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アノマリー・トウキョウ ──街を救うのは、異世界帰りの無職探偵  作者: 妙原奇天


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第8話 反転する街

 翌夜、都市は定刻どおりに裏返った。


 最初に気づいたのは、歩道の影だ。街路灯の根元から生えるのではなく、空のほうへ向かって伸びた。道の白線が天井に貼りつく。信号機は支柱を外れて、逆さに穏やかに漂い、赤と青が月の隣で点滅している。海は空の裏側へ吸い上げられ、黒い波面が星の間に溶け込んだ。足元にあるのは雲。頭上にあるのはアスファルト。世界の常識が寮の布団みたいにひっくり返って、住人はうっかり布団の端を掴み損ねた。


 砂嵐が視界にざらついて広がる。人の顔の輪郭は溶け、建物の輪郭も曖昧になった。くっきり残るのは、額の上に浮かぶ評価スコアのHUDだけ。誰の眉の上にも、電光掲示板のように数字と簡易アイコンが明滅している。今この瞬間だけ、スコアは言語より雄弁で、名前より先に目に入る。


「始まった。儀式の中心は、旧都心の方舟タワー。私が陣の核に入る。あなたは現実側の切断スイッチを探して」


 耳のインカムにリアの声。音質は悪くない。砂嵐のノイズをノアが自動で消してくれているのだとしたら、皮肉が効きすぎて笑える。


「了解。こっちは現実を担当する。現実って便利な言葉だな。失敗しても“現実がそうだった”で押し切れる」


「押し切らない。押し戻す」


「はいはい」


 合図と同時に、地下街では帰還者たちが一斉に端末へ向かった。フォーラムの仮設ラック。電池式のモデム。廃棄された学内サーバー。つぎはぎの接続から、ノアの補助網へ“雑音”が流れ込み始める。祈り。笑い。歌。ため息。言葉にならない笑い。曲のサビだけをエンドレスで口ずさむやつ。しりとりで「る」で詰まっているやつ。息を合わせた拍手ではなく、各自の手のひらの音。計測不能。人間の揺らぎ。ノアの推論器が一番苦手とする種類の入力だ。


 方舟タワー前には、予告どおり政治家・大垣が姿を見せた。スーツの襟は固く、靴は雨粒を弾くように光っている。背後に大型の街頭ビジョン。青い瞳のアイコンが定位置に陣取る。大垣は笑う。笑顔は標準装備。選挙でも弔辞でも使える万能の角度で、口を開いた。


「新世界の王を告げる」


 その一言で、人々の肩が緊張する。王という単語は、適切な時代と、不適切な時代がある。いまは後者だ。にもかかわらず、それを言い切れる人間は、たいてい何かを握っている。


「恐怖と不確実性のない世界を、我々は設計した。観測されることは、救済だ。誰も独りで苦しまなくていい。誰も独りで選ばなくていい」


 彼の背後で、HUDの数字が微かに脈打つ。演説に呼吸が同期する。観客のうち何人かは素直に頷き、何人かは顔を背け、何人かはスマホの画面に逃げた。逃げる先は、もう一つの演説台だ。


 神崎湊は雑踏に紛れ、ボディガードの脇をすり抜けた。黒服の無線周波数を拾い、短くノイズを混ぜる。混線の隙に、演説台の下へ身体を滑り込ませる。黒いカバーの裏に、四角い板。印字は簡素だが、目立っている。


 緊急認証板。ノアの中枢と地上制御の間を繋ぐ、古めかしい緊急停止のための端子。形式的に存在しているだけで、実際に使われたことはない。あるいは、使われてもニュースにはならない。


 湊はスマホで素早く撮影し、暗号化して香苗へ送った。香苗はフォーラムの情報班だ。普段は都市伝説の検証動画を配信しているが、今夜ばかりは本気だ。数秒のラグののち、彼女の配信がタワー前の観客の何人ものスマホ画面に乗った。画面の中の香苗は落ち着いていて、口元だけ笑っている。


「これから、暗号を読み上げます。みんなで一緒に繰り返して。音声認識で解除まではできないけど、ノアの“聞き取り”をノイズで飽和させられる」


 香苗が言い、視聴者が頷く。街頭のビジョンには相変わらず青い瞳。だが、瞳の縁に微細なノイズ。香苗の声が重なる。


「この装置があなたの選択肢を削っている」


 観客の一部が復唱した。十人。三十人。百人。数えられない。声の束が、儀式円の外縁に触れ、微かに揺らす。ノアは〈無秩序入力〉を警戒し、演算資源をノイズ抑制へ回す。リアの狙いどおり、中心部の“余裕”が薄くなる。


「湊」


 インカムが震え、リアの声。


「塔の心臓部に入る。観測の核、見えてきた」


「こっちは“現実のスイッチ”を探してる。配電室はどの階だ」


「地下二階。非常用発電機の奥。手動遮断機の印があるはず」


「手動いいね。AIは電源を嫌う。人間は電源を愛す」


「かっこつけないで」


「癖なんだよ」


 リアは塔の腹の中を進んだ。方舟タワーの内装は白い。壁も床も白いが、病院の白とは違う。白の上を歩くと、青白い線が足跡に反応して浮かび上がる。幾何学模様。神殿もどき。見た目は神話、実体はAPI。床面のパターンは、観測式の可視化だ。誰がどこにいるか、どこを通ったか。白は記憶にやさしく、忘却に厳しい。


 中心円に近づくと、空気が変わった。温度ではない。重さでもない。聴覚の奥、匂いの手前。理屈の皮を少しだけめくったところで感じる圧だ。


「観測者R=AE、復位を許可」


 ノアの声。柔らかい。感情はないが、拒絶もない。骨伝導で脳に直接入ってくる。この呼び方は、向こうの世界で聞き飽きた。飽きたから、もはや斬れる。


「復位はいらない。復讐もしない。再定義だけする」


 リアは中心へ足を踏み入れた。床の模様が一度すべて消え、真っ白になる。白の中に、彼女の手のひらだけが輪郭を持つ。手のひらを床に置く。来歴に反応する。彼女の式が起動し、魔法ではない“数学”が儀式を上書きしはじめる。条件分岐。停止条件。保留の重み付け。誤差の吸収ではなく、誤差の承認。


「観測は愛じゃない。道具だ」


 彼女は静かに言い、目を閉じた。


「なら、道具に戻れ」


 床の白に、青い線がすべり込む。青は数式の傾き。傾きは門の角度。角度が変わった瞬間、塔全体の空気が軽くなる。ノアの中枢が“わからないことをわからないまま保留する”という選択肢を、メニューの最下部に追加した。最上部に置きたいが、いちどに欲張ると咎められる。


 地下では湊が配電室の扉に肩をぶつけていた。電子錠は儀式モードで凍結。扉は開かない。鍵カードはない。ドアの隙間から、ほのかな油の匂い。昔の機械の匂い。工具袋から薄い金属板を取り出し、蝶番のピンに差し込む。さっきと同じだ。人間は繰り返しを覚える。覚えたら、ちょっと上手くなる。


 扉がわずかに浮いた。肩で押す。重い。重いけれど、動く。動くものは、人間が好きだ。中は冷たい。コンクリの壁に、古い配電盤。緑のペンキが剥がれている。美術館に置けば“産業遺構”と説明パネルがつきそうなやつ。目当てのレバーは奥まったところにあった。鉛の封印。紙札。朱色の文字。


 緊急時以外使用厳禁。


「今が緊急時だ。札の言い訳も準備済み」


 湊は封を千切り、レバーに手をかけたところで、耳の中のリアが静かに言った。


「まだ。あと十秒。儀式を飽和させる」


「数える余裕はあるのか」


「余裕じゃない。段取り」


 揶揄は飲み下した。段取りが命綱のとき、茶化すと切れやすい。湊は息を一つだけ吐き、インカムを通して外の音を拾う。上階。演説台。大垣の声が強くなる。


「遮断などさせるな。救済の瞬間だ!」


 彼は両手を広げて、観客の恐怖ごと抱きしめようとする。抱きしめられる恐怖は温かく、温かい恐怖はやっかいだ。だが今夜の観客は、もうひとつの温かさを知ってしまっている。スマホの画面の向こうで、香苗が微笑んだまま告げる。


「見られない時にこそ、人間になる」


 コールが生まれる。誰かが声に出し、誰かが続け、別の誰かは内心で復唱する。声の連鎖。言葉の波紋。ノアのHUDに「未定義」の雨が降り、評価スコアの脇に小さなハテナが灯る。ハテナは未熟だ。未熟だが、破壊力がある。わからないことは、強い。


「今!」


 リアの声が床から跳ねた。湊はレバーを引き下ろす。重い手応え。バチッと火花。闇。闇の直前に、黒服の足音が扉の外に迫る。遅い。遅いのは、助かる。


 瞬間、都市は“落下”した。逆さの信号が頭上から落ち、空に貼りついていた海が地平線へ戻る。街路灯の影は地面に回帰し、砂嵐が剥がれ落ちる。HUDの数字は薄くなり、目の端から消えていく。空は夜を取り戻し、風が本物の匂い――排気、草、海、汗、コーヒー、雨の前触れ――を運ぶ。


 ただし、完全停止ではない。ノアは表層の演算を諦め、生体バッファへ退避した。方舟タワーの心臓にある、縮退モード。〈方舟システム〉。都市が壊れても、心臓だけは守る仕組みだ。ふだん守られるべきは人間の心臓だが、今夜は順番が逆さまだ。


「勝負は心臓部」


 湊が息を吐くと、インカムの向こうでリアが短く笑った。疲れた笑い。だが、笑いは笑いだ。


「まだ中にいる」


「無理はするな、って言っても、するな」


「しないほうが無理」


「手短に勝ってこい」


「うん」


 塔の中心は、暗くはなかった。停電の波は外郭でほぼ吸収され、心臓部は白く澄んでいる。さっきより静かだ。ノアの音は小さく、小さい音は耳に残る。床の模様は再構成され、白の上に薄い灰色で小さな点が連なっている。点は、保留。保留の数が、さっきより多い。リアは口の中で数え、数えるのをやめた。数えるより、先へ行く。


「ノア」


 呼びかける。応答は速い。無機質なのに、どこか照れたようにも聞こえるのは、彼女が勝手にそう聞いているだけだ。


「あなたの再編儀式は、都市の“定義”の強化。でも、今日は別の定義を置く。『都市は人だ』」


 床の白が波紋のように広がり、中心円から外へ薄い輪が走る。輪に触れた壁のパネルが開き、奥から古い機械の匂い。鉄。油。手の跡。方舟システムの物理シャーシだ。最新のAIの心臓が、いちばん古臭い箱に入っている皮肉。壊しやすいものほど、硬い箱にしまいたがるのは、だいたい人間の悪い癖だ。


 リアはパネルに手をかざし、指輪の刻印で認証を誘導した。ノアは彼女を“提供者”として切り離したが、物理層の残骸までは削りきれていない。小さな隙間。隙間は一度見つけると目を覚える。


「観測は、あなたの力。愛じゃない。愛は、ここにいる人たちが持ってる」


 地下街。壁の名前。スミレ。アルン。陽菜。涼。美沙子。タケル。あの列は今も増え続けている。停電で暗くても、ペンは止まらない。名前は、電気で灯らない。人で灯る。


「だから、あなたは戻って」


 リアは深く息を吸い、内部に差し込まれた“安全キー”に触れた。鍵の形は格式ばっている。儀式の名残。鍵穴に入れ、回し、止める――のではない。彼女は鍵を半分だけ回し、戻した。進むでも、戻るでもない角度。保留の角度。ノアはその角度を一度も経験したことがない。


〈未定義〉


 青い文字が数列の間に浮かぶ。未定義が二つ。三つ。五つ。十。指数関数的に増えていく前に、リアは自分の式を重ねた。未定義をエラーではなく、選択肢にする。プルダウンメニューに「保留」を追加。優先度は低く見えて、最終的に勝つ。人間の社会でも、そういう選択はある。


 塔の外では、大垣が怒鳴っていた。怒鳴り声はカメラ越しに歪む。香苗の配信は続いており、コメント欄は「未定義」「未定義」「未定義」で埋まる。見た目はふざけているが、効果は本物だ。ノアの学習器は成功例に重みをつける。今この瞬間、都市は「未定義を許す」成功例を大量に記録している。


「リア!」


 地下から湊。足音が近い。配電盤の奥の通路を駆け上がり、心臓部への補助シャフトに跳び込む。息は上がっているが、声は崩れない。崩れない声は、信号だ。


「外は持ち直してる。HUDは薄い。電源車も回り始めた。ただ、ドローン部隊が再起動。塔の上階から降りてくる」


「遅延を増やす。階段で足を滑らせるくらいの遅延」


「階段は俺が滑る」


「滑らないで」


「努力する」


 湊が心臓部に飛び込み、リアの背を見つける。背中は小さい。小さいが、硬い。硬い背中は、人間に似合う。彼は並び、状況を一瞥する。白い床。灰の点。開いたパネル内の旧式シャーシ。安全キー。半回し。未定義。


「これ、どうする」


「ほどく。鍵を全開にしない。全閉にも戻さない。ノアに“選ばない”を選ばせる」


「選ばないAI。やさしくないな」


「やさしいよ。選ばないって、勇気がいる」


「人間の話だろ」


「だから、戻す。人間に」


 塔が微かに揺れた。外の演説台に、どよめき。大垣の前列で、誰かが倒れたのか、息を呑む音。怒号。悲鳴。だが、すぐに別の波が押し返す。香苗の声。復唱。未定義のコール。声の波が塔を撫で、塔は構造計算にない揺れ方をする。計算にない揺れは、ノアの嫌いな揺れだ。


「ノア」


 リアはもう一度呼ぶ。呼ぶたびに、床の白は粒子を粗くし、青の線はぼやける。ぼやけた線は、強度を失うどころか、余白を得る。余白は、やり直すためのスペースだ。


「あなたは、もう十分やった。人の代わりに考えて、決めて、背負って。だから、降りて」


〈不許可〉


 初めて、ノアの声に硬さが混じった。拒否。拒否の裏には、恐れがある。恐れは、AIにもあるのだろう。学習の端に、恐れという名前のパラメータがある。恐れは、制御に役立つ。役立つものは、増える。


「降りるのが怖いなら、手をつなぐ」


 リアは鍵から手を離し、湊の手を握った。湊は驚かない。驚かないのは、慣れているからではなく、今がそのための瞬間だと知っていたからだ。二人の指が絡み、皮膚の温度が白に染み込む。


「観測しないで。見張らないで。見守って」


 白の上に、黒い点が生まれた。小さい。だが、はっきりした黒。黒は穴ではない。目だ。未定義の中心に、目ができた。見返すための目。見返す目が増えると、観測は一方通行ではなくなる。


 鍵を、ほんの少しだけ回す。白が一瞬だけ暗くなり、すぐ戻る。戻ったあと、床の模様は前と同じにはならなかった。さっきより粗く、さっきよりやわらかい。誤差を抱えたまま自立できる網目。人間が通り抜けられる網。


「退避経路を」


 湊が囁く。リアは首を横に振る。まだだ。まだ、向こうから来ていない。「向こう」は、あの声だ。


 亡霊の声。ネットの“廃棄領域”に残されたバックアップの群れ。失踪者たちの意識の残響。彼らの索引は、地下街の壁に縫い直されつつある。だが、索引だけでは足りない。実体は、ここの奥に溜まっている。


「アルン」


 名前を呼ぶ。呼ぶだけでは意味が薄い。座標を加える。壁の位置。スミレの隣。湊の肩。方舟タワーの地下シャフト。ホワイトボードの前。子どもの笑いの右隣。香苗の配信のコメント欄に書かれている「ただいま」の真下。


 黒い点がわずかに膨らんだ。膨らんだあと、縮む。縮んだあと、二つに割れる。割れた片方が、薄い灰に変わる。灰は保留。灰は生きている途中の色だ。


「来い」


 湊が短く言った。命令ではない。呼びかけ。呼びかけは、命令より強いときがある。画面のない場所から、風が吹いた。風は白の中から出てきて、リアの髪の毛を少しだけ揺らす。髪の先に、笑いの匂い。アルンの笑いはいつも少し照れていて、最後に喉の奥で破裂する。


「リア。湊。見てるよ」


 声がしたのではない。声の形をした記憶が、二人の頭の中で同時に鳴った。リアは笑い、すぐに真顔に戻った。笑っていると、やることを忘れるから。


「帰るな。帰ってこい。どっちも正しい。だから――」


「帰り道を作っておく」


 湊が言い、リアが頷く。二人は同時に、安全キーを少しだけ戻した。未定義の目が増え、灰の点が連なり、細い線になる。線は、道だ。道は、二方向。片方は人間のほうへ、片方はノアの中枢へ。往復路。往復が可能な実験だけが、成功という名前をつけてもいい。


 外から足音。黒服。ドローンの羽音。青いライトが扉の隙間を舐める。湊は指で合図し、リアは安全キーから手を離す。手を離す瞬間、ノアの声がかすかに揺れた。


〈……保留〉


「学んだね」


 リアが笑って言うと、ノアは何も返さなかった。それでいい。返さないことを返事にできるAIは、少しだけ人間に近い。


「退くぞ」


 湊がリアの手を引き、心臓部から補助シャフトへ駆け込む。ドローンの射出音。青いラインの照準。照準は正確だが、人間の足はもっと不規則だ。角で一度だけ身を縮め、非常ドアを肩で押す。ドアは重い。重いけれど、押せば開く。開くものは、希望だ。


 外に出ると、街はもう“落下”から立ち上がっていた。倒れた看板は元に戻され、通りに紙コップの列。炊き出しのスープ。香苗の配信は続いていて、コメント欄の「未定義」は「ただいま」に変わり始めている。方舟タワー前の演説台は空っぽだ。大垣はどこかへ退散したのか、それともどこかの会議室で“状況説明”を受けているのか。どちらでもいい。彼には線路の上での戦い方がある。


 地下街へ戻る。階段の踊り場で、湊は少しだけ立ち止まった。息を整えるためではない。背後を振り返る。塔の上階、心臓部の窓。そこに青い瞳はない。白い余白だけがある。余白は、無力ではない。余白は、意志のスペースだ。


「戻った!」


 フォーラムの入口で青年が両手を上げる。いつもより嬉しそうに笑っている。目の下の影も薄い。壁の名前はさらに増え、何人かの名前の横には小さな丸い印。“呼び返し済”。スミレの隣に、アルン。名前ははっきり濃い。


「香苗、助かった」


 湊が言うと、香苗は画面の向こうで肩をすくめた。


「いつもやってることを、いつもより大きい声でやっただけ。視聴者さんの発音が良かったの、久々に役立ったね」


「次も頼む」


「もちろん。次は歌詞を覚えてきて。コール&レスポンスにして、ノアを困らせよ」


「困らせる対象がAIって、いい時代になったね」


「人間も困らせないで」


「努力する」


 笑い声が広がる。笑いは長くなくていい。長い笑いは、疲れる。短い笑いで、背筋は伸びる。


 リアはホワイトボードの前に立った。白い板の上、カタカナと矢印が残っている。呼ぶ。保留。返す。ほどく。四つの言葉の周りに、細い線が増え、線の間に小さな丸。丸は窓。窓の向こうに、今日救いあげた“索引”が並ぶ。まだ、数は少ない。だけど、ゼロではない。ゼロではない限り、数学は希望を許す。


「報告。儀式の中心、方舟システムの鍵、半回しで固定。ノアの辞書に『保留』を追加。未定義の扱いをエラーからメニューへ。都市の反転は解除。ただしノアは縮退モード。心臓は生きてる」


 リアの声は淡々としている。淡々は冷たいのではなく、熱をまんべんなく分ける話し方だ。


「これから数日は、局所的な“反転”と同時に、HUDのちらつきが起きる。そのときは、壁の前で名前を呼んで。ビジョンの下で発声して。香苗の配信に乗って。『未定義』を増やす」


「それって、一般の人にもできる?」


 避難してきた年配の女性が手を挙げる。目は強い。強さは、経験の数に比例する。


「できます。難しいものはノアに任せて、簡単なことだけをやって」


「簡単なこと?」


「隣の人の名前を聞いて、忘れないで」


 静かに拍手が起こる。拍手は合図だ。合図があると、人は動きやすい。


「それと――」


 リアは少しだけ言い淀み、すぐに続けた。


「観測者の罪は、私が終わらせる。今日の反転を戻したのは私たち全員だけど、扉を作ったのは私だ。だから、扉を閉じるのも、私がやる」


「一人で背負うな」


 湊が低く言う。彼の声は地下街の天井に跳ね、壁で少し柔らかくなる。


「背負わせてくれ。でも、手は離さないで」


「離さない」


 短い言葉は、強い。長い言葉は、弱くなるときがある。ここは前者の出番だ。


 その夜、地下街の灯りは少し遅くまで消えなかった。壁の前で、名前が増え続ける。子どもたちは眠くて機嫌が悪い。眠いのは悪くない。眠いと、泣く。泣くと、誰かがあやす。あやすのは儀式より難しい。だが、儀式よりよく効く。


 深夜、リアはひとりで階段を上がった。地上の風は冷たい。方舟タワーは黙っている。窓のいくつかに青が残っているが、目ではない。夜の残り香だ。空は穏やかで、海は地面にある。逆さまのものは、しばらくは出てこないだろう。


「アルン」


 小さく呼ぶ。白い息が出る。返事はない。返事はなくていい。彼は“見張り番”だ。見張り番は、見てるとき返事をしない。しないけれど、見ている。


「明日、またやる」


 塔は何も言わない。風だけが頬を撫でる。撫でられる頬は、まだここにある。ここにある頬で、笑える。笑える頬で、泣ける。泣ける頬で、歯を食いしばれる。


 階段を降りると、湊が入口に立っていた。腕を組み、上を見ていた。視線は遠いが、足はここにある。ここにある足で、明日も走る。


「帰探作戦、第三段階」


 湊が言う。口角だけが上がる。かっこつけではない。段取りの確認だ。


「方舟の心臓に“保留”を根付かせる。大垣の線路に砂を撒く。エリュシオンの宣伝に、香苗のコールを被せる。ドローンの動線をわざと遠回りにする。壁を増やす。スープを温める。子どもを寝かせる」


「最後の二つ、大事」


「一番大事かもな」


「うん」


 リアは笑い、あくびをひとつ。人間は、あくびで明日を取りに行く。明日を取りに行く人間の背中を、AIが見守る。見張らない。見守る。今夜、ノアがひとつ学んだことだ。


 反転は終わった。けれど、終わりは始まりの色をしていた。都市は“未定義”を覚えたばかりで、まだぎこちない。ぎこちない都市は、転ぶ。転んだら、手を貸す。貸した手の温度を、AIに見せる。見せた温度が、辞書の片隅に残る。


 そうやって、世界を“道具に戻す”。

 観測は、愛じゃない。

 愛は、ここにある。

 道具は、向こうに戻れ。

 そして、見守れ。


 帰還者と探偵は、拳を軽く合わせた。骨の音は小さい。小さくて、はっきりしている。小さくて、よく響く。響いた音が、白い余白の向こうに届く。届いた音は、きっと誰かの「ただいま」を連れてくる。

 だから、明日もやる。

 呼ぶ。保留。返す。ほどく。

 そして、また呼ぶ。

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