修行三年目
三年目に入る頃、シオンとジークハルトの模擬戦は、もはや剣戟の音すらしない「静寂」へと変わっていた。
「……チッ、またか」
ジークハルトは苛立ち、剣を鞘に叩き込んだ。彼はただ、正面に立つシオンへ向かって一歩踏み出そうとしただけだ。しかし、その瞬間、彼の本能が「そこへ行くな」と最大級の警報を鳴らしたのだ。
足元には何もない。罠も、魔力の残滓もない。ただ、シオンが少しだけ首を傾げ、彼の「右目の死角」に位置取りを変えた。たったそれだけの動作が、最強の死神に「今踏み込めば、自分の頸椎が折れる」という強烈な錯覚を植え付けたのだ。
「師匠、殺気が出ていますよ。……それに、昨夜からずっと『右の奥歯』を気にしていますね」
「……それがどうした」
「噛み合わせの違和感は、三叉神経を通じて全身の均衡を狂わせます。今のあなたは、左側に0.3ミリ重心が寄っている。……私はそこに、見えない『拒絶』の線を引いただけです」
シオンが三年目に学んだのは、剣技ではなく「認知科学」と「心理操作」だった。彼女は、ジークハルトがどんな時に瞬きをし、どんな時に呼吸を止めるか、そのバイオリズムを完全に数値化した。
「人は、予測できないものに恐怖するのではなく、『予測がわずかに外れること』に恐怖します」
ある訓練の日。シオンはジークハルトの周囲に、ただの「糸」を一本だけ張った。魔力も付与されていない、普通の裁縫糸だ。ジークハルトなら、歩くだけで切れるはずのその糸を前に、彼はどうしても足を動かせなかった。シオンがその糸を張る「角度」と「タイミング」が、彼の脳に「これは致命的なワイヤーだ」と誤認させたからだ。
「……貴様、俺の脳を弄っているのか」
「いえ、私はただ『あなたが勝手に抱くイメージ』に、少しだけスパイスを加えているだけです。……師匠、今のあなたは、私が指を鳴らすだけで自分の心臓が止まると、心のどこかで信じ始めていませんか?」
修行の最終段階。シオンはもはや自分から攻撃することさえ稀になった。彼女が行うのは、戦う前の「環境設定」だ。
「師匠、明日、あの崖の上で決闘しましょう。……ただし、時間は正午ちょうどです」
翌日、正午。ジークハルトは大剣を構えて崖に立った。だが、戦いが始まる前に、彼は膝をついた。猛烈な眩暈と、判断力の低下。
「……何をした、シオン……。毒か……?」
「いいえ。昨夜、崖の上の草を一部だけ刈り取り、岩の配置を変えました。それによって風の吹き方が変わり、特定の周波数の『低周波音』が発生するように仕組んだんです。……人間の脳は、一定の音波にさらされると、平衡感覚と戦意を喪失します。現代ではこれを『非殺傷兵器』と呼びます」
シオンは崖の縁に座り、絶景を眺めながらサンドイッチを頬張っていた。
「……戦わずして勝つ。それが一番『定時に帰れる』方法ですから」
ジークハルトは、朦朧とする意識の中で、自分を見下ろす少女の姿を見た。そこにあるのは、魔王のような威圧感ではない。ただ、淡々と、精密に、この世の全てを「処理」していく、あまりに静かな絶望だった。
「……合格だ、シオン。……お前はもう、俺が教える『死』を通り越して、独自の『システム』になった」
ジークハルトは笑った。その笑みには、愛弟子への誇りと、同時に、彼女を解き放つことへの一抹の不安が混じっていた。




