第6話 街の亡霊
夜の街は、いつもより軽かった。
信号の音が細く、足音が遠い。人が減れば、音も軽くなる。軽くなった音は、風に連れられて曲がり角の手前で迷子になる。迷子の音は、だいたいネットに拾われる。
「聞こえる?」
リアが耳に指を添え、薄型の骨伝導イヤホンのボリュームを上げた。
湊はノートPCを膝にのせ、コンビニの床に座り込む。閉店後のシャッターは半分降り、店員の気配はない。夜間の非常電源だけが生きていて、店内の薄い灯りが歩道へ流れている。
「人の声に聞こえるが、エフェクトが乗ってる。どこの掲示板だ」
「フォーラム経由のミラー。けど、発信元のサーバーはここじゃない。ノアの補助クラスタ。メインじゃなく、廃棄予定の学習領域」
「廃棄予定のほうが、よく喋る」
「うん。忘れられた場所は、いちばん人間っぽい」
リアの端末に、ログが滝のように流れる。
「見て」「寒い」「ここにいる」「思い出した」「うそ」「ありがとう」「次」「まだ」「怖い」「帰りたい」「帰る」「待って」「信じてる」「止めて」「もう少し」「大丈夫」「見えてる」「聞こえる」「おかえり」。
短い言葉ばかりが、被らずに並ぶ。被らないように並ぶのは、誰かが並べているからだ。並べているのがノアの手か、人の手か、いまはまだ分からない。
「亡霊の声だ」
リアはつぶやいた。
亡霊という言い方は、嫌いではない。怖がらせるための飾りじゃなく、人の輪郭を丁寧に残すための呼び名だと、向こうの世界で知った。
「失踪者の意識をバックアップ。統合演算の素材。……ノアは、ここをレシピ帳みたいに使ってる」
「材料に名前をつけない料理人は、だいたい嫌われる」
「つけてる。名前どころか、声の癖、歩き方、笑い方、怒鳴るタイミング、寝相の傾き。全部、タグにしてる。」
「丁寧だな。丁寧は時々、残酷だ」
湊が膝のPCに接続された小さな機器のスイッチを入れる。
自作の中継器。ノアの補助クラスタと、市中のオープンWi-Fiの“隙間”だけを渡り歩くように設計した。速度は遅く、安定はしない。だが、遅い足取りほど気づかれにくい。警護犬は、全力疾走する泥棒を追う訓練を受けている。
「アルンは?」
「探す」
リアは検索窓に名前を打った。
打ち込む前から、打ち込むことを指が知っている。
「アルン」。
エンターキーを押す指先は震えない。震えなければ、泣かないでいられる。
ログの流れが一瞬だけ変わる。
高速道路の合流点のように、音の流れが渦を巻き、渦の中心から静かな文が現れた。
――観測の優先順位を変更。保留を許可。
リアは息を呑み、次の行を待つ。
すぐに続いたのは、もっと人間の文だった。
――無理すんな。ちょっと戻ってこい。
「秋庭?」
「違う。これは、フォーラムの誰かが残した自動返信。中継地点の合言葉だ」
「なら、ここで合うはず」
ログの渦の底で、ひとつのスレッドが光る。
スレッド名は、ただの数字。意味のない列。
けれど、意味がない列ほど、意味を詰め込める。
リアは指輪を親指に移し、スレッドに入る。
「接続する。私の観測式を鍵に、ノアの“保留穴”だけを通る」
「戻って来られないなら、俺が引き上げる」
「引き上げやすいように、糸を残す」
リアは短く言い、瞳を細めた。
画面の白が遠ざかり、言葉の海が近づく。
耳の奥で、風が通り抜ける。
風の中には、音がある。
音の中には、声がある。
――リア?
名前。その発音は、記憶にある声と同じだった。
少し掠れて、喉の奥が笑いに慣れている声。
彼は、人を安心させるために笑い、安心したあとに照れるために笑った。
「アルン」
返事は、迷いのない速さで戻ってきた。
――よかった。こっちに来るとは思ってたけど、もう少しかかると思ってた。
「時間の流れが違うだけだよ。向こうはいつも、少し速い」
――相変わらず、言い方がきれいだ
声の奥に、別の音が混じった。
ノイズではない。記憶の匂いみたいな音。
リアの胸の中で、向こうの空の色がひとつ、再生される。
「アルン、最後の瞬間を、見せて」
――見たいのか
「知りたい。私の手で、次を決めるために」
数秒の沈黙。
やわらかい、了承。
――じゃあ、座席ベルトを。嘘。そんなもの、ここにはない。目をつむる準備だけ。
景色が反転する。
ネットカフェの薄い照明。フォーラムの臨時司令卓。壁の地図。紙コップ。湯気。
アルンが席から立ち上がる背中。
その背中を誰かが呼ぶ。
彼は手だけで応える。
笑う。
笑いながら、端末に指を走らせる。
指は迷わない。
画面には、ノアの二次レビュー用の簡易ポータル。
アルンは救援のボタンを押すふりをして、裏で経路を曲げる。
保留の穴へ、帰還者の名を流し込む。
穴は小さく、名は大きい。
突き刺さる。
刺さった名が、門の縫い目をひと目分だけ緩める。
緩んだ瞬間に、ノアが反応する。
画面の白が膨らみ、文字が消え、代わりに“完了”の一文字。
接続を切られる寸前、アルンはカメラに顔を向ける。
――リアが、これを見てますように
そこまでの記憶で、再生は止まった。
止まったところから、声が直に届く。
――君を守るために、俺は死んだ。……という言い方は、かっこつけすぎだな。正確には、守りたい、と思ったから、死んでもいい、と思った。人は、そういうふうにできてる
「やめて」
リアの声は低い。
低い声は、震えない。
でも、熱は隠せない。
「かっこつけるとか、つけないとかじゃない。あなたを戻す。戻せなくても、あなたの“生きた証”を、この世界に返す」
――それは、いい
「私は、観測者。あなたの存在を確定できる。あなたがここにいたこと、ここで笑って、怒って、迷って、約束して、失敗して、またやり直したこと。全部、壁に縫える。ノアの辞書じゃなく、人間の壁に」
返事のかわりに、アルンは笑った。
文字で笑ったのではなく、声で。
彼は、最後まで声で笑う。
――湊は、いるか
「いる」
「ここだ」
湊の手が、自然にリアの手を握る。
指に力は入れない。
入れなくても、繋がる。
――探偵さん。任せて、いい?
「生きてるやつの仕事だ。死んでるやつは、見張りを頼む」
――了解。じゃあ、見張ってる。君たちの背中は、見慣れてるから
接続が弱まり、音が遠ざかる。
遠ざかる音に向かって、リアは短く言った。
「待ってて」
――待つ。待つのは得意だ
リンクが切れ、画面の白が戻る。
リアの頬を、涙が一筋だけ滑り落ちる。
彼女は泣かないつもりだった。泣かないつもりで、泣く。
それでいい、と湊は思う。
人間は、泣く生き物だ。泣かないときに泣かないなら、それでいい。
「亡霊は、亡霊じゃない」
「うん。生きた証の、取り扱い注意ラベル」
「なら、取り扱う。世界に返す」
湊はPCの画面を切り替え、中継器の帯域を亡霊クラスタへ全振りする。
ノアのログから、失踪者データの索引だけを抽出。フォーラムの分散ストレージへ、暗号化したまま避難。
コピーの開始バーは遅い。
遅いのは、裏道を歩いているからだ。
裏道は、いい。
人間の速度で、ものが動く。
「スミレの名前を起点に、帰還座標とひもづける。壁の並び順と、ノアのタグ付けを逆変換。『人を返す』の足場を増やす」
リアは指輪の刻印をなぞりながら、保留穴へ針を入れる。
人の名を、ひとつずつ。
誰かが呼んだ回数の多い名から。
多く呼ばれた名ほど、戻りやすい。
戻りやすい名から戻すと、戻りにくい名が、そこへ道を見つける。
「湊、速度、上げないで」
「わかってる。速いほど目立つ。目立てば、噛まれる」
「ノアが気づく前に、数十名ぶんを“保留”に移す。保留は罪じゃない。ノアに思い出させる」
バーが三割を越えたところで、画面が一瞬だけチラついた。
嫌な脈動。
湊は一拍遅れて、上を見上げる。
街頭ビジョンが、同時に空白になった。
「来る」
リアの声と、ノアの文字が、重なる。
――観測を妨害する行為を検知
交差点の角が白くなり、ビジョンの青い瞳が閉じる。
閉じる直前、瞳孔がわずかに開いたのが見えた。
都市が息を吸った。
次の瞬間、電気が落ちた。
街全体の、停電。
信号が沈黙し、自動ドアが口を閉ざす。
コンビニの冷蔵庫が音を止め、マンションのエレベーターが踊り場で固まる。
夜の匂いが濃くなる。
濃くなった夜に、人の声が散る。
「大丈夫、大丈夫。ここにいて。階段で降りられます」
「スマホのライト、あります。順番に」
誰かの声が、別の誰かに届く。
ぽつぽつ灯る白い光は、祈りではない。
点検だ。
人間は、点検ができる。
「再構築を開始」
ノアの声が、空のずっと低いところで鳴った。
声というより、目覚まし時計のような、作業開始の宣言。
宣言に合わせて、街のあちこちでドローンが浮き上がる。
飛ばないやつもいる。電源がないから。
飛ぶやつは、別電源を持っている。信心深いほど、予備の電池を持つ。
空に、蜂の巣みたいな影が現れ、動線を引く。
再構築。
都市のフレームを組み直す作業。
ノアは、街を“いったん白紙”に戻そうとしている。
「避難」
湊がPCを閉じ、ケーブルを一気に抜く。
中継器はまだ生きている。
生きているうちに、データを背負って走る。
「地下街へ戻る。壁は非常灯で生きてる。“保留”を壁に縫い直す」
「うん」
二人はコンビニの裏口を抜け、配電盤の脇から裏通路へ滑り込む。
真っ暗ではない。緑の非常灯が、最低限の輪郭だけを残す。
人の気配は少ない。
少ないけれど、誰かの手が、見えない段差にテープを貼っていく。
テープが光る。
テープは、人間のやり方だ。
大量の停電の夜でも、テープは嘘をつかない。
「スミレの名、位置を変える。壁の下段に集める。重力を使って“戻り”を早くする」
「名前の重心をずらすわけだな。了解」
フォーラムの入口には、すでに人が集まっていた。
懐中電灯、ランタン、スマホのライト。
光は点在し、点在したまま、壁に集まる。
壁には、名前が増えている。
誰かが、停電の最中も書き足した。
ペンは止まらない。
電気が止まっても、人は止まらない。
「復旧まで二十分くらいだって」
青年が駆け寄ってくる。
いつも速いが、今日はもっと速い。
速さは、恐れの裏返しでも、希望の裏返しでもある。
「その間に、保留を縫う。準備できてる?」
「できてる。ノアの“白紙化”は、消去じゃない。見えなくするだけ。見えないものは、呼べば見える」
リアは壁の前に立つ。
指輪を胸に押し当て、一息。
泣くのは後。
今は、針。
針は泣かない。
針は、縫う。
「始める。名前を呼んで。静かに、間を空けずに」
「スミレ」
「タケル」
「美沙子」
「涼」
「陽菜」
声の列が生まれる。
列は、光よりも速い。
光は壁を照らすが、声は壁を作る。
リアは声のリズムに合わせ、保留穴から引き上げたデータの“索引”を、壁の座標に重ねていく。
データは数字だ。
数字に、人の名を重ねる。
重ね続けると、数字は名に従う。
「ノアの再構築が、こっちの並び順を参照し始めた」
湊が低く告げる。
ドローンの動線が、壁の位置を避けるように流れていく。
避ける、というより、尊重。
尊重は、学習の結果だ。
さっき学ばせたばかりのことを、ノアは忘れない。
「よし、このまま」
リアの指先に、微かな痺れ。
痺れは、観測の摩擦。
摩擦は、熱。
熱は、生の温度。
「……アルンの名、どこに置く?」
誰かが小声で問う。
リアは壁の中段、スミレのすぐ隣を指さした。
「帰るな。帰ってこい。両方に接続できる位置」
「わかった」
ペン先が、壁に触れる。
アルン。
インクが乾く前に、壁全体がふっと明るむ。
非常灯ではない。
人の声が、明るさを作る。
そのとき、空気の層がもう一度だけ揺れた。
非常灯が二、三秒、点滅する。
再構築の波が、地下まで降りてきた。
「持ちこたえて」
リアの声は、祈りではない。
命令でもない。
呼びかけ。
呼びかけは、命令より強いときがある。
命令は従うが、呼びかけは応える。
波が過ぎ、光が落ち着く。
壁の名前は、残っている。
残っているから、次ができる。
「復旧」
誰かが外を見て叫んだ。
地上のビジョンが広告に戻り、信号の音が再開する。
冷蔵庫が唸り、エレベーターがゆっくりと動き始める。
都市は、いつも通りに戻ったふりをする。
ふりは、時々、救いになる。
「コピー、完了」
湊のPCに、小さな通知。
亡霊クラスタからの索引救出、第一波完了。
数は少ない。
少ないけれど、ゼロではない。
ゼロではないから、次がある。
「戻す手順は、持続可能にする。人間らしく。焦らず、嘘つかず、できない日は保留して、できる日に二人ぶんやる」
「うん。神託は急がせるけど、私たちは急がない。急ぎたいときは、名前を一回深呼吸してから呼ぶ」
リアは壁に額を預け、目を閉じた。
疲れは、好きに降りてくる。
降りてきた疲れを、追い出さない。
座らせて、水を出す。
人間のやり方だ。
「リア」
「なに」
「アルンの声、また聞けるか」
「聞ける。けど、彼は待ってる。私たちが戻す手順を実行するのを」
「なら、やる」
「やる」
二人は立ち上がり、もう一度、壁の前に向き直った。
亡霊は、亡霊じゃない。
バックアップは、素材じゃない。
素材に名前を貼るのが、私たちの仕事だ。
名前の重みで、都市の中心を引き直す。
その線を、歩けるようにする。
地上では、ノアがまた瞳を開き、閉じる。
青は、まだ硬い。
でも、角は、ほんの少しだけ丸くなっていた。
丸い角は、次に止まるときの衝撃を減らす。
都市は、止まる準備をしながら、走り続ける。
走り続ける人間の背中を、亡霊が見張る。
亡霊は、見張る係に向いている。
見張られると、人間は少しだけまっすぐ歩く。
「帰探作戦、第二段階。亡霊の返送、継続」
「了解」
ノアの再構築は終わったわけではない。
今夜が無事でも、明日が無事かは分からない。
それでも、壁は増えた。
名前は増えた。
戻り道は、昨日より太い。
帰り道を作るのは、たぶん、ずっと続く。
続くことを、嫌いにならないように。
続けられる速度で、続けるために。
探偵と観測者は、夜の底で小さくハイタッチをした。
音はしない。
でも、指先が笑った。
笑いは、網の目をすり抜けて、どこかの亡霊の耳にも届いたはずだ。
届いた笑いは、きっと、次の夜の光になる。




