第九話 バケツと少女
「ふい〜……疲れるなぁ、ったく」
額に流れる汗を拭いつつ、俺は愚痴をこぼす。真上から降り注ぐ殺人的な直射日光が、容赦なく俺の体力を奪っていく。
「曇らねえかな、そうすりゃ少しは楽なのに。あ、雨が降ってもいいか」
軽く祈ってみるが、俺は雨乞いなんてスキルは持ち合わせていない。そんな俺を嘲笑うかのように、日差しはきつくなるばかりだ。
遠くからは蝉の大合唱が聞こえ、吹き付ける風はまったく涼しくない。温風熱風どちらの表現でも構わないが、すこぶる暑かった。
「ま、愚痴を言ってる暇があったら手を動かすとしますか」
大根の葉を片手でつかみ、一気に引き抜こうとする。だが、大根は抜けない。
今度は両手で大根の葉をつかみ、引き抜こうとする。だが、大根は抜けない。
「うーむ、どっかの昔話みたいだな」
気合を入れる。そして、大根の葉をつかんで思いっきり踏ん張った。
「ぬおおおお! それでもカブは、抜けませーん!」
カブではない、大根である。
俺は背筋の限界に挑戦する気持ちで、大根を引く。掘ったら簡単に抜けるだろうが、それは駄目だ。一度チャレンジしたことを、途中で投げ出すのは美学に反する。まあ、そんなものはないが。
「ぬあっ!?」
思いっきり引いていると、大根が地面から引き抜かれる。それこそ、スポンッ、という擬音が似合うほどだ。
勢い余った俺はそのまま後ろへと回転する。ギリギリまでしなっていた竹が元に戻るかのように、俺の体も後ろへと投げ出された。
「一人バックドロップか!」
思わず叫ぶ。視界が回転し、引き抜いた大根が宙を舞う。俺は雲一つない空を見上げながら、後ろへと倒れこんだ。
「……ここがアスファルトの上だったら、俺死んでたな」
クッション代わりになった土に感謝しつつ、呟いてみる。衝撃はあったが痛みはない。そう判断して起き上がろうとすると、不意に影が差した。
「?」
それを疑問に思う暇もなく、頬を何かが掠める。その白い物体は、何やら重い音を立てながら地面へと突き刺さった。
「…………」
今までの汗とは違う、冷や汗が俺の額を伝い落ちる。俺は起き上がろうとした体勢のままで、頬を掠めた物体に目を向けた。
「だ、大根!?」
そこに刺さっていたのは、大根だった。おそらく俺がさっき投げてしまった物だろう。重量一、二キロはありそうな大根が、地面に刺さっている。もしも顔面に当たっていたらと思えば、冷や汗が流れるだけだ。
「やべえ、大根って人を殺せるんだな」
しみじみと呟く。もしや、放り投げた復讐ではあるまいか。
内心で謝り倒し、俺は今度こそはと体を起こす。太陽光で暖められた地面は、背中が痛くなるぐらい熱かった。
「ま、あと少しだし、頑張りますかね」
地面に植えられた何本かの大根を見て、俺は指の関節を鳴らす。野菜というのは、意外と侮れなかった。
収穫した野菜を運び、俺は一息吐く。日陰に入ると、今までの暑さがまるで嘘のように涼しかった。
扇風機が回っているわけではない。ましてやクーラーが効いているわけでもない。そんな上等な物は、この田舎には存在しなかった。だからこそ、自然の涼しさが心地良く、ありがたい。
俺は冷蔵庫から麦茶の入った入れ物を取り出し、コップも棚から拝借する。
麦茶を平面張力ギリギリまで注ぐと、それを一息にあおった。
「ぷはー。この一杯のために生きてるんだぁー」
まるでオヤジである。ちなみに、飲んでいるのは純粋に麦茶だ。泡は出ない。
「炭酸だったらもっと美味しかったのになぁ……」
少しばかり愚痴ってみるが、麦茶でも十分に美味しい。いや、例え水道水だろうが、疲れた体には美味しく感じられるだろう。
俺は何杯かの麦茶を摂取すると、日焼けで僅かに痛む腕を撫でた。
いやいや、中々見事にローストされている。このまま一ヶ月ほど頑張れば、きっと皮膚癌になれるだろう。
そんな嫌な想像を浮かべ、すぐさま破棄する。ついで、日焼け止めは持ってきていたかを思い出し、ため息を吐いた。
「こんなに日差しがキツイってわかっていたんなら、絶対持ってきてたのにな……」
生憎と、駅前には売ってないだろう。蚊取り線香ならありそうだが。
俺は最後の一口と麦茶を飲み込み、視線を家の前の道へと移す。
「……ん?」
僅かに、人影が見えた気がした。
「んー……」
見間違いかともう一度見てみるが、どうやら見間違いではないらしい。黒の長髪をなびかせて、一人の少女が立っている。
その姿を見て、俺はゆっくりと歩み寄っていく。
「よう、良い天気だな」
そして、軽く右手を上げてみた。すると、その少女―――牧原は僅かに微笑んだ。
「そうですね。雲一つない、良いお天気です」
「俺としては曇ってるほうが良い……って、あれ? 曇りのほうが紫外線キツイんだっけ?」
頭上で熱射線をばらまく太陽を見上げ、首を傾げる。
たしか、曇りのほうが紫外線がキツかった気がした。
「だけどまあ、それはどうでもいいか」
俺は笑いながら、牧原が持っている物に目を向ける。
ソレは、俺が広田さんに渡しておいたバケツだった。
そんな俺の視線を受けて、牧原がバケツを俺に差し出す。
「お返ししますね」
「おう、サンキュ。んで、答えは?」
気軽に尋ねる。そっちのほうが、牧原も答えやすいだろうと思って。
「……正直、まだ貴方のことを完全に信用したわけじゃありません」
「おや、これは手厳しい」
「だけど……」
俺の合いの手に反応せず、牧原が真っ直ぐな視線を向けてくる。
「信用、してみたいと思いました」
その表情はあまりに真剣で、
「ああ。信用しといて損はないぜ?」
俺は、思わず笑ってしまった。
「な、なんで笑うんですか!?」
そんな俺に、牧原が焦り半分怒り半分といった表情で文句を飛ばす。
だけどまあ、しょうがないだろ? こっちだって嬉しいんだから。
俺は牧原と一緒に日陰へと移動し、受け取ったバケツを横に置く。そして、ついでに尋ねてみる。
「牧原も麦茶飲むか? バケツで」
「いりません!」
「いや、冗談だから。頷かれたら逆に困るんだけど」
“素”の表情で突っ込みを入れてくれた牧原に破顔しつつ、俺はもう一個コップを取ってくる。そしてコップを牧原に差し出した。
「えっと、なんですか?」
そう言いつつ。とりあえずといった風にコップを受け取る。俺は牧原がコップをしっかり握ったことを確認すると、麦茶を注いだ。
「んー……なんですかって聞かれると、ちょっと答え難いんだけど……」
俺のコップにも麦茶を注ぎ、目の高さに持ち上げる。
「ま、新しくできた『友達』に乾杯……ってところかな?」
そう言って、牧原のコップに自分のコップを当てる。グラスのように澄んだ音はしなかったが、今はこれで良いだろう。
……自分で言ってなんだが、少しばかり恥ずかしかったりする。
照れ隠しに頬を掻きつつ牧原の様子を窺ってみると、
「……ぅ」
「っ!?」
なにやら、目に涙を溜めていらっしゃった。
「いや、って、おい。な、なんで泣く寸前五秒前ですか?」
焦る。思わず敬語になるくらい、とにかく焦る。女性の涙と泣いた子供に勝てるはずがない。そんな例にも漏れず、俺だって勝てない。
俺は若干オロオロしつつ、牧原が落ち着くのを待つ。俺としては、この反応は予想外だった。
「っ、いえ、すみません……つい」
つい、で泣かれても、主に俺の精神衛生上困る。それにもしも人にでも見られてみろ。俺が泣かしたと勘違いされること請け合いだ。
「あー、泣くな。頼む。泣かないでくれ。お前に泣かれると、俺まで悲しくなる……なんてことはないが、とにかく泣かないでくれ。どう反応すればいいか困る」
身振り手振り説得する。身振りも手振りも大した効果はないだろうが、やらないよりはマシだろう。
俺は、知らない人から見たら珍妙な踊りに見えそうな身振り手振りを加えつつ、牧原にあーだこーだと話しかける。しかし、牧原は泣き止んでくれない。
生憎と、胸を貸してやるなんてキザったらしい真似はできなかった。そんなことをしたら死んでしまうだろう、俺が。そうなったきっと、死因は
恥ずかしさによる死亡、恥死となってしまう。だが、なんだその死因は。
「馬鹿だなぁ……」
この状況でそんなことが思い浮かんだ俺に対するものか、それとも牧原に対して言ったのか、それは自分でもわからない。まあ、多分前者だ。
「わたし……馬鹿じゃない、です」
牧原が涙声で言い返してくる。どうやら、聞こえていたらしい。
「あーはいはい。お前は馬鹿じゃないとも」
おざなりに返し、ついでとばかりに軽く頭を叩く。知り合いの妹にも同じようなことをしたことがあるが、全然気分が違うから不思議だ。
「適当、ですね……」
「すみませんねぇ。こちとら、泣いてる女の子を簡単に泣き止ませるような手段を知らないもんで」
そもそも、女の子を泣かせたこと自体がない……わけではない。しかし、それに慣れるほど泣かせた覚えはなかった。
「とりあえず落ち着け。そうだな、深呼吸をしたら良いかもしれない。というわけで、大きく息を吸うんだ。そして吐け。それを繰り返せば、きっと落ち着くさ。というか、落ち着け」
最後は命令形で注文する。
俺も落ち着くべきだろう。というわけで、自分で言ったことを自分で行った。
大きく息を吸い、大きく吐き出す。それを何度か繰り返すと、大分落ち着いた気がする。
「よし、落ち着いた」
さわやかに汗を拭う。すると、そんな俺を見ていた牧原が小さく笑い声を上げた。
「本当に、おかしな人ですね」
「褒め言葉として受け取っとく」
流石に、頭がおかしいという意味ではないだろう、多分。
俺の表情からその考えがわかったのか、牧原は笑みを深くする。だが、それだけだ。
「いや、そこは否定するなり肯定するなりしてくれ」
どちらかわからないじゃないか。
「肯定していいんですか?」
「すいませんやめてください。是非とも否定してください」
卑屈に謝って、二人で顔を見合わせて笑い合う。
そんな俺と牧原のすぐ傍では、蝉が楽しそうに鳴いていた。