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平安もののけ奇譚〜嵯峨殿、知恵を貸してくれ〜

和歌が見せる夢〜平安もののけ奇譚〜

作者: 緑山ひびき
掲載日:2026/01/23

 夏の終わりが近い夕暮れ、宮中の廊はまだ熱を抱いていた。板の下から上がる温みが、足袋越しにもわかる。

 

 近衛少将(このえしょうしょう)は近衛府の詰所から戻る道を若者らしい軽やかさで歩いている。

 動くたび、袖が軽い。品の良い顔立ちは整っているのに、どこか締まらない。笑うと、まるで少年のような表情になる。

 

 途中で、廊の端に立つ少年の姿を見つけた。


 竹丸だ。小舎人(こどねり)の少年で、少将の雑用を手早く片づける。今日の竹丸は、いつもよりそわそわしている。


「少将様。——姉が」


「姉?」


 少将は歩みを止めた。竹丸の姉は、女房方に仕えている。名を「椿(つばき)」と呼ぶ。


 竹丸が、両手で結び文を差し出した。(はぎ)の花枝に雅に結ばれている。ふつうの文とは違う匂いがした。香ではない。乾いた紙の匂いに、夜の冷えが混じったような匂い。


「姉の椿が『これは少将様へ』と頼まれたと。——あの、気づいたときには、どなたかから受け取っていたのだと」


 このようなことはよくある。何しろ右大臣の三男。歌を書きつけた結び文が届くのはいつものことだ。

 少将は気負いなく文を受け取り、その場で結びをほどいた。


 中には歌がしたためてあるが、少将の目を引いたのは、歌の後に添えられた花押(かおう)だった。

 文字はおそらく「ゆめ」と読める。


 ゆめ。


 形は整っている。癖も強くない。

 ただ、その一文字だけが、妙に目に残った。


「……花押が『ゆめ』か」


 少将が呟くと、竹丸は頷いた。


「姉が申しました。少し前に、ほかの公達(きんだち)でも、似た文を受け取った方がいると……」


「ほかの公達?」


「はい。お名前はわからず……少将様と同じく、大変見目のよい方、と……」


 竹丸は言ってから、自分でも言い方が軽いと感じたのか、目を伏せた。少将はなんと答えればよいかわからず、手の中の文に目をやる。


 少将はあらためて文に目を落とす。

 中には和歌が一首、さらりと書かれている。墨は濃い。濃いのに、どこか乾いている。


  (うれ)ひつつ 萩の露分け 高円(たかまど)の 牧にたなびく 野火にぞ消えにし


 そして、その下に短い添え書き。


 『返しは 渡殿の横の大柳の下に』


 少将は眉を上げた。柳の下。宮中の渡殿の脇にある、あの大柳だ。人目のある場所ではない。だが、人が通らぬわけでもない。


「……返し、か」


 竹丸が不安そうに言った。


「返さねば、なりませぬか」


「礼儀だ」


 少将は即座に言った。こういうものを放っておくと、余計な噂になる。噂は女房たちの御簾(みす)の内だけでなく、男たちの間にも回る。

 

 歌の内容は難しいものではない。

 憂いながら萩の露を分けて歩いた、高円の牧にたなびく野火に私は消えてしまった、それくらい悲しい恋をあなたにしています、とそのままとれば問題ないであろうと少将は考える。


 ただ、心当たりのない相手から届く和歌にしては、責めるような気持ちが強い歌に感じた。

 けれども、そんなにひどい目に遭わせている相手はいないのだから、気にする必要もないだろうと思いなおす。


 少将はその場で筆を取るほどの用意はない。自邸へ戻ってから、形式だけ整えて返すことにした。


「椿には、余計なことは言うな」


「はい」


 竹丸は頷いたが、頷きの奥に、まだ不安が残っている顔だった。


 ⸻


 夜。

 少将は自邸で灯の下に座り、文を広げた。返歌など、遊びだ。遊びに過ぎない。そう思いながらも、花押の「ゆめ」が目に刺さる。


 少将は、たしなみとしての形を整えるだけの返歌を書いた。意味を深く考えず、調子だけ合わせる。

 あなたは誰なのか、心当たりはないという意味も入れこんでみた。


  高円の 牧に消えにし誰がため けふ我が袖や 露と濡れにし


 自分でも雑だと思った。だが、返さぬよりはよい。

 少将は文を折り、牧とあったから真木でよいだろうと、真木の枝を切らせたものに結ぶ。指定の通り、渡殿の横の大柳の根元に置かせた。


 もらった文は、とりあえずは文箱に入れた。


 これで終わる。

 そう思って、その夜は床についた。


 ⸻


 息ができなかった。


 水の底だ。闇の中。口を開ければ水が入る。胸が苦しい。息を吸おうとするほど、身体の中に重いものが溜まっていく。


 上へ行こうとするのに、上がない。

 手を伸ばしても、水が水を押し返すだけだ。音もない。自分の鼓動だけが、耳の奥で膨らむ。


 ——息を。


 息が欲しい。


 口を開いた瞬間、冷たいものが喉へ押し込まれた。水ではない。紙の味だ。墨の苦味だ。


 これは絶対夢だ。目を覚まそう。目を覚ませ。


 だが、夢から目覚められない。


 苦しい。苦しい。いつまでも続く。

 夢のはずなのに、感じるものはすべて実際の感覚だった。

 水の冷たさも。紙と墨の味も。苦しさも。


 永久に続く責め苦に苛なまれる夢から、やがてようやく解放された。


 少将は跳ね起きた。目を覚ますことができた。


「はあ……はあ……はあ……」

 

 まだ、息が苦しかった。喉が痛い。口の中が苦い。水の感覚が舌の奥に残っている。


 夜明け前だった。灯は落ちている。

 静かな部屋に、少将の荒い息が収まらない。


「夢……」

 

 はっとして文箱を探り、昨日の文を掴んだ。そこにある。捨てていないのに、確かめずにはいられない。


 少将は文を取り上げ、和歌を見た。


 ――花押が、増えている。


 昨日は一つだったはずの花押が、二つになっている。

 同じ形、同じ大きさ、まるで最初から二つあったように。

 後から書き足したようには見えない。

 

「……何だ、これは」


 少将は立ち上がり、文を火にくべた。

 燃えた。紙が縮れ、墨が黒く裂ける。灰が落ちた。


 なのに。


 振り向くと、枕元に文があった。


 燃えたはずの文が、折り目もそのまま、同じ花押をつけたまま。


 少将は息を呑んだ。

 胸の奥がざらついた。寝汗が冷える。


 少将は竹丸を呼び、短く命じた。


「調べろ。——この文、ほかにも届いていると言ったな」


 竹丸は目を見開いたが、すぐ頷いた。


「誰に。共通点は何だ」


「はい」


 竹丸は走った。


 少将は一人、座に戻り、もう一度和歌を見た。

 何かがある。遊びではない。遊びの顔をした何かだ。

 この和歌に、きちんと返歌をしなければならない、そう感じた。


  憂ひつつ 萩の露分け 高円の 牧にたなびく 野火にぞ消えにし


 「物名(もののな)か」

 和歌の中に、別の言葉が隠されているのではないか。少将に届けられる和歌にもよく仕掛けられている。

 隠された言葉を見つけ、それに関するものを返す必要がある。

 

  うれひつつ はきのつゆわけ たかまとの まきにたなひく のひにそきえし


 「あった!」

 

 少将は隠された物名をみつけた。


 『うれひつ()()()の』


 椿(つばき)だ。


 今度こそ少将はまじめに返歌を考える。何度も書き直した。

 しばらく格闘したあと、少将は頷き、筆を置いた。


  今宵もや 来ぬ人を待つ山椿 色は変はらず ただ落つるらむ


 今回の和歌は、きちんと詠めたはずと息を吐く。

 椿の枝に結ばせ、大柳の根元に置くよう指示した。


 そして二回目の夜が来た。


 ⸻


 だが、悪夢は続いた。


 二晩目の悪夢は、水ではなかった。


 少将は馬に乗っていた。嵯峨野へ向かっている。道も知っている。山の影も知っている。嵯峨殿の山荘へ、行かなければならない。


 そう思っているのに、道が同じだ。


 辻を曲がる。廊を渡る。門を抜ける。

 進むほど、宮中の廊に戻っている。柱の朱。板の匂い。女房たちの声を殺した空気。


「違う。ここではない」


 少将は馬ではなく、己の足で走った。走ったのに、足音がいつも通りだ。早くならない。

 廊の先に灯が見える。嵯峨野の山の灯ではない。宮中の灯だ。


 人影がある。誰かに道を聞こうとする。


「嵯峨野へ——」


 言いかけて、言葉が止まった。

 相手が少将を見ない。少将の冠も見ない。顔の横を通り過ぎるだけだ。


「おい」


 少将は腕を掴もうとした。掴めない。袖が空を切る。手応えがない。


 柳が見えた。


 渡殿の横の大柳だ。夜の色に揺れている。近づけば、そこから道が変わる。そう思って足を向けた。


 けれど柳は遠ざかった。

 近づくほど、枝が細くなる。細くなるほど、遠い。


 気づくと嵯峨野への道だ。

 だが、山荘が見えない。

 嵯峨野の山影が、どこにもない。


 そうだ、これはまた夢だ。


 少将は喉の奥で空気が詰まった。

 口を開けても、息が戻らない。


 ——行かなければ。


 ——行かなければ。


 そう思うのに、足がたどり着くのは、渡殿の大柳だ。

 そばには近づけない大柳。


 夢だ。目を覚ませ。

 だがゆうべと同じだ。夢だとわかっているのに逃れられない。


 今夜もまた、ひどい永遠だ。

 ひたすらに嵯峨野を目指して歩き続ける。

 着かない。どうしてもたどり着けない。

 気づけば必ず大柳の近くにに着いてしまう。


 少将は叫んだ。嵯峨殿の名を。


「……時雨(しぐれ)!」


 少将はそこで目を覚ました。

 布団の中で、身体が冷たい。息が浅い。鼓動が激しい。

 喉の奥に、名を叫んだ残響がある。


 枕元の文を掴む。

 花押を見た瞬間、少将は息を呑んだ。


 また増えている。


 「ゆめ」が三つ。


 唇を噛んだ。

 

 (続くのか。まだ続くのか……)

 

 頭が働かない。二晩、まともに眠っていない。夢の中の道が、現実の廊に重なる。


 汗で濡れたものを脱ぎ着替えたころ、竹丸がやってきた。


「少将様。……調べました」


 竹丸は膝をつき、声を落として言った。


「少し前に、似た文を受け取った方がいると。名は出せないが……連日『夢が……』とだけ仰って、言葉が続かぬそうです。今は衰弱して、床についていると」


「やはり、夢……」


 少将は重い頭を押さえ、低く呟いた。

 花押の「ゆめ」は、もはや戯れではない。


 竹丸は、なおも続ける。


「姉の椿が申しますに、その方の夢の話は、誰も詳しく知らないと……」


 少将は息を吐いた。


「……椿」


 無意識に口から出た名に、竹丸が顔を上げた。


「はい」


 少将の目が血走っているのを、竹丸は見た。


「まさか……椿を、おまえの姉を、柳の根元へ置けということか」


 竹丸の顔から血の気が引いた。


「少将様……!」


 少将は首を振った。自分で言って、自分で馬鹿らしくなる。けれど、夢の中では、道が全部大柳へ向かっていた。


「そんなことが……できるはずがない」


 竹丸は涙目になった。


「嵯峨の君に……嵯峨の君にお知恵を借りたら……!」


 少将はそこで、ようやく決めた。


 ——嵯峨野へ。


 夢の中では辿り着けなかった場所へ、現実で行く。


 ⸻


 嵯峨野の山荘の門は閉じていた。ここにたどり着けたことに、少将は息を吐く。自分の肩がこわばっていたことに気づいた。

 少将が名を告げる前に、内側で戸が擦れた。家人が無言で開け、脇へ退く。


 少将は通されるまま奥へ行った。


 座にいたのは嵯峨殿だった。

 長い黒髪を後ろで束ねただけの痩身。切れ長の目が冷たく光る。硯が出たまま、墨の匂いと沈香が薄く混じっている。


 少将は、嵯峨殿を見つめたまま、座らずにいた。

 座ることを忘れていた。忘れている自覚もなかった。


「嵯峨殿……知恵を貸してくれ」


 嵯峨殿は筆を置き、少将を見る。


「何があった」


 少将は息を整えようとしたが、整わなかった。

 そのまま言葉を落とす。


「文が来た。歌があった。花押が『ゆめ』。返し先が柳の下とある。——返したのに、夢を見た」


 嵯峨殿の眉がわずかに動く。


「どんな夢だ」


 少将は一瞬だけ目を伏せ、それから顔を上げた。


「一晩目は、水の底だ。息ができない。——二晩目は、もっとひどかった」


 嵯峨殿の声が低くなる。


「どんな夢だ」


 少将は飾らずに言った。恥を避ける言葉も選ばなかった。


「ここに来ようとしているのに、たどり着けない。何度道を選んでも、嵯峨野が見えない。お前のところへ行かなければと思うのに。どうしても目が覚めない。お前の名を叫んだ——怖い夢だった」


 嵯峨殿は目を伏せた。

 伏せたまま、少将の袖口へ手を伸ばし、乱れた結び目を一度だけ整えた。動作は短い。けれど、手が冷たい。


 少将はそれを見て、自分が立ち尽くしていたことに気づいた。足の裏が痺れている。


「だから今日は、竹丸に勧められてようやく来た。たどり着けないかと、思ってしまった」


 少将は、安堵を吐き出すように言った。

 嵯峨殿は顔を上げ、少将を見た。声が普段より低い。


「……座れ」


 少将はようやく座った。

 座った途端、膝が少し震えた。呼吸が戻る。夢が夢の形に引いていく。


 少将は懐から文を出し、嵯峨殿の前へ置いた。


「これだ。悪夢を見せる文だ。毎朝、花押が増える」


 嵯峨殿は文を手に取らない。視線だけで読む。花押「ゆめ」が三つあるのを見る。


 そして和歌を追う。


 憂ひつつ 萩の露分け 高円の 牧にたなびく 野火にぞ消えにし


 嵯峨殿は、息ひとつ分だけ間を置いた。


「……返したものは」


「椿だ」


 少将は即答した。

「『つはき』が隠れている。そう思った。——だが、違った」


 嵯峨殿は目だけを細めた。


「椿は、答えではない」


「では、何だ」


 嵯峨殿は、和歌を見たまま言った。


「頭と尻」


 少将は眉を寄せた。頭と尻。意味がすぐ繋がらない。嵯峨殿は説明しない。説明の代わりに、言葉を落とす。


沓冠(くつかぶり)だ」


 少将はそこで、ようやく形を思い出した。和歌の言葉遊びの型。頭と尻の文字を拾い、別の言葉を浮かび上がらせる。


 少将は息を呑み、和歌をもう一度見た。


 うれひつつ

 はきのつゆわけ

 たかまとの

 まきにたなひく

 のひにそきえし


 嵯峨殿が、各句の頭の文字を指さして拾っていく。


「……う、ば、た、ま、の」


 少将の背筋が冷えた。枕詞。夜。髪。闇。


 嵯峨殿は、続けた。今度は各句の最後の文字だ。


「つ、げ、の、く、し」


 少将は言葉を失った。


 うばたまの、柘植の櫛。

 女の髪に差すもの。男の手には馴染まぬもの。けれど、宮中にはいくらでもある。女房たちの座にも、梳る音はある。


 少将は、思わず言った。


「……そんなものが」


 嵯峨殿は首を振らない。頷きもしない。


「柘植の櫛を返せばいい。遊びだ」


 少将は唇を噛んだ。

「遊びで、二晩も——そんなもののけがあるか」


「遊びだからこそ、加減がない」


 嵯峨殿は言い切った。

 その言い切りが冷たくて、妙に現実だった。


 少将は、柳の下の指定を思い出す。返し先がある。返し方も決まっている。ならば、物を用意すればよい。


「……柘植の櫛を、どこで」


 少将が言いかけた時、嵯峨殿は奥へ目をやった。

 家人が、いつの間にか座の端にいた。嵯峨殿は短く言う。


「持ってこい」


 家人は何も尋ねず下がり、すぐ戻った。

 小さな包みを、音もなく座の端へ置く。


 嵯峨殿はそれを開け、中身に指先を滑らせる。

 目を閉じて何かを念じるようにしてから、少将の方へ押しやった。


「新しい。これで足りる」


 少将は包みを開けた。

 柘植の櫛だ。飴色の木肌。艶がある。けれど、その艶の奥に、夜の黒が薄く混じっているように見えた。見えた気がしただけかもしれない。


「……“うばたまの”は、いいのか」


「省いてよい。枕詞だ。だが念のため、櫛に黒を添えておいた。これで充分だ」


 先ほど念じていたものがそれか、と少将は喉を鳴らした。

 黒を添える、の意味はわからない。だが充分と言われたのだから充分なのだろう。


「……嵯峨殿。礼を言う。ありがとう」


「ああ」


 嵯峨殿は淡い声で言った。


「竹丸に持たせろ。柳の下だ。——お前は今夜、ここに居ろ」


 少将は頷いた。


「眠りたい。夢を見ずに眠りたい」


「わかっている」


 嵯峨殿は短く言い切った。


 柘植の櫛の包みの匂いに沈香が薄く混じっている。嵯峨殿の匂いだ。

 

 少将は竹丸を呼び、包みを渡した。


「渡殿の柳の下だ」


 竹丸は頷いた。目だけが必死だ。


「はい」


 ⸻


 夜更け。

 少将は山荘の客の寝所で横になった。


 目を閉じると、二晩分の夢が押し寄せる気がした。

 水の底。廊の繰り返し。嵯峨野に辿り着けない恐怖。


 少将は袖の中の指を握り、息を数えた。

 数えているうちに、いつの間にか意識が落ちた。


 悪夢は、来なかった。


 代わりに、香がした。香炉の香ではない。髪の香だ。沈香ではない。


 白い手が、視界の端にある。

 顔は見えない。見えないままに、声がする。

 笑いを含んだような女の声だ。


『……おもしろかった』


(ああ。これは夢だ)


 少将は理解した。

 喉は詰まらない。息は出来ている。

 

 少将はすぐに目を覚ました。


 夜明け前。山荘は静かだ。どこかで鳥が一度だけ鳴いた。

 少将はゆっくり起き上がり、枕元を探った。


 文がある。

 歌もまだある。

 だが「ゆめ」という文字は崩れ、形のある花押は一つもなかった。

 

 けれど、最後に新しく一語が残っていた。


 いとをかし


 少将は文を握りしめた。

 先ほどの夢の声が蘇り、背中に薄い汗が浮いた。


 廊の向こうで、足音がした。

 嵯峨殿が来る音ではない。家人の足音だ。湯の器が置かれる音がした。薬湯の匂いが薄く漂う。


 少将は、器を受け取る前に、奥の座へ行った。

 嵯峨殿はすでに起きていた。


 少将は立ったまま、文を差し出した。


「……消えた。花押も、夢も」


 嵯峨殿は文を見た。今度は、指で紙に触れた。

 触れても何も起きない。嵯峨殿は一度だけ頷いた。


()けたな」


 少将は、息を吐いた。

 吐いた息が、やっと軽い。


「……だが、ことばが」


 少将は『いとをかし』を指差す。

 そしてまだ、言うべきことが舌の上に残っている。


「何だ」


 嵯峨殿が問う。平らな声だ。


 少将は素直に言った。


「変な夢を見た。——笑われた気がする。『面白かった』と」


 嵯峨殿の目が、ほんの一瞬だけ細くなる。

 次の瞬間には、いつもの鋭さに戻った。戻ったのに、声が少し低い。


「……ここまで入って来られるなら、悪意は薄い」


 少将は眉を上げた。


「薄いだけで、消えてはいないのか」


 嵯峨殿は答えない。

 代わりに立ち上がり、奥へ手を伸ばした。一枚の札の形の紙を取る。沈香の匂いが立つ。


 札を持って振り返る。

 切れ長の目が、少将の端正な顔を真正面から捉える。


「後ろを向け。祓う」


 短い言葉だった。


「……頼んではいない」


 少将はそう言いながらも、後ろを向いた。


 嵯峨殿が札を少将の背にあて、何事かを呟いているのを、そのまま黙って聞いていた。


「もうよい」


 嵯峨殿の言葉に、振り向く。

 

 嵯峨殿はもう薬湯の仕度をしていた。


「座れ」


「ありがとう。もう、いなくなったのだろうか」


 呟くような問いに嵯峨殿はしっかりと頷く。


「ああ。もう来ない」


 少将は、心底ほっとした様子で笑った。

 そしてふと思い立った様子で、懐から紙を取り出した。


「和歌を詠んでもよいか。嵯峨殿への礼の気持ちだ」


 嵯峨殿は軽く目をよこした。


 やがて少将は歌を差し出す。

 嵯峨殿は薬湯を置き、和歌に目を通す。


  山深く 籠もる君をば たずね来て ゆふべの夢は 心のどけし


 読んだ嵯峨殿の動きが止まる。

 

「…………ゆうべの夢」


 一拍言いよどんだ後、少将がどこかあどけなさの残る顔で笑っているのを見て、渋々のように嵯峨殿は続ける。


「それは……後朝(きぬぎぬ)で使うものだ」


「え……」


 目を見開いた少将の顔が、見る見る赤くなった。

 夜を共にした翌朝の――


「あ、ああ、いや! そういう意味では!」

 

 少将は立ち上がり、袖を振り、座り直し、また立ち上がった。

 

「ただ昨夜よく眠れたと! 本当にそれだけで!」


 嵯峨殿は目を伏せる。小さく、ため息が落ちた。


「……わかっている。落ち着け」


 少将は、座りなおして薬湯に手を伸ばす。その苦い匂いをかいで、やっと落ち着きを取り戻した。


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