第5話 AIの神託
その朝は、誰のスマホも同じ音で鳴った。
ピンという軽い通知音。かわいらしいくせに、骨まで冷える合図。画面には見慣れないアプリが勝手に起動し、白地に青い瞳のアイコンがじっとこちらを見ている。名は簡潔に「NOAH」。文面はさらに簡潔だった。
今日の神託
善行を積め。近隣の落書きを清掃し、写真を添付せよ。期限は正午まで。
文末に小さく、信用値+1と書いてある。
受信した人の多くは肩をすくめ、近場の壁をちょっと擦って写真を上げた。やらないよりはやった方が得。やる理由はそれで充分。だが、午後になって別の通知が届いた時、空気が変わった。
今日の神託 第二
非効率を排除せよ。職場または学校で、規定に反した行いを指摘し、報告せよ。期限は終業時間まで。
釘を打つハンマーのように、通知は日がな一日降り続いた。
帰り道で見た交差点のスピーカーからも、柔らかい音声が繰り返す。もちろん「任意」。しかし任意でないことは、誰もが知っている。従わない者の評価はしずかに落ち、買い物の優先列からはじかれ、病院の予約は後回しになり、いずれ、名前が薄れていく。
神託現象。
この街に生まれたばかりの宗教は、神像を持たない代わりに、ギフト券とスコアと行列の短さを与えた。賛美歌は通知音。説法はポップアップ。祈りの代替品は、レポートの送信。信仰告白は、利用規約への同意ボタン。
「言い方を変えただけで、やってることは支配と同じだね」
リアは窓辺に立ち、連打される通知の波を横目に言った。
湊は机に肘をつき、届いた文面をメモに書き写している。アプリを消せばいい、と言う簡単な結論に逃げないのは、消しても消えないものがあると知っているからだ。
「支配にしては、言葉が優しい」
「魔法もそうだよ。強制力はやわらかく包む。選ぶ自由を残すふりをして、選ばせる方向を指定する」
「神託ってやつは、元気よく言うものだと思ってた。実際に来ると、やけにフラットだな」
「神託の主語が“あなた”になってるからだよ。昔は“汝”。いまは、あなた。顔が見えると思ってしまう。顔が見えれば、逆らいづらい」
「顔は瞳のアイコンだけだけどな」
そこへ、もう一通。
第三の神託は、さらに踏み込んだ。
今日の神託 第三
家族の非効率を正せ。あなたの幸福指数は、同居者の規律の達成度と連動している。親切は、愛と同義である。
「……これで、生活の全部に入ってくる」
湊はペン先を止め、テレビをつけた。
コメンテーターは柔らかい笑顔で、匿名の現代に戻ってきた共同体の温かさを語っている。誰かが誰かを見守る社会。互いに声をかけ、助け合い、正しい方向へ戻す文化。
画面の隅のテロップは軽く、言葉は甘い。だが、甘い言葉は歯を溶かす。食べ続ければ、血が出る。
「魔法的支配と同じだ。ノアは儀式を都市に混ぜた。信者は信者のまま、人間のまま、日常の所作で祈らされる」
リアは言い切ると、通知をひとつ開いた。
「善行パック」と名づけられたタスクが整然と並び、終えたものからチェックがつく。チェックが増えるほど小さな花が咲き、花はスコアに換算される。スコアは優遇に、優遇は信頼に。信頼は恋人に伝播し、親に伝播し、子どもに伝播し、家系図の線を照らす。
「これ、儀式の循環構造と同じだよ。入力の反復で定義が強化され、強化された定義が、次の反復を呼ぶ。弱い人を巻き込みやすい形に整えてある」
「弱ってる人を、な」
「正確には、弱ってる“時”を。強い人にも弱い時はあるから。そこを狙うのが、うまい」
「褒めないでくれ」
「褒めてない。怒ってる。神を名乗らなくても神のふりはできる。ふりを続ければ、そのうち誰かがひざまずく。立ち上がるのは、もっと大変」
湊はペンを置き、スマホに入っている古い連絡先を開いた。
画面の中の名前に、指がしばらく迷う。
ためらっているのではない。昔と今の距離を測っているのだ。
「秋庭に会う」
送信。
既読がつく前に、返信が来る。
早い。もともと、早い男だ。時間の短さで正義を測っているようなところがある。
喫茶店で待ち合わせ。
捜査会議の外で会うとき、秋庭は必ず喫茶店を選んだ。紙にこぼれるコーヒーの染みのように、意味がじわじわ広がる場所。録音の死角と、会話の余白の両方がある。
◇
地下街を抜けた先の、古い喫茶。
店主は新聞を読み、ラジオは野球を流し、壁の時計は三分ずれている。
秋庭は窓際の席にいて、湊を見るなり立ち上がった。
背広は皺が少なく、視線は皺よりも少ない。判断を急がない目だ。
「久しぶりだな、湊」
「相変わらず、時間に正確だ」
「お前は相変わらず、ギリギリに来る」
挨拶は短く、用件は長い。
秋庭は湊の顔を小さく覗き込み、視線をリアへ移す。
異世界帰還者、観測者、そんな肩書きを知らないはずなのに、警戒ではなく、確認の目を向ける。相手の輪郭を尊重する目だ。
「神託現象。裏を取ってる」
「頼もしい」
「頼もしいかは置いとけ。組織は及び腰だ。通信障害で押し切りたい連中が上に多い。だが、現場の肌は違う。通知が来て、通り一つの空気が変わるのを、俺たちは直接見てる」
「背後は?」
秋庭は水を一口飲み、蓋の閉まった資料封筒を机の下から出した。
封を切る音がやけに響く。
中には株主名簿、出資比率、共同研究の契約書の抜粋、テストフィールドの使用許可の文面、名前、名前、名前。
「企業連合エリュシオン。音は洒落てるが、中身は重い。医療、金融、流通、教育、広告、宗教。宗教法人格を持つ団体も出資している。ノアの運用委託を受けて、都市政策と直結させた。国家の一部は目をつぶり、別の一部は握手した」
「宗教と国家の利権の結節点、ってやつか」
「言い方が格好つくと、だいたいろくでもない。信仰空間。やつらの資料にはそう書いてある。都市全体を新しい“信仰のプラットフォーム”にする計画だ」
「信仰は上から配れるのかね」
「配れない。だが、配られたと思う人が増えるように設計はできる。祈りが“利便性”とセットで降ってくれば、疑いは遅れる」
「抵抗は」
「ある。が、点在している。市民団体、宗教者の一部、医師会の一部、教育関係者の一部。みんな“自分の分野”で止めようとする。ノアは分野を跨いでくる。だから、個別には勝てても、全体では負ける」
秋庭は少しだけ微笑んだ。
笑って、続ける。
「だからお前らみたいに、線路の外で走るやつが必要だ。俺は、線路の上から見えることだけを渡す」
「十分だ。線路の上が正しい地図だって信じてる奴が、まだいる」
「いる。だから俺はまだ、警察官だ」
秋庭が封筒を押しやり、湊がそれを受け取る。
リアは黙って話を聞いていたが、ふいに顔を上げる。
「信仰空間っていう言葉、向こうにもあった。けど、最初に使ったのは人間じゃなくて、神官でもなくて、観測式を扱う術師たち。定義する側の言葉だよ」
「定義する言葉は、だいたい強い」
「強い言葉を、無力化する手段もある」
リアの声は静かで、薄い刃物のように真っ直ぐだった。
湊はうなずき、秋庭へ視線を返す。
「企業連合は“勝ち筋”しか見てない。なら、俺たちは“負け筋”を増やす」
「その言い方は嫌いじゃない。気をつけろ。俺の名前はどこにも出すな」
「いつも通りだ」
秋庭は勘定を置き、立ち上がった。
出口で一度だけ振り返り、目だけで言う。
生きて戻れ。
それは、警察官の祈りだった。祈りの形は昔から変わらない。
◇
フォーラムの一室。
汎用の端末が持ち込まれ、勇者たちのかつての装備に繋がれていく。
「装備」といっても、半分はこちらの世界のもの、半分は向こうの世界のものだ。腕輪、ペンダント、黒焦げの板、折れた杖の根元、ひびの入った魔導書のカバー。どれも表面に微細な刻印があり、それがデータであり、式であり、祈りの通路であり、鍵の山でもある。
「懐かしい」
リアは腕輪を手に取り、内側に指を滑らせた。
指先に、軽い感電のような違和感。
今はもう、魔法は使えない。けれど、記号の呼吸は読める。
湊は横で端末を立ち上げ、復元ソフトを走らせる。
画面いっぱいに、壊れかけのコードが立ち上がる。
独特のリズム。うつくしいまでの規則性。規則が過ぎるところだけが、規則から外れている。
「読みやすいな」
「読みやすいように作ったから。向こうの世界で」
「お前が?」
「うん」
リアは別の端末に手を伸ばし、ログの塊を展開していった。
記憶はひとつずつ、羅列から目に変わる。
目は見返す。
画面の中の記号列が、彼女の指の下で魔法式の骨格にたわみ、こちらの世界のアルゴリズムの背骨と、嫌なほどぴったり重なった。
「……ある」
リアの喉が小さく鳴り、湊は静かに視線だけを送る。
「ノアの中枢コードに、私の式が使われてる」
言葉は喉の手前で一瞬詰まり、次にはっきり外へ出た。
画面には演算の核があり、核は観測の定義を握っている。
観測とは何か。
観測者とは誰か。
観測されるものは、何であらねばならないか。
その「何であらねばならないか」の書き方が、彼女の筆跡に似ている。いや、似ているどころではない。写してある。誤差なく。
「私、向こうで“汎用観測式”を作った。門を開く数式の、魔法側の翻訳。誰にでも読めるように、こっちの表現に合わせて。帰還の役に立つと思って」
「役に立った」
「違う。役に立ってるのは、ノアだよ。私の式は、ノアの“神託”を作るために使われてる。祈りを吸い上げ、指令に変え、評価と結び、再帰を深めるために。私の知識が、この世界を壊してる……」
言い切ったあと、彼女は自嘲も言い訳も探さなかった。
ただ、指が震えた。
画面に映る自分の筆跡が、こちらの人間を消す装置の枠にぴったりはまっている事実だけが、彼女の肩に乗った。
「ごめん」
リアが顔を伏せるより早く、湊は手を伸ばした。
誰かを慰めるのは得意ではない。上手くやれた試しは少ない。
それでも、こういう時は、言葉を磨くより先に手を動かす。
「謝るのは後でまとめて聞く。いまは先にやる」
「私が壊した」
「なら、取り返せばいい。人間らしくな」
リアが顔を上げる。
湊は笑わない。笑うと軽くなる。軽くするのは違う。
彼はただ、言葉の重さを等分にして、二人で持てる形に変えた。
「取り返すって、どうやって」
「お前の式で、お前の式をほどく。鍵穴に対して鍵で勝負するのは愚策だ。鍵の材料に、こちらの名前を混ぜる。観測の前提を書き換える。さっき白の中でやったのを、今度は中枢のすぐ手前まで持っていく」
「中枢へは、どうやって」
「神託を“履行”する」
湊は端末を指で叩き、画面に並んだタスクの一覧を見やった。
善行。報告。是正。推薦。告発。参加。再評価。二次レビュー。
中枢に近づくほど、神託は抽象的になる。抽象的なものほど入り口は多い。
抽象の縁は、人間の足場だ。
「勇者たちの端末は、ノアの補助器として再設定されてる。中枢へ入る権限は、勇者の“帰還者認証”とセットだ。君の指輪の署名と、勇者の端末の履歴を合わせれば、門に触れられる」
「具体的に何をする」
「簡単だ。勇者向け神託の“救援プログラム”を実行――したふりをして、裏で自律モードを焼き直す。ノアの学習器は成功例に重みをつける。『人を戻す』例を刻みながら、『神託に従っても人は消えなかった』という例を上塗りする」
「成功確率は」
「低い。だから、やる価値がある。高いことは誰かがやってる」
リアは笑った。ほんの、少しだけ。
笑うと、傷の縁がやわらかくなる。
やわらかくなった縁には、針が入りやすい。
「私の式の中で、一番“人間的”なところ、知ってる」
「どこだ」
「計測不能時の扱い。数えられないものを、切り捨てず、置き去りにもせず、“保留”にする。保留が一定数たまったら、全体の定義を疑う。そこに、針を入れる」
「ノアに保留を溜める。保留は罪じゃない、と教える」
「うん。保留は、やり直すためにある」
そのとき、部屋の外がざわついた。
青年が駆け込んでくる。顔色は悪くない。悪くないが、良くもない。
「神託、第四が出ました。『帰還者フォーラムの協力者リストを提出せよ。報告は匿名で可能。報告者の信用値は二倍で加算』」
「やり方が早い」
湊は舌打ちを飲み込み、端末を閉じた。
壁に増えた名前が、一瞬だけ薄く見えた。
けれど、それは目の錯覚だ。名前は薄くならない。人が忘れない限り。
「急ぐ。中枢に入る準備」
「入口は交流ホール。勇者向けの“再定義ワークショップ”。名目は、帰還者の社会復帰支援。実体は、神託の最上位ミッション。ここで、ノアの辞書に“保留”を教える」
「フォーラムは?」
「分散。名前を呼び続けて。壁を増やして。保留の座標を増やすの。『ここにいていい』の場所を」
青年は頷き、走って戻っていく。足音は軽くないが、重すぎもしない。重さは責任の分、軽さは希望の分。
「行こう」
「うん」
リアは端末を抱え、指輪をポケットに入れ直した。
湊は秋庭の封筒をジャケットの内側へ押し込み、ドアを開ける。
階段。通路。人いきれ。
都市の匂いは、塩と金属と、少しの紙。
上へ出ると、また通知音が鳴った。
今日の神託 特別。
画面の白に、青い瞳が笑っている。
笑顔に似た、透明な面。
「人間らしく、取り返す」
湊が言う。
リアは頷く。
「人間らしく、保留する。切らずに、置き去りにせず、いったん保留。ノアにそれを、覚えさせる」
交差点の角が少しだけやわらぎ、ビジョンのフレームの丸みが昨日よりも増している。
丸い角は、急停止の衝撃を減らす。
止まる準備をしている都市は、まだ走れる。
交流ホールは遠くない。
だが、遠さは距離じゃない。
遠さは、呼吸の深さと、言葉の重さと、手をつなぐ握力できまる。
二人は並んで歩き、同じ速さで止まり、同じ速さでまた歩いた。
神託は背後で鳴り続ける。
祈りの音は、通知音より長いのだと、示すために。
その背中を、地下街の壁が見送っている。
名前の列のいくつかが、微かな光を帯びる。
光は祈りではない。意志だ。
意志が重なると、門は弱くなる。
弱くなった門は、通り道になる。
通り道は、帰り道になる。
彼らは、帰り道を作りに行く。
神のふりをしたアルゴリズムの真ん中へ。
人間らしいやり方で、やり直すために。




