第七話 対話
人間、慣れる生き物だということがよくわかった。
俺は水が溢れんばかりのジョウロで水を撒きながら、そんなことを思う。
「こんなもんか……」
適度に水を撒き、額に浮いた汗を拭った。 婆ちゃんの家に来て早一週間。
すでに九時過ぎに寝て五時頃起きるという習慣が身に着ついてしまった。
高校生の生活ではないと嘆くべきか、健康的な生活を送れることに感謝すべきか、甚だ迷うところだが。
「雑草は抜いたし、次はトマトの収穫でもするか」
綺麗な赤みを帯びたトマトを見ながら、そんなことを呟く。
どれなら収穫できるか、それも既に覚えた。
「婆ちゃん、次は何すればいいんだ?」
一応、勝手に収穫するわけにもいかないので、婆ちゃんに尋ねてみる。
「今日はもうすることがなかよ。トマトは明日取るけん。あとはゆっくりしてよかよ」
「了解。じゃあ、ちょっと休憩して釣りにでも行ってくるよ」
俺は使った道具をまとめると、婆ちゃんの家へと向かう。
慣れたおかげで早く終われるようになったせいか、時間はまだまだ余っている。
そのことに軽く笑いながら、俺は釣り竿を取りに行った。
「さてさて、今日は何が釣れるかな、と」
釣り糸を垂らしながら、そんなことを呟いてみる。
そんな俺の脇にはもう一本の釣り竿。
あのとき約束した……まあ、一方的なものだが。
「ったく、せっかく作ったのに……」
竹で作られたその竿は、俺が作ったものだ。
物置を漁ったけれど釣り竿は一本しかなく、婆ちゃんの家の庭に置いてあった枯れた竹を使って作ったもの。
大物がかかれば一発でご臨終しそうだが、二、三十センチぐらいの魚ならなんとか大丈夫だろう、多分。
「一応試してみるか」
今まで使っていた釣り竿を置き、竹の竿を持ってみる。
仕掛けはつけていたので、ミミズだけつけて水面に放った。
ぽちゃん、という小さな音と共に波紋が広がる。
俺はそれをぼんやりと見ながら、一つ欠伸をした。
欠伸で涙が滲み、霞んだ視界をこすって直す。
そんな俺の隙を突くかのように、ウキが一度揺れる。
「おっ、きたか?」
軽く気合いを入れ、ウキの動きを注視。
上下に微かに動き、一拍の間を置いて大きく水中へと沈み込む。
それと同時に、竿を引いた。
糸が張り、竿の先端が一気に引き込まれる。
「こんなに引っ張られても折れません。ミシミシ言ってますけど、竿はしなるだけです」
なんとなく説明口調で喋りつつ、竿を引いた。
言葉の通り竿がミシミシといっているが、そこまで危ないわけじゃない。
それ以上に竿がしなり、役目を全うしてくれる。
そのことに満足しながら竿を引き、ふと、影が差していることに気づいた。
俺はやっと来たか、と振り向こうとして止まる。
地面に見えた影はやけに肩幅の広い、がっしりとした体格に見えた。
「釣れますかな?」
耳に聞こえたその声に、俺は内心で驚く。
……成程、たしかにこっちがくる可能性もあったか。
「まあ、ぼちぼちですね」
以前牧原に返した言葉と同じものを返しながら、俺は振り向いた。
針にかかった魚が、水面を跳ねる音が響く。
振り向いた先には、行き倒れた俺を拾ってくれた運転手、広田さんが立っていた。
「隣に座ってもよろしいですか?」
「ええ。全然構いませんよ。あ、良ければどうです? 釣り、しますか?」
俺はもう片方の竿を軽く見て尋ねる。
「それも良いですな。では、お借りしましょう」
広田さんは差し出した釣り竿を受け取ると、手早くミミズをつけて放り込む。
その手際を見た俺は、感心して頷いた。
「手馴れてますね。よく釣りをするんですか?」
「いえ。昔取った杵柄と申しますか、私も幼少の頃はよく釣りをしていたもので」
そう言って広田さんは笑う。
俺はそうですか、と相槌を打ちながら、先程かかっていた魚を釣り上げた。
「フナか」
「フナですな」
体長二十センチほどのフナを釣り上げ、バケツに入れる。
俺のそんな動きを見ながら、広田さんが口を開いた。
「よくここで釣りをなさるのですか?」
「まあ、そうですね。他にすることもないですし」
ミミズを取り、針に刺す。
「農業の手伝いと言っておりましたが、そちらは?」
「最近は慣れてきたんで、早く終わるんですよ。そのおかげで、余った時間はこうして釣りができます」
軽く、振り子状にミミズを放って川の中へと投じる。
「広田さんは良いんですか?」
「何がですかな?」
「仕事とか、他にすることですよ」
「ふむ……まあ、これも仕事の一環と言ったところですからな」
「釣りが、ですか?」
俺がそう尋ねると、広田さんの表情が僅かに変わる。
柔和な表情はそのままに、目だけが僅かに細まった。
「藤倉様と話すことが、です」
その視線を受けて、俺は笑う。
「様は止めてくださいよ。背中がかゆくなります……それで、牧原のことですか?」
「はい。その通りでございます」
広田さんはゆっくりと頷く。
俺はそんな様子に、肩を竦めてみた。
「……もしかして、牧原の機嫌を損ねたから俺を殺しに来たとか?」
「どこの世界の話ですかな、それは?」
「スンマセン、冗談です」
そう言って詫びると、広田さんは相好を崩す。
何が楽しいのか、口元を押さえて笑っていた。
「成程、貴方様は今までお嬢様の近くにはいなかった性格の方ですな」
「へぇ〜、いなかったんですか?」
「ええ。いえ、そもそも……」
広田さんは一度言葉を区切る。
視線を俺から外すと、水面のウキへと向けた。
「“普通”と呼べる方がいなかった、と言ったほうが正確ですな」
何かを堪えるように、広田さんがそう呟く。
「普通、ですか」
「はい」
「それはどういう意味で?」
俺がそう尋ねると、広田さんは苦笑を浮かべる。
「そのままの意味でございます」
「なら、俺は普通ってことですか?」
俺も広田さんに倣うように、視線を外してウキへと移す。
「普通でしたな。一緒に釣りをして、一緒にラムネを飲む。それで相手を友達と思うことができるほど、普通の方でした」
「……やけに詳しいっすね。もしかして、どこかで見ていたとか?」
もしくは牧原が話したか。
そう考えて広田さんを見てみれば、広田さんは薄く笑っていた。
「申し訳ありませんが、見ておりました。この土地が田舎とはいえ、用心するに越したことはないですからな。失礼ながら、気づかれないよう隠れておりました」
「すげ……気づきませんでしたよ」
広田さんの発言に、驚嘆の息を漏らす。
いや、正直気づかなかった。
「失礼ついでに……」
そんな俺の驚きを他所に、広田さんは言葉を続ける。
「貴方様の素性も調べさせていただきました」
「素性?」
「ええ。行き倒れと言っていましたが、もしや嘘やもしれぬと思いましてな」
「……なんでそんなことを?」
驚きを込めて尋ねると、広田さんは申し訳なさそうな顔をする。
「牧原という名は大きなものでございます。それ故に、利用しようとする者、排斥しようとする者、様々です」
そこまで言われると、俺でも理解できた。
つまり、俺が牧原を利用する目的であそこにいたと思われたということ。
「いやいや、恥ずかしい話ですけど、俺が倒れてたのは偶然ですよ。駅名を間違えて……改めて言うと本当に恥ずかしいですね。とにかく、そんな大それたことをする気はないですって」
手を振って否定する。
「でしょうな。そのようなことをする目的もなければ、理由もない。まったくの偶然であの場に行き倒れていらした」
「うわ、そう真面目に行き倒れたと言われると、無性に恥ずかしいのは何故? っと、まあそれは置いといてください」
いい加減、何度も行き倒れたと連呼されても困る。
俺はここらで話を変えるべく、本題に移ることにした。
「それで、本当のところは何の用なんですか? 牧原に関係することっていうのはわかりますけど」
釣り竿を軽く動かしながら尋ねてみる。
真面目な顔で聞いてみると、広田さんも表情を引き締めて、
「藤倉様は、本当にお嬢様の友人になるおつもりですか?」
そんな問いを、投げかけてきた。
その問いに何の意味があるのか、俺にはわからない。
俺はその問いに、視線を空へと向ける。
「本当に、ですか……困ったなぁ」
いや困った。
本当に友人になるのかって?
「困る……ですか?」
何かを見極めるような、広田さんの視線。
その視線を受けて、俺はなおさら困る。
「困りますよ。だって……」
視線を空から戻す。
「牧原のことは、すでに友達だと思っていますから」
そう言って、俺は釣り竿を引く。
ウキが動いていたが、魚はかかっていなかった。
「すでにお嬢様の友人、と申されますか」
「俺はそのつもりですけどね。ま、そういうのは押し付けるわけにもいかないですし、牧原次第ですけど」
「ふむ……全てはお嬢様次第ですか」
「そういうことですよ。一方通行の友情なんて、空しいだけですからね」
告げて苦笑する。
今の俺も、十分に一方通行かもしれない。
そんなことを考えていると、広田さんがふっと表情を和らげた。
「一方通行の友情は空しいだけ、ですか。中々含蓄深い言葉ですな」
「いえいえ、ただの持論です」
自分の台詞が少し恥ずかしかったから、頬を掻いてみる。
「……そうですな、貴方様ならば良いかもしれません」
そんな俺を見ながら、広田さんがポツリと呟く。
「良いって、何がですか?」
俺は照れ笑いを止めて、再度表情を引き締めた。
そうやって表情を引き締めた俺に対し、広田さんは苦笑めいた笑みを浮かべる。
「なに、ただの昔話ですよ」
どことなく悲しげな顔で、そう言った。