第五話 田舎暮らし・その2
ゆっくりと目が覚める。
婆ちゃんによって叩き起こされるわけでもなく、ごく自然な目覚め。
顔を傾けて窓の外を見れば、暗いながらも僅かに明るさを含んでいた。
時計に目を向けて確認すると、起きるには丁度良い時間を指している。
婆ちゃんの家に来て三日が経ったけれど、どうやら俺の体が適応してくれたらしい。
少し眠気が残った頭で、俺はそんなことを思う。
「さて、準備をしないと……」
田舎で農業も意外と良いかもしれない、なんてことを考えながら布団を畳もうとして、
―――ガサガサッ。
不意に、そんな音が聞こえた。
「―――――」
息を止める。
音の発生源が一体何なのか、俺は周りを見回した。
窓側を見て、何もいない。
天井を見上げて、何もいない。
壁側を見て……ソレはいた。
壁に張り付いた、黒い物体。
凹凸などほとんどない壁に張り付く、やけに黒光りしているソレ。
人類が誕生するより遥か太古より存在し、現代に至るまで存在し続ける生きた化石。
人間がソレを見て恐怖を感じるのは、きっと、そんな昔から生き続けたソレに対して畏怖を感じているからではないか。
昆虫綱網翅目。
黒い悪魔とすら呼ばれる、人類に対する侵略者。
「で……」
人はソレを、ゴキブリと呼ぶ。
「ででで出た―――!!」
叫んだ。
近所迷惑なんのその。
そもそも近所に家がないから無問題。
問題があるとすれば、そのゴキブリがやけに巨大だということだろう。
「でかっ! いやいや、でかすぎだテメェ! 調子に乗るなよ!」
そんな俺の声に苛立ったのか、体長5センチを軽く超えたゴキブリが、大きく羽を広げた。
ブゥーン……。
嫌な羽音を響かせながら、飛翔する巨大ゴキブリ。
「うおぉー! こっちに来るんじゃねぇ!!」
残っていた眠気なんて木っ端微塵にどこかへ消えた。
今あるのは、ただ純粋な恐怖だけ。
羽を広げ、全長が10センチほどに錯覚できるゴキブリが眼前へと迫る。
「とうっ!」
俺は生存本能の促すままに、体ごと真横へと飛ぶ。
ヘッドスライディングでもするかのように頭から突っ込み、前転をして両腕を構える。
「く、来るならこい! いや、でもできれば来ないで!」
俺が避けたことにより、再度壁に張り付いたゴキブリにそう叫ぶ。
周りを見回すが、殺虫スプレーはおろかハエ叩きすらない。
「くそ! まさか素手で倒せと!?」
難しくはない。
ただ、素手で殺すとなると、今まで生きてきた中でトップ3に入る精神的ダメージを負ってしまいそうだ。
その光景を、潰す感触と共にリアルに想像できてしまった。
「い、嫌すぎる……」
ぞっとする。
こんな恐怖を感じたのは、俺の幼馴染みが料理を作ったとき以来だ。
だが、そんな俺にお構いなしでゴキブリは羽ばたく。
再び俺に向かって特攻してくるソイツを前に、俺は硬直するしかできない。
「うわあぁぁーー!!」
「うるさか!!」
横合いからの声にそちらを向くと、そこには襖を開けた婆ちゃんが立っていた。
俺に向かって飛んでくるゴキブリを一瞥すると、腕を振り下ろす。
まさかと思った瞬間、婆ちゃんの右手は、ゴキブリを叩き落としていた。
突然の攻撃に、ゴキブリは地面に落ちて動かなくなる。
婆ちゃんはそのまま右手でゴキブリをつかむと、窓を開けて外へと放り投げた。
「ほら、畑に行くばい」
何事もなかったかのように、婆ちゃんは歩き出す。
そんな婆ちゃんを見て、俺は思わず呟く。
「すげえ……」
つい、尊敬の眼差しで見てしまうのは仕方ないだろう。
そして、前言を撤回する。
「……田舎って怖い」
ゴキブリを見たことがないわけではない。
ただ、あんなに巨大なゴキブリがいるというのが嫌過ぎる。
俺は頭を振って気を入れなおすと、先に歩く婆ちゃんを追うことにした。
「あぁ〜……疲れた」
水やりに雑草抜き、そして今日は大根の収穫をした。
頭上を見上げれば、太陽はまだ中天を僅かに超えた程度。
今までの中で、一番早く片付いた。
グラスに入った麦茶を飲みながら、ほっと息を吐く。
早く終わったから良い……とは一概に言えない。
時間が余れば、その分はすることがなくて暇になるという嫌な現実があるからだ。
「店もほとんどないしな……」
することがないから昼寝でもしようかと思ったけれど、今寝たら夜眠れなくなる。
ただでさえ九時過ぎに寝て五時に起きるという早寝早起きをしているのだから。
「何かないかな」
暇潰し代わりに物置を漁る。
朝のゴキブリが出ませんように、と祈りながら、邪魔なものをどかしていく。
明らかに昔の物ばかりが出てくるだけで、特に面白そうなものはない。
「なんだ、何もないのか……っと、何だこれ?」
ふと目に留まった細長い物を二本引っこ抜き、触って確かめる。
「……釣竿か」
繋げてみれば、一本釣り用の釣竿だった。
さらに漁ってみると、糸と釣り針、それと錘とウキが出てくる。
これだけ揃っていれば、十分釣りに使えるだろう。
「よし。暇潰しの道具を見つけた」
軽くガッツポーズを取りながら、物置の扉を閉める。
ついでにぶら下げてあるバケツと小さな入れ物を手に持ち、婆ちゃんに声をかけた。
「婆ちゃん、ちょっと釣りに行ってくるよ」
しかし、昼寝をしているのか返事はない。
俺はまあ大丈夫か、と呟いて、歩き出した。
畑の横にある溝に沿って歩いていく。
ついでに畑を掘り返してミミズを捕まえると、入れ物に入れておいた。
そうしてしばらく歩くと、岩場に下りることができる小川へとたどり着く。
「おぉ……綺麗な川だな」
流れる水に感嘆の声を漏らす。
俺が住んでいる場所にある川と比べると、まさに泥水と清水の違いがある。
そのまま飲んでもまったく大丈夫そうだ。
魚も気持ち良さそうに泳いでいる。
バケツに水を汲むと、自分の右横に置いて腰を下ろした。
釣竿を繋ぎ、仕掛けを作る。
糸に釣り針と錘、それとウキをつけると、針にミミズを刺してつけた。
「よし、準備完了と。そりゃ」
軽く、振り子のように糸を放る。
小さな水音を立てて、ミミズが水中に沈んでいくのを眺めながら欠伸を一つ。
清流の音に耳を傾けながら、空を見上げた。
「良い天気だ」
雲一つない空に、呟いた言葉が吸い込まれていく。
俺が視線を水面へと戻すと、ウキが少し揺れた。
軽く上下に動き、一気に水中へと沈む。
「っと、きたな!」
それに合わせて竿を引くと、ぐんと先端が引っ張られた。
俺はその力強さを楽しみながら竿を引いていく。
魚を疲れさせるように、魚が泳ぐ方向とは正反対に引く。
そうして数十秒もすると、魚をすぐ近くまで引き寄せることができた。
「よっし、一匹目!」
糸を手繰り寄せて魚を引き上げる。
すると、体長15センチ程のフナが釣り針にかかっていた。
手早く針を外すと、バケツに入れる。
そしてミミズをつけて、再び川へと放った。
見た感じ、この川の魚は警戒心が薄い。
こうやって釣りをする人があまりいないのだろうか?
そんなことを考えながらウキを見ると、それを肯定するかのように上下に揺れた。
一気に沈むのと同時に竿を引き、釣り針をがっちり刺さらせる。
「よっしゃきた!」
竿を引く力に対抗しながら、俺は笑う。
釣りはそこまでするわけではないが、やはり釣れると楽しい。
右に左に竿を片手で動かしていると、不意に影が差した。
「釣れますか?」
かけられた声に、俺は左手を振る。
「まあ、ぼちぼちだな」
「そうですか」
影が揺れる。
風に吹かれたのか、長い髪の影が軽くたなびいた。
「隣に座っても、いいですか?」
「ああ。別に俺の土地ってわけでもないし、かまわないぞ」
そう答えると、バケツと反対側……俺の左側に腰を下ろしてくる。
俺が少し目を向けると、麦わら帽子をかぶった牧原と目が合う。
「こんにちは、藤倉さん」
「よっ、二日ぶりだな牧原」
喋りながら竿を引く。
ぱしゃん、と水音を立てて、さっきのよりも少し大きいフナが姿を見せた。
「釣り、お好きなんですか?」
「んー……好きってほどでもないんだけど、することがなくてな」
釣り上げたフナから針を外し、バケツへと入れる。
「お手伝いのほうはどうしたんです?」
「それはもう終わった。今日は割と早く片付いたんだ」
ミミズを取り、釣り針へと刺す。
「牧原は何してたんだ? というか、よく俺がここにいるってわかったな」
「偶然こっちに歩いていったのを見たので、来てみました」
三度目、ミミズを水中へと沈めた。
「へー。もしかして、牧原も暇な人?」
「そうですね。一昨日買った小説も、全部読んじゃいましたから」
今度は魚も警戒しているのか、ウキは動かない。
「すごいな。もう七冊読んだのか」
「すごくはないですよ。他に、することもなかったですから」
川のゆっくりした流れに押され、ウキがゆっくり動いていく。
「成程。そこで俺が歩くのを見つけた、と」
「そういうことです」
流れたウキが、不意に動きを止める。
「お暇でしたら、少し話しませんか?」
「暇も何も、今は釣りをしている。けどまあ、話すのは賛成だ」
俺は試しに、竿を軽く引く。
すると、魚がかかった感触が伝わってきた。
「ビンゴだ」
「え?」
きょとんとした牧原。
俺はそんな牧原を見て、笑う。
「よし、パス!」
「え……わっ!?」
竿を手渡すと、牧原は驚いたように俺を見る。
「ほらほら、引かないと魚が逃げるぞ」
「えっと。こ、こうですか?」
牧原は言われたままに竿を引く。
だが、釣りをしたことがないらしく、ただ真っ直ぐに竿を引いた。
そのせいか、今までしなっていた釣竿が不意に緩む。
「あ〜あ……バレたな」
「バレた、ですか?」
いまいち状況をつかめていないのだろう、牧原から竿を受け取って針を見てみると、ミミズだけなくなっていた。
「ああいう場合は、魚が泳ぐ方向と反対に竿を引くんだ。そうすれば針が外れることもない。というわけで、もう一回だ」
ミミズをつけ、川に投げてから竿を渡す。
牧原はそのまま竿を受け取ろうとして、顔を上げた。
「……なんでわたしが釣りをすることになっているんですか?」
「今気づいたのか。そうだな、強いて言えば運命だ」
強引に釣竿を渡して水面に目を向け、ウキを指差す。
「いいか。あれがウキって言って、魚が餌を食べているのを表す道具だ。餌を突っついてるくらいなら軽くウキが沈んで、食いついたら一気に沈む」
「そうなんですか……いえ、だからなんでわたしが」
「ここで注意する点はだな、食いついてもウキが沈まないときだ。ウキが倒れた場合、もしくはウキが不自然に横に動いた場合も魚がかかっている可能性が高いぞ」
抗議の視線を無視して説明を続ける。
「ほら、ウキを見ておかないと餌を持っていかれるぞ」
最後にそう締めくくると、牧原は首をかしげながら水面に目を向けた。
だが、時折物言いたげな視線を向けてくる。
「俺ばっかり釣るのもなんだしな……というわけでも、牧原にもさせてみようかと」
「いえ、いいですよ。藤倉さんが釣ってください」
「無理。急に発生した原因不明の腕の痺れで竿を持てない」
勿論嘘だが。
「もう……嘘ですよね、それ」
それをわかっているんだろう。
牧原は小さく呟きながらも、その表情はどこか柔らかい。
「いやいや。後天性腕痺れ病という、我が家に伝わる奇病なんだ」
「家に伝わるのに、先天性じゃなくて後天性なんですか?」
「おぉ、良い着眼点だ。花丸をあげよう」
軽い、会話のキャッチボール。
それを楽しみながら、俺は欠伸をする。
軽く目をこすり、眠気覚ましに空を見上げた。
目の端に映った竿の先端が、軽く揺れる。
「あっ!」
それと同時に聞こえる声。
「なんだ、魚がかかったか?」
笑いつつ視線を戻して、絶句した。
「ふ、藤倉さんっ!」
視線の先、魚がかかったかと見てみれば、やけに細長い生き物が食らいついていた。
しかもウキに。
「おい、蛇なんか釣ってどうするつもりだ? 実はウナギです、とかいうオチがあるなら笑ってやるけど」
とりあえず素で尋ねてみる。
魚の代わりに蛇を釣るとは、ある意味すごい才能だ。
まあ、水面に浮いているウキに蛇が噛みついただけだろうけど。
「どうすればいいんですか!?」
牧原は軽くパニックに陥っている。
その様子に笑いたくなったけれど、とりあえず石を投げて蛇を追い払うことにした。
近くに石を投げられたせいか、蛇は慌てて逃げていく。
逃げる蛇を見ながら、牧原は大きく息を吐いた。
「へ、蛇って泳げたんですね」
心底驚いた様子に、俺は今度こそ笑ってしまう。
「あ、笑わなくてもいいじゃないですか!?」
笑った俺に対し、牧原は頬を膨らませる。
そして、そんな自然の反応に、再び笑ってしまった。
補足というほどではないですが、文中にありました、蛇がウキに噛み付くというのは作者自身が体験した実話です。正直ビビりました。ちなみに、蛇は本当に水面を泳ぎます。作者が川で泳いでいたら、実際に遭遇したことがあります。怖いです、ええ。皆様も、川で泳ぐときなどはご注意を。