第四話 茜色の帰り道
「えっと、藤倉さん?」
手に持った本を閉じつつ、牧原は首をかしげる。
俺の名前に確信を持てない……ではなく、何故俺がここにいるのかが不思議なのだろう。
もしも前者だった場合、かなり悲しいものがあるけれど。
「その不思議そうな顔は、俺の名前がわからなかったということでファイナルアンサー?」
だからだろう、つい聞いてしまうのは。
「い、いえ。違います。なんで藤倉さんがここにいるのかなと思って……」
牧原は俺の質問に少し慌てながらそう答えると、手に持った本を本棚へと戻す。
俺はその様子を眺めた後、牧原の足元に置いてある袋に目を向けた。
紙袋に入ったそれは、この本屋で買ったものだろう。
袋一杯に詰められたせいか、口が閉じきっていなかった。
「一、二、三……七冊、か」
本の大きさからして、おそらく小説か。
よく見てみれば奥のほうに漫画が置いてあるみたいだけど、明らかに古そうな上、牧原が漫画を読むというイメージが湧かない。
牧原本人のことはまったく知らないから、実は漫画が大好き! ということでもない限り、小説かその類の本だと思った。
「すげえな。それ全部小説?」
「あ、はい。司馬遼太郎っていう人の作品です」
「へぇ、渋いの読むんだな」
「読んだことがあるんですか?」
「うんにゃ、まったく」
手を振って否定する。
自慢ではないが、俺は小説を読むより漫画を読むのが好きな人間だ。
だから、渋いとか言ったのはまったくの適当……というわけでもない。
「俺の友達が読んでいたことがあって、それを見た他の奴が渋いと言ってたんだ」
「そうなんですか。藤倉さんは読まないんですか?」
「俺? 俺は小説より漫画のほうが好きだしな。小説を読まないわけじゃないけど、好んで読むってわけでもない。まあ、その話は横に置こう」
両手で物を横に置くジェスチャーをする。
「本を買いに来たっていうことは、本が好きなのか?」
「本が好き……というのもありますけど、屋敷に置いてある本を全部読んじゃったんです。それで、新しい本を読みたくなっちゃいました」
広田さんのお勧めなんです、と言葉を繋げて、牧原は笑う。
それは、昨日も見た柔らかい笑み。
ただ、その笑みがどことなく紛い物染みて見えるのは、俺の気のせいだろうか。
昨日は空腹と疲れでそこまで気づかなかったが、牧原の笑みは、どこか空虚めいたものを秘めている。
「……どうかしましたか?」
俺がじっと見ていたせいだろう、牧原は少しの疑問を顔に浮かべた。
「……いや、なんでもない」
俺の勘違いかもしれない。
そう思うと、今の表情も自然なものに見えてくる。
「牧原はこれからどうするんだ?」
一度浮かべた疑問を打ち切り、とりあえずそう尋ねてみた。
牧原は足元の紙袋を手に持つと、変わらずの笑みで頷く。
「屋敷に帰ろうと思います。あと少ししたら日も暮れますから」
そう言って、扉の向こうに目を向ける。
僅かに赤さを帯びだした日差しが見えて、俺はそっか、と声を返した。
「じゃあ、俺も帰るかな。思ったより何もなかったし」
店の奥にいる店主に聞こえないことを祈りつつ、扉に手をかける。
そして、ついでとばかりに振り返った。
「そうだな……一人で帰るのも暇だし、一緒に歩かないか?」
「―――え?」
何を言われたのか、牧原は理解できなかったような目を向けてくる。
俺はそんな牧原に苦笑を浮かべると、僅かに軋む扉を引き開けた。
熱されたアスファルトの匂いに、少しばかり眉を寄せる。
「冗談、ってわけでもない。暇なら話し相手になってほしいだけだよ」
本当にそれだけの話。
他意はなく、断られても問題はない。
そんな俺の様子を見て取ったのか、牧原は戸惑いながらも頷いてくれた。
「よし、じゃあ行こうぜ」
そう言って歩き出す。
後ろで牧原が扉を閉める音が、やけに、大きく響いた気がした。
「…………」
「…………」
無言で歩く。
一緒に歩こうと誘ったはいいが、いかんせん何を喋ればいいかわからなかった。
これがいつもクラスで喋っている奴らならいくらでも喋りようがあるが、昨日が初対面な上、どんな話題を振ればいいのか皆目見当がつかない。
だが、誘った以上は何かを喋らなければいけないだろう。
「なあ」
「あの」
見事に声が重なる。
そんな古典的な出来事に軽い頭痛を覚えつつ、俺はため息を吐いた。
「やっぱり……」
「ん?」
小さく呟かれた言葉に、俺は耳を傾ける。
「やっぱり、わたしとでは話しても面白くないですよね」
……どうやら、さっきのため息を勘違いしてくれたらしい。しかも、思いっきり悪い方向に。
「いや、そういうことじゃない。ただ、何を話せばいいかわからないだけで、面白くないわけじゃない……というか、お互い名前と通っている高校しか話してなかったな」
弁明しているうちに、根本的な問題に気づいてしまった。
「よし、では俺から自己紹介だ。名前は名乗ったから省略するぞ。誕生日は9月29日のてんびん座。血液型はA。身長は176センチで、体重はこの間量ったとき63キロだった。好きな食べ物は多すぎて言い切れない。嫌いな食べ物は志乃……もとい、知り合いの作った料理もどき。あれは食材に対する冒涜だった。っと、そんなことは流すとして、次はそっちの番」
思わず知り合いの名前を出したのを流し、牧原にどうぞと言わんばかりに手を向ける。
牧原は戸惑ったような顔をするが、ゆっくりと口を開く。
「えっと、わたしも名前は省略しますね。誕生日は3月5日のうお座です。血液型はAです。身長は152センチで、体重は……って、言えませんよ!」
「ちっ、流れに乗って言うかと思ったんだが……ナイスツッコミだ」
「昨日は二十歳以上の女性に年齢を聞くのは失礼って言っていたのに、体重は聞いて良いんですか?」
「ああ。体重が明らかに平均値を下回っていそうな女性はOKだと親父が言っていた」
体重で怒る際に僅かに垣間見えた、“本当”の表情に俺は内心で笑う。
そして、さっきの疑問を確信へと変えた。
「まったくもう……女性に体重のことを聞いたらいけないんですからね?」
「いやいや、そこは俺から見たら体重がとても軽そうだという、遠回しな褒め言葉に喜んでくれ」
「何ですか、その素直には喜べない褒め言葉は」
「いや、もしかしたら俺が照れ屋ってことがあるかもしれないだろ?」
そう言って笑うと、牧原もつられたように笑う。
さっきのような作り物じゃない笑顔。
俺はその笑顔を見て頷いた。
「うん。牧原にはそっちの笑顔のほうが似合ってると思うぞ。何でそんなに作って笑うのか知らないけどな」
ごく自然に、そう告げる。
「え……?」
言われた牧原は、足を止めて俺を見た。
そんな牧原を、俺は笑って見返す。
「冗談だ。暇人の戯言と思って聞き流してくれ……っと、あれが別荘か?」
話はこれで終わりという意味を込めて話を逸らす。
ついでに視線も逸らして見てみれば、少し先に洋風な建物が見えた。
塀に囲まれたその家は、今まで見たことある住宅の中でも群を抜いて巨大だ。
「……はい、そうです」
牧原の声にはさっきまでの力がない。
「そっか。俺の婆ちゃんの家からけっこう近かったんだな」
ここなら歩いて五分もかからないだろう。
そんなことを考えつつ、俺は軽く右手を上げる。
「さて、それじゃあ俺も帰るわ。話し相手をしてくれてサンキューな」
「いえ……それでは」
小さく頭を下げる牧原に、俺は苦笑した。
「じゃあ、またな」
その言葉に返ってくる声はない。
俺はそのことに内心だけで再び苦笑を浮かべると、婆ちゃんの家へと家路を辿った。
―――美雪 SIDE―――
「じゃあ、またな」
そう言って背を向ける藤倉さんに、わたしは声をかけることができない。
ただ、頭に残る一言。
『うん。牧原にはそっちの笑顔のほうが似合ってると思うぞ。何でそんなに作って笑うのか知らないけどな』
そんなことを言われたのは、初めてだった。
広田さんにも言われたことがない言葉に、わたしは戸惑っている。
「なん、で……」
あの人とは昨日まで初対面だったはず。
だというのに、あの藤倉さんはそう言っていた。
「…………」
すでに見えなくなった背中に、わたしは小さく微笑む。
「藤倉鷹志さん、ですか」
声に出して、うんと頷いた。
今まで話したことのある人とは違う。
わたしを“わたし”として見てくれる人。
わたしはくるりと身を翻すと、屋敷に向かって歩き出す。
ただ、今浮かんでいる感情は、
「ふふっ……」
久しく感じていなかった、“楽しい”というものだった。