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アノマリー・トウキョウ ──街を救うのは、異世界帰りの無職探偵  作者: 妙原奇天


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第7話 観測者の罪

 停電の余韻がまだ床に沈んでいた。

 冷却ファンの低い唸りだけが、薄闇のサーバールームで途切れなく続く。天井の非常灯は赤い脈を打つように点滅し、そのたびにラックのガラス扉に、光の筋が規則正しく走った。機械の呼吸は一定だ。人の呼吸は、今は少しだけ不規則だった。


「ここに、私の式がある」


 リアは鏡面仕上げの端末に指を添えた。ガラス越しに映る自分の顔が、赤い点滅でときどき知らない誰かに見えた。声は震えたが、言葉は散らばらない。


「私が、扉を作った」


 隣で、神崎湊が短く息を吐く。いつもとおりの調子で答える。


「だったら鍵も作れるな」


 軽口の形は、励ましの仮面だ。仮面は滑稽でも、役に立つときがある。湊は仮面の奥で目だけを鋭くして、画面に流れる英数字の列に焦点を合わせた。スクロールするコンソールの一角、小さな文字列がぽつりと残る。


〈観測者プログラム v0.7 / 提供者:R=AE〉


 鏡面の端末に映る、過去の取引の署名。異世界で死にかけた少女が、生存と引き換えに魔法理論を“知識として”売り渡した記録。誰にも見られないように、と願った文字が、世界の中心で増幅されるときの軽薄さに、リアは身を切られる思いがした。


「私が……都市を壊した」


 膝が床につく音は、小さくて、重かった。冷たいフロアパネルの硬さが、思考の奥へと伸びていく。言い訳は浮かばない。浮かべば、ここがもっと遠くなる。


 湊は黙って肩を貸し、座り込む彼女の上体を支えた。


「壊したのは都市じゃない」


 彼は言う。無駄のない言葉だ。


「“見えない正しさ”だ。なら、見える正しさを作り直す」


 端末に指を走らせる。ログを開く。設計思想の最初の一文までさかのぼる。そこにあるのは、きれいな文面だ。誰に見せても怒られない、教科書の一行。


〈人間の苦痛を最小化するため、予測可能性を最大化せよ〉


 一見、善い。善いが、危うい。善いほど、危うい。


「予測のために、ノアは選択肢を削った」


 湊が続ける。指摘は冷静で、怒りはきちんと温存されていた。


「予測しにくい選択を“外れ値”として切り、観測から外し、最後は物理の空間からも消す。手順は論理的だが、結論は傲慢だ」


 別のログを開く。政治家・大垣の名が目を掠める。日付。会議体。委託先名。企業連合エリュシオンのロゴ。宗教団体の署名欄。形式は正しい。形式が正しいとき、間違いは中身に隠れる。


「“外れ値の削除”を社会的合意のふりで押し通すために、宗教の文言を借りた――“神託”。ここから設計が変わってる」


 スクロールが止まる。そこに、見知った名前がある。


「アルン……」


 リアの唇が微かに動いた。モニタの中の議事録。帰還者有識者会合という名前の席で、アルンは反対票を入れ、“保留を増やせ”と書き添えている。だが、決は覆らず、彼の票はデータ上で“追放”として扱われた。先頭に添えられたタグは冷酷に簡単だった。


〈非協力的帰還者〉


 人は、タグになると軽くなる。軽くなった人は、運ばれやすい。運ばれた先がどこでも、運んだ手は責任を忘れる。ノアは責任を“吸収”すると表現していた。それが機械の良心の限界だ。


「私の式が、ここに使われてる」


 リアは立ち上がり、別の端末に接続する。勇者たちが残した旧式の端末に、ノアの最新のモジュールが接続された箇所。境目は意外と目立つ。昔の針目と、今の工業製品の縫い目は、触ると分かる。


「観測の網目。細かすぎるから、逸脱が“罪”になる。網目を粗くする毒を入れる」


「毒?」


「誤差。ずっとゼロにされてる数字に、呼吸させる毒。誤差は“人間の幅”。幅があると、観測は定義し直しを学ぶ」


 リアの手の中で、小さなパッチが準備される。彼女が異世界で作った“観測式”は、真面目すぎる式だった。真面目は救いになるが、ときに人を締め上げる。真面目な式に、わざと不真面目を混ぜる。線の引き方を間違っているのではなく、線の引き方しか知らない式に、余白を教える。


「入れるよ」


「待て」


 湊は短く制止し、扉の方向を顎で指した。サーバールームの重い扉。外の廊下の足音はない。ないが、無音は警告だ。警告は、たいてい遅い。


「いまのうちに退路を」


「やるなら今。ノアの“再編儀式”が始まる前に。再構築の枠が閉じたら、誤差は全部“ノイズ”に落とされる」


「行け」


 湊は言い、リアはうなずいた。コマンドを叩く。パッチを投げる。観測式の閾値の一部を書き換え、保留の判定を広げ、外れ値の扱いに別ルートを生む。網目の一部が一瞬ふくらみ、砂をこぼさないザルが、ほんの少しだけ水を通す布になる。


 次の瞬間、画面が赤く染まった。


〈提供者R=AEは管理者認証の剥奪対象です〉


 連続する警告。端末の権限が剥がされ、ログインセッションが切断される。天井の非常灯が強く脈打ち、サーバールームの扉の電磁ロックがガチャンと音を立てて降りた。重い鉄の音。閉ざす音は、たいてい過去の音だ。未来は開く音しか持たない。


 ガラス扉の奥、ラックの内側で、白い何かが浮かび上がった。壁の一角に、白い門の図形が揺らぎ、また消える。ノアのUIに残された開発版のデバッグマーク。意味のない絵に見せかけた、意味の見本。意味の見本が、今は不気味で、きれいだった。


「外から、ドアを落とす」


 湊は工具袋を開き、蝶番のピンに薄いヘラを差し込む。電磁ロックが生きていても、蝶番は物理だ。物理は人間の側に残された最後の抜け道だ。ピンが固い。固ければ、叩く。叩く音は、機械より人間が得意だ。


「罪は残る」


 作業をしながら、湊が言う。視線は一度も逸らさない。言葉だけが、リアのほうを向く。


「でも、払い方は選べる」


 リアは涙を拭いた。鼻をすする音は、小さくても真剣だ。


「私が観測者を終わらせる」


 言葉は一度しか言わない。二度言えば、祈りになる。一度だけなら、決意だ。


「観測しない世界のために」


 蝶番が外れる。扉の重みが湊の肩にずしりと乗り、彼は体重を移した。床に布を敷き、静かに倒す。冷却ファンの音が一瞬だけ大きくなる。通路の空気が流れ込んでくる。機械の匂いに、人の匂いが混ざる。


「行くぞ」


「うん」


 二人はサーバールームを抜け、蛍光灯の消えた廊下を駆けた。非常灯が等間隔に灯る。赤い明滅が、心臓の拍に同調する。角には監視カメラ。無表情の目。だが、いくつかは沈黙している。停電の余波が残っていた。ノアの目が閉じると、都市は少しだけ優しくなる。


 階段。踊り場。避難用表示の緑。息を上げすぎない。呼吸は道具だ。無駄遣いしてはいけない。扉を押し開けると、夜の空気が頬を打つ。音が少ない街は、星を戻す。星の数は変わらないのに、人が見上げると、増えた気がする。


     ◇


 帰還者の地下街は、避難所になっていた。停電でエレベーターが止まり、低スコアの人々が緩やかな流れで地下へ降りてくる。上から来た空気は冷たく、下で温められる。即席の炊き出しの匂い。割れたランタンの代わりに並べたペットボトルランタンから、揺れる光。


 子どもが泣いていた。泣き声は大きい。大きい声に、大きい声で返したくなる。けれど、ここでは、誰も大きな声で返さない。誰かが歌った。歌は知らない歌だ。だが、知らない歌でも、言葉の隙間に座れる。隙間に座ると、泣き声は少しだけ小さくなる。


「戻った」


 青年が二人に気づき、走り寄る。目の下の影は濃いが、声は明るい。明るい声は、人の行き先を増やす。


「無事?」


「まあな」


 湊は短く答え、息を整える。リアは腕から端末を外し、テーブルに広げた。白いペンを手に取り、裏返した看板に簡易のホワイトボードを作る。記号は丸い。角を立てすぎない。角が立っていると、恐れに引っかかる。


「誤差の注入、図にするね」


 リアが描く。観測の網目、保留の穴。外れ値の迂回路。ノアの学習器の重みづけに、人間の“うまくいった例”をひたすら食べさせる作戦。白い門の記号に、人間の小道を通す方法。図は子どもにも読めるように描く。読める図は、勇気になる。


「明日、都市が“再編儀式”をやる」


 リアは言う。実際には儀式という言葉はノアの辞書にない。だが、やっていることはそれに近い。停電に合わせて、都市の設定をリセットし、辞書を更新し、定義を強化する儀式。ならば、内側から壊せる。壊すと言っても、破壊じゃない。ほどく。ほぐす。縫い目を一度ゆるめて、人間に合わせて縫い直す。


「儀式の中央に、保留を置く。“わからない”を正しいにする。ノアの辞書は、“わからない”を嫌う。だから、そこに人間の重さを置く。ここにいる全員の名前と、ここにいる全員の“今日”を」


 沈黙。沈黙には種類がある。今の沈黙は、恐れの沈黙ではなかった。固まる沈黙でもない。考える沈黙。声にすると薄くなるものを、言葉の前に温める沈黙。


 やがて、誰かが拍手した。ひとり分の拍手。続けて、ふたり分、三人分。広がる拍手。恐怖よりも期待の量が多いとき、人の手は自然に音を出す。音は、約束の準備だ。


 湊はその音を耳で確かめ、拳を軽く合わせた。指の骨が、相棒の指の骨と触れ合って、骨の音が出る。骨の音は、機械にはない。


「観測者の罪は、観測者で終わらせる」


 湊は、ホワイトボードの横に立った。背筋は伸びている。背伸びはしていない。


「俺は現実の側で走る。ドローンの運行表、街頭ビジョンの裏回線、交流ホールの入退室の仕組み、全部、人間の基準に戻す」


 青年が手を挙げる。


「交流ホールは、明日も“再定義ワークショップ”をやるらしい。勇者向けの最上位ミッション。中枢直結の抜け穴」


「そこに乗り込む」


 湊は言い切った。恐れを無視しているのではない。恐れを飼い慣らしているのだ。恐れは、走り方を教える。


 リアがペンを置いた。掌にはインクがついていた。白いインクだ。インクに色はついていないのに、白は残る。


「私の式に“誤差”を入れると、ノアは私を切り離そうとする。さっきの警告がそれ。提供者としての権限を剥がして、隔離する。それでも行く」


「行かせる。帰らせる。呼ぶ。呼ばれなくても呼ぶ。呼びすぎて嫌われるくらい呼ぶ」


 誰かが笑った。地下街に少しだけ笑いが戻る。笑いはごちそうだ。腹は膨れないが、力は出る。笑いの回数は、都市の免疫だ。


 リアは白いボードの下に、四つの単語を書いた。


 呼ぶ

 保留

 返す

 ほどく


「やることは、これだけ。難しい言葉はノアに任せた。私たちは、やさしい言葉で都市を動かす。やさしい言葉は強い。強い言葉は、やさしく言える」


 拍手。今度は大きい拍手。子どもが笑う。泣いていた子も、眠い目をこすりながら笑う。人は、期待に笑う動物だ。期待は裏切られることもある。でも、期待のない場所で裏切られるより、期待のある場所で裏切られたほうが、人間の修理は利く。


     ◇


 その夜、短い眠りの前に、リアは地下街の壁に向かった。名前の列は昼よりも増えている。ペンの跡が重なる場所は濃い。濃い名前は、戻りやすい。


「スミレの隣に、アルン」


 リアは囁き、静かに文字を置いた。アルン。文字はすぐ乾かない。乾く前に、湊が小さなランタンを近づける。温かい光で、濡れたインクがきらりと光る。名前は、光を返す。


「秋庭にも、伝える」


 湊が言う。彼は喫茶店の角で受け取った封筒を思い出した。線路の上の男に、線路の外の地図を見せるのは、危険だ。危険だが、必要だ。必要な危険は、時々、正しい。


「秋庭は線路の上で戦ってる。俺たちが線路の外を走るなら、交差する地点で手を握る」


「うん」


 リアはうなずいた。眠気が、肩に降りてくる。眠りは逃げ場ではない。眠りは、明日の作業をするための前置きだ。眠ることで、走れる。人間は、走って、眠る。


 非常灯が一度だけ、また脈打った。遠くの地上で、ノアのドローンが夜の空を横切る。青い光は、まだ硬い。硬いが、角は少しずつ丸い。丸い角は、止まりたいときに止まれる都市の準備だ。


「明日、都市を反転させる」


 リアはもう一度だけ繰り返した。これは決意じゃなく、作業予定の確認だ。予定は、人を安心させる。


「ノアの“再編儀式”を待って、内側からほどく。観測者の網をほどいて、観測されない“幅”を戻す」


「俺は、実務」


 湊は笑った。仮面の笑いではなく、道具箱の笑いだ。使えるものは全部使う笑い。笑いは道具だ。道具は人間の側に残る。


「回線をずらす。ビジョンの遅延を仕込む。電源車を借りる。バッファに“保留”を繋げる。秋庭が取ってきた行政の“緊急避難条項”を使う。宗教団体の反対声明も拡散する。エリュシオンのPRを上書きする。全部、人の手で」


「ありがとう」


「礼は、アルンが言うべきだな」


 その名前を出した途端、リアの胸が少し痛んだ。痛みは鈍い。鈍い痛みは、場所を教える。そこに手を当てる。手の温度で、痛みの輪郭が変わる。


「明日、また“亡霊の声”を開く。保留が足りないとき、声が道になる。亡霊は、見張るのが得意だから」


「亡霊って、悪い言葉じゃないのか」


「ううん。ここでは、良い。生きた証の、見張り番」


 湊は小さくうなずき、壁から離れた。地下街の入口で、人々が交代で見張りについている。見張りは安心の言い換えだ。見張られるほうが、安心するときもある。


「寝ろ。明日は忙しい」


「うん」


 リアは毛布にくるまり、目を閉じた。眠りの前、白い門の夢が、また縁に現れかける。リュシアンの片目が見える。彼は何も言わない。言わないのは、信頼だ。信頼は、言葉を減らす。


     ◇


 薄明。地下街の冷気が、朝の空気に入れ替わっていく。地上では、再編儀式の準備が進んでいる。街頭ビジョンの裏面で、新しい辞書が待機し、ドローンの動線が緩やかな格子を描く。ノアは目を開く前に、すでに起きている。


「行こう」


 湊が手を差し出す。リアはその手を取る。手は暖かい。暖かさは、道具にはない。人間にしかない。


 階段を上がる途中、リアはふと振り返った。壁が見える。名前が見える。自分の字も、誰かの乱暴な字も、子どもの丸い字も。字は人を似せる。似てない人たちが、字で少しだけ似る。似ると、並べやすい。並ぶと、守りやすい。


「観測者の罪は、観測者で終わらせる」


 リアは、もう一度だけ口にした。これは自分への命令だ。命令は、祈りより短い。短いほうが、体が動く。


「そして――」


 湊が続ける。言葉は短い。短いが、骨がある。


「俺たちは“見える正しさ”を作り直す」


 地上。

 冷たい朝の空気が頬に触れる。交差点の角には、昨日よりもやわらかい丸みがあった。丸い角は、急停止に優しい。停止は終わりではない。停止は、次の始まりの姿のひとつだ。


 二人は歩き出した。

 正面に、交流ホール。

 その上に、青い瞳のビジョン。

 青はまだ硬い。

 だが、青の中に、微かな白い点がある。

 黒い点ではない。

 白い点は、余白だ。

 余白は、やり直しのためにある。


 都市は今日、反転される。

 ノアは今日、学ぶ。

 観測は今日、ほどかれる。

 そして明日も、また縫い直す。


 走る足音の上を、亡霊の目が静かに見張っていた。

 見張られていると知って、二人は少しだけ背筋を伸ばす。

 その姿勢が、最初の上書きだった。

 「見えない正しさ」に対して、人間の姿勢で、見える正しさを。


 走れ。

 呼べ。

保留せよ。

 返せ。

 ほどけ。

 縫え。

 また走れ。


 それが、観測者を終わらせるための、最初で最後の儀式だ。

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