俺にとってバスケは、苦しくて、辛くて、大嫌いなのに、なのに………辞める事が出来なかった」
バスケの全てが嫌いなのに、気付いたらいつも体育館に居て、バスケボールを持っている。家に居ても、なんとなくストバスに行ったりとかよくしてた。嫌いなのに、なんでっていっつも思ってた。先輩は、俺がバスケしてる姿を見るのが好きだけど、辛そうな顔してやってるから俺の今のバスケは嫌いだと言っていた。最初は意味がわからなかったけど、今ならその意味もわかる。
「だから、アンタには感謝してる。ありがと」
「………別に何もしてないけど。あ、しょうがないからこれあげる。これなら私、アンタになんかしたし」
「……………」
天然、なのか?よくわからないけど、漫画は貰っておいた。
あの時の事を思い出すと、フッと笑いが零れる。もう一度、あの人に出会えればいいな。今度は、ちゃんとお礼がしたい。けど、きっとあの人はなんの事かわかってないんだろうな。
物思いにふけながら、屋上へと繋がるガラス戸を開けた。空は、晴天だった。