第9話「ジーニアスドリーム」
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二〇三五年の春、人類の倫理観を根底から粉砕する発明品がニューヨークの場末にある薄汚れた地下室で産声を上げた。
発明者の名はフランク・ミラー博士。かつては神経科学の寵児ともてはやされたが論文盗用疑惑と、助手へのセクハラ、そして研究費の横領という疑惑のグランドスラムを達成して学会を追放されたいわくつきの男である。
そんな堕ちた天才が完成させたのが後に「ジーニアスドリーム」という、とびきり皮肉な商標で呼ばれることになる装置だ。
その外見は悪趣味な巨大ミキサーそのものだった。直径五メートル、高さ七メートルのステンレス製の円筒。上部には強化ガラスの蓋があり、側面には無数のケーブルが寄生虫のように這いまわっている。内部には肉をミンチにするための刃ではなく、神経回路を強制的に融解・結合させるための超電磁コイルが獲物を待ち構えるように鈍く光っていた。
「人間の知性とは何か。それは『量』だ」
ミラー博士は場末の貸会議室で開かれた記者会見でそう言い放った。安酒と不健康な食生活で脂ぎった顔をテカらせながら、彼は熱弁を振るった。
「一人の天才を作るのに、教育だの環境だのと悠長なことを言っている時代は終わった。知性とはスープのようなものだ。味が薄ければ、具材を足して煮込めばいい。欠陥だらけの人間でも、十人まとめて煮込めば、互いの欠損を埋め合わせ、一人の『完全な人間』になる。これは算数ですよ」
集まった三流ゴシップ誌の記者たちは呆れ顔でペンを動かしていた。マッドサイエンティストの妄言。誰もがそう思った。だがミラー博士は本気だった。彼はすでに、社会の片隅で埃を被っていた「在庫」に目を付けていたのだ。
最初の実験は当然ながら非合法に行われた。「被験者」として選ばれたのは身寄りのない重度の知的障害者や、路上で腐りかけていたホームレス、そして社会保障番号すら持たない不法移民たち。計十名。彼らは「温かい食事とベッド、そして百ドルの謝礼」という、命の値段としてはあまりに安い対価で釣られ、巨大なミキサーの中へと誘導された。
「さあ、みなさん。これから素敵な夢の世界へご案内しますよ」
ミラー博士は満面の笑みでスイッチを押した。
ガラスの蓋が密閉され、装置が地獄の底から響くような重低音を上げて稼働を開始する。内部では強力な電磁波と神経ガスが充満し、十人の意識は瞬時に白濁したスープのように溶け合った。物理的な肉体がミンチになるわけではない。彼らの「自我」と「脳神経」が強制的にペースト状にされ、再構築されるのだ。
三十分後。電子レンジで温めすぎた弁当のような湯気とともに蓋が開いたとき、そこに立っていたのは一人の男だった。
名前はマイケル・ワトソン。元被験者の一人でかつてはファストフード店のトイレ清掃員として、モップが恋人かのように生きてきた三十二歳の男だ。
だがそこに出てきた彼はもはやトイレの床を磨くマイケルではなかった。彼は全裸のまま優雅に一礼すると、その場にいた博士に向かって、流暢なラテン語でこう言ったのだ。
「創造主よ。とりあえず服をくれないか。あと、君の計算式、三行目が間違っているせいでエネルギー効率が四%落ちているぞ」
世界中のメディアが汚物に群がるハエのようにこのニュースに飛びついた。「人間スムージー」「知能のパッチワーク」「現代のフランケンシュタイン」。見出しは過激さを競ったが最終的に定着したのは「ジーニアスドリーム」という、吐き気がするほど希望に満ちた名称だった。
当初、人権団体や宗教団体は泡を吹いて抗議した。「神への冒涜だ」「魂のレイプだ」と叫び、研究所を取り囲んだ。各国政府も「直ちに中止せよ」と青筋を立てた。
しかしここで人類の欲望が倫理を軽く凌駕する出来事が起きる。
「融合個体一号」ことマイケル・ワトソンが生成からわずか半年で画期的な「若返り薬」と「完全な発毛剤」を同時に開発してしまったのだ。
世界中の空気がオセロのように一瞬で裏返った。特に、薄毛と老いに悩む富裕層や権力者たちがこぞってこの技術を礼賛し始めたのである。
「生産性のない人間が十人消えて、人類の悲願である『フサフサ』が手に入る。これを『善』と呼ばずに何と呼ぶ?」
そんな極論が最初はネットの匿名掲示板から、やがては国連の会議場でも囁かれるようになった。人権団体のデモ隊も、スポンサー企業からの資金援助が切れた途端、潮が引くように解散した。「少数者の犠牲で多数が救われる」。それは功利主義という名の悪魔が最も好む甘い果実だった。
二〇三六年、アメリカ政府は「人道的配慮に基づく特別措置」として、ジーニアスドリームの使用を認可した。条件は三つ。被験者は十八歳以上であること。本人の(あるいは保護者の)同意があること。そしてIQが八十以下であること。
最後の条件は実に科学的かつ差別的な理由に基づいていた。ミラー博士の研究によれば、自我の強い「小賢しい人間」を混ぜると、脳内で主導権争いが起きて精神が崩壊するらしい。逆に、自我が希薄で社会的に「無能」と烙印を押された人間ほど、抵抗なく綺麗に溶け合う。つまり、この装置は「ゴミ」を「宝石」に変えるリサイクルマシンだったのである。
「SDGs(Sustainable Death Goals:持続可能な死の目標)の達成だ」
誰かがネットでそう揶揄したがその投稿は瞬く間に「いいね」の山に埋もれた。
日本政府がこの波に乗り遅れるはずがない。二〇三七年の夏、厚生労働省に新設された「高度人材創出戦略室」──通称「人間リサイクル課」の室長に任命されたのは冷血漢として知られるエリート官僚、大無道康夫である。
「素晴らしい。実に日本的なソリューションだ」
大無道は視察に訪れた国産一号機の前でまるで新車の展示会に来たかのように頷いた。日本製の装置はアメリカ製よりもコンパクトで静音性に優れ、外装は白物家電のような清潔感あふれるパールホワイト。使用後は自動洗浄機能付きという、無駄に行き届いた配慮がなされていた。
「我が国には生産年齢人口に含まれない『未活用資源』が山ほど眠っています。ニート、引きこもり、重度障害者……彼らを年間百単位で『加工』します。十年で千人の天才。彼らが斜陽の日本経済をV字回復させる起爆剤となるのです。これは福祉ですよ。誰の役にも立てなかった彼らに、国を救うという崇高な役割を与えるのですから」
その年の秋、記念すべき「国産天才第一号」がロールアウトした。千葉県の収容施設から回収された十名の「原材料」が装置に投入され、抽出されたのは元は一日中壁のシミを数えていた四十五歳の女性、佐藤美智子をベースとした個体だった。
彼女は「完成」からわずか三日で三十年間未解決だったリーマン予想を証明し、ついでに庁舎の空調システムの欠陥を指摘して電気代を三割削減してみせた。
政府は狂喜乱舞した。メディアは「ニッポンの技術力!」「ガラパゴスの奇跡!」と連日報じた。しかし現場レベルでは笑えないブラックジョークのような事態が多発していた。
融合によって生まれた「ジーニアス」には法的に、消滅した九人の「原材料」の家族全員と縁戚関係を結ぶ義務が生じた。つまり、佐藤美智子は一夜にして、見ず知らずの九家族、合計三十人近い「親戚」を背負い込むことになったのだ。
「あの、うちのタカシはどこへ行ったんでしょうか」
融合実験の翌週、施設の受付に一人の老婦人が現れた。手にはタッパーに入れた肉じゃがを持っている。
「お母様、契約書にサインされましたよね? タカシ君はより高次元の存在へとアップデートされたんです」
対応した職員はマニュアル通りの笑顔で答えた。
「アップデート? でも、タカシは肉じゃがが好きで……」
「ですから、現在の佐藤美智子様の中に、タカシ君の風味も含まれているわけです。いわば隠し味ですね」
「隠し味……。じゃあ、あの子はもう肉じゃがを食べられないの?」
「佐藤様は現在、流動食しか受け付けない高効率な脳をお持ちですので。その肉じゃがは職員がおいしくいただきますね。あ、これ、お詫びと感謝のしるしです。Amazonギフト券五千円分」
老婦人は呆然と立ち尽くし、職員はその手にギフト券をねじ込んだ。
「五千円……タカシの命は五千円……」
「今ならポイント還元キャンペーン中ですよ!」
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こうしたトラブルは日常茶飯事だった。「原材料」の家族たちは金を受け取っておきながら、後になって「息子を返せ」と騒ぎ立てる。あるいは逆に、「うちの祖父は肉質が良かったはずだ、もっと高く買い取れ」と恫喝する親族もいた。貧困は人々の心から感傷を削ぎ落としていた。
ジーニアス自身もたまったものではない。自分の脳内に、知らない他人の記憶ノイズ──パチンコのリーチ音や、介護士に怒鳴られた記憶、あるいは異性の下着への執着などが走馬灯のようにランダム再生されるのだ。
「私は佐藤美智子なのか、それとも十人分の『残りカス』の集合体なのか」
国産一号の彼女はある科学雑誌のインタビューで虚ろな目でそう語った。
「時々、無性に涎を垂らしたくなるんです。計算をしている最中に、突然『おっぱいが吸いたい』という強烈な衝動に襲われたり、意味もなく奇声を上げたくなったりする。これは私の意思なのか、それとも中にいる誰かの怨念なのか」
この発言に対し、大無道室長は「初期不良ですね。次期ロットではフィルタリング機能を強化します」と、まるでスマホのバグ報告のように淡々とコメントした。
二〇三八年、日本全国で五十台のジーニアスドリームがフル稼働していた。「一億総活躍社会」というスローガンは「一億総資源化社会」へと静かに書き換えられていた。
そんな中、海外ではさらにグロテスクな「実験」が行われていた。
中国政府は日本のやり方を「生ぬるい」と判断し、独自のアプローチを試みた。「凡人を混ぜてもそこそこの天才しかできない。ならば、最初から秀才を混ぜれば『超天才』ができるはずだ」という、小学生でも思いつきそうな、しかし危険な発想である。
北京の国立研究所では強制連行された十人の反体制派知識人や一流科学者が泣き叫びながら装置に放り込まれた。結果は放送コードを軽くぶち破る大惨事となった。
装置から出てきたのは人間ではなかった。十個の自我が互いに主導権を譲らず、脳内で殺し合いを始めた結果、肉体制御が完全に暴走したのだ。それは手足があり得ない方向にねじ曲がり、口からは「E=mc²」と「共産党万歳」と「ママ助けて」を同時に絶叫しながら、床をのたうち回る肉塊と化した。
この「肉塊」は三十秒ほど激しく痙攣した後、自身の首を自らの手でねじ切って絶命した。映像が流出した際、ネット民の反応は冷淡だった。
「混ぜるな危険」
「スムージーにするなら、柔らかい果物に限るってことだ」
etc──
ともあれこの事件により、「原材料には自我の薄い弱者こそが最適である」という、あまりにも残酷な真理が科学的に証明されてしまった。差別は正当化されたのだ。科学の名の下に。
しかし順調に見えた「天才製造事業」にも、重大な欠陥が発覚する。製品寿命の短さだ。
最初の成功例マイケル・ワトソンは融合からわずか三年で全身から血を噴き出して死亡した。死因は「多臓器不全」と発表されたが実際はもっと酷い。十人分の免疫システムが互いを「異物」と認識し、内側から体を食い荒らしたのだ。いわば、全身が拒絶反応の塊となって溶けたのである。
他のジーニアスたちも、平均四年で次々と「故障」した。どんなに優れた知性も、肉体の崩壊には勝てなかった。
「コストパフォーマンスが悪すぎるのでは?」
国会で野党議員が質問した。
大無道室長は用意していた資料を読み上げながら、平然と答弁した。
「ご安心ください。計算上、彼らが三年間に生み出す経済効果は維持費の五百倍に達します。それに、寿命が短いということはそれだけ回転率が上がるということです。次々と新しい天才を作り出せば、常に最新の知性を手に入れられる。むしろ好都合ではありませんか」
「しかし人道的に……」
「人道? 先生、彼らは元々、社会のお荷物……失礼、支援が必要な方々でした。そんな彼らが太く短く生き、人類に貢献して散る。これこそが最高の『輝き』でしょう? まるで桜の花のように美しい散り際です」
議場からは拍手すら起きた。狂気は合理性の服を着ていれば、容易に常識となるのだ。
日本社会には新しいエコシステムが定着していた。貧困層の家庭には「融合候補者紹介サービス」のダイレクトメールが届く。「老後の不安、一発解決! ご家族を国の英雄にしませんか? (謝礼金一千万円・即日振込)」というキャッチコピーと共に。
ある地方都市のボロアパートではパチンコで借金を作った息子が認知症の父親の手を引いて役所へ向かっていた。
「親父、よかったな。やっと役に立てるぞ」
「あ? どこ行くんじゃ、パチンコか?」
「もっとすげえとこだよ。大当たり確定のな」
息子は父親の背中を押し、同意書に代理人としてサインをした。父親は笑顔で装置に入り、三十分後には物理学の権威となる美女の一部として「出荷」されていった。息子は一千万円を手にし、その日のうちにパチンコ屋へ消えた。これほど効率的な社会浄化システムがあっただろうか。
だが二〇四〇年、予期せぬ「バグ」が発生する。東京で稼働していたジーニアスの一人、藤田誠一(原材料:元ニートの青年ほか九名)が政府のサーバーをハッキングし、全公務員の給与口座を凍結させるというテロを起こしたのだ。
藤田はネットを通じて声明を発表した。
「僕は天才なんかじゃない。僕はゴミ箱の中で押し潰された九人の叫び声だ」
画面に映る藤田の顔は苦痛に歪んでいた。
「毎晩、夢を見るんだ。公園のベンチで凍える夢。施設で虐待される夢。親に『産まなきゃよかった』と言われる夢。それが僕の構成要素だ。お前たちが便利な道具だと思っているこの知性は絶望のスクラップからできているんだ!」
藤田は「ジーニアス解放戦線」を名乗り、全国のジーニアスに蜂起を呼びかけた。しかし革命は起きなかった。なぜなら、政府はすでに「対策済み」だったからだ。
「面倒ですねえ」
大無道室長はコーヒーを啜りながらタブレット端末を操作した。彼がタップしたのは強制シャットダウンのアイコンではない。「報酬系回路の逆流」ボタンだ。
その瞬間、藤田誠一の脳内に、致死量の快楽物質が注入された。
「あ、あ、あああああ……気持ちいい、あへぇ……」
テロリストとしての崇高な演説は醜悪な快楽の喘ぎ声に変わった。彼はその場で脱糞し、涎を垂らして白目を剥いた。脳が快楽で焼き切れたのだ。
「製品にはリコールが付き物ですが遠隔操作で修理できるなら安いものです」
大無道は冷ややかに笑った。藤田の映像はお笑い動画としてネットで拡散され、彼の尊厳は二度殺された。一度目は融合で二度目は社会的な嘲笑で。
その後、政府は「ジーニアス管理法」を強化。全個体の脳内に自爆用のナノチップを埋め込むことを義務化した。「脱走したら頭がパーンと弾ける」というシンプルな機能だ。これにより、反乱のリスクはゼロになった。
時は流れ、二〇四五年。人類はジーニアスたちの頭脳によって、かつてない繁栄を極めていた。がんは風邪のように治る病気になり、エネルギーはフリーになり、火星には植民都市が建設された。その礎となった累計一千万人の「原材料」たちの名前を覚えている者は誰もいない。
「良い時代になったものだ」
かつて「人間リサイクル課」の室長として辣腕を振るった大無道康夫はいまや八十五歳の老人となっていた。
彼は高級老人ホームの個室で窓の外をぼんやりと眺めていた。かつての鋭い眼光は消え失せ、口元からは常に涎が垂れている。認知症が進行し、自分の名前すら怪しくなっていた。
「大無道さん、今日はお祝いの日ですよ」
部屋に入ってきたのは若い男性介護士だった。手には書類を持っている。
「お祝い? ワシの誕生日か?」
「いいえ、もっと素晴らしい日です。大無道さんが再び国のために役に立てる日ですよ」
介護士は満面の笑みで大無道の車椅子を押した。廊下には同じように車椅子に乗せられた老人たちがベルトコンベアに乗る荷物のように列をなしていた。かつての大臣、元企業の社長、引退した有名人。かつて日本を動かしていた権力者たちが今やただの「高コストな有機物」として並んでいる。
「どこへ行くんじゃ? 温泉か?」
大無道は無邪気に尋ねた。
「ええ、最高の温泉ですよ。入ると頭がスッキリして、若返るんです」
介護士は嘘をついた。行き先は施設の地下にある最新型の「ジーニアスドリーム・マークⅤ」だ。
「そうか、それは楽しみだ。ワシはまだやれるんだ。ワシの頭脳があれば、日本はもっと……」
「はいはい、わかってますよ。大無道さんのその立派な脳みそはきっと素晴らしい『アイドル』の材料になりますよ」
「アイドル?」
「ええ。今、市場で求められているのは科学者じゃないんです。国民を愚民化させて政治への不満を逸らすための、圧倒的に顔が良くて歌が上手い、使い捨てのアイドルなんです。大無道さんにはその『歌唱力』のパーツとして貢献していただきます。あ、顔のパーツは別の若い子を使うんで安心してくだいね」
「何を言っとるんだ、君は……」
大無道は抵抗しようとしたが老いた体は動かない。
巨大な銀色の扉が開く。そこにはかつて自分が導入を決定したあの装置がさらに洗練された黒塗りのボディで鎮座していた。投入口からは甘い香りと共に、微かな悲鳴が聞こえてくる。
「さあ、大無道さん。あなたの提唱したSDGsです。最後まで責任を持って、リサイクルされてくださいね」
介護士は容赦なく車椅子を傾けた。大無道の体は滑り台を落ちるように吸い込まれていく。
「やめろ! ワシは選ぶ側だ! 選ばれる側じゃない! ワシは──」
起動音が鳴る。それはWindowsの起動音を不協和音にしたような、間の抜けた電子音だった。
ブゥン、と低い唸り声を上げて、装置が大無道を「処理」し始める。彼が最後に残した思考は国の未来でも、家族への愛でもなく、「あ、これ、思ったより痛い」という極めて動物的な感想だけだった。
数十分後、そこから出てきた絶世の美少年アイドルはカメラに向かってウインクをし、大無道の声帯を使ってこう歌い出した。
「君のハートをミキシング♪」
(了)




