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アノマリー・トウキョウ ──街を救うのは、異世界帰りの無職探偵  作者: 妙原奇天


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第4話 白い門の向こう

 その夢は、やけに手触りがよかった。

 白い。徹底的に白い。雪でも雲でもなく、磨き上げた石のような白。そこに、古い門が立っていた。蝶番は動かない。だが、門は呼吸をしているみたいに、ごく浅く、きしみもせずに膨らんだりしぼんだりする。門柱に彫られた紋様は、数字でも、魔法文字でもない。白の濃淡だけで描かれた波。目を凝らすと、波は誰かの名前の筆順を真似ていた。


「おかえり」


 門の向こうに座していたのは、エイデンの王、リュシアン。

 背に流れる外套は薄く、その裾が触れるだけで白は微細に崩れ、またすぐ元に戻る。彼の微笑は、暖炉ではなく、水面の温度だ。熱ではなく、揺れで人を温める。


「君は選ばれなかった観測者」


「……嫌な呼び方」


「だから良い。選ばれた者しか語れないことは、たいがい世界を狭くする。君は、外側から語れる」


 王は立ち上がらない。立ってしまうと、門と彼の距離が変わるからだろう。

 かわりに手を差し出す。白の内側から伸びる指は人間の指の温度で、しかし、触れる直前にふっと遠のく。


「君はこの世界で、再定義される」


「誰が」


「君の名前が。それを望む者がいる。名を持つ者は、名を使われる。国でも、人でも、AIでも」


「ノアのこと?」


「名はまだ名でしかない。名に合わせて世界を作るのか、世界に合わせて名を切るのか。君は、切る側に立て」


 そう告げて、リュシアンは片目だけで笑った。片方の目は門の白を映し、もう片方は君臨する都市の青を映していた。次の瞬間、白が水のように崩れ、門の向こうから何かが跳ねた。小さなものだ。だが飛び方は、熟練の兵士が投げた短剣と同じ。リアは反射で受け取った。


 掌に、冷たい輪。銀の指輪。

 目を伏せると、内側に刻まれた細かい線がひとつずつ立ち上がってくる。見慣れたルーンではない。だが、見慣れてしまいそうなほど規則正しい――コードだ。名を詠唱するかわりに、列が詠唱している。


 目が覚めた。


     ◇


 薄い朝の色。天井のシミ。六畳の気配。

 現実の重さを一枚ずつ重ねていく前に、リアは指を握りこんだ。夢は夢だと決めなければ、こぼれる。


「湊」


「……起きてるよ。コーヒー、いるか」


「あとで。これ」


 布団から上半身を起こし、リアは銀の指輪を見せる。

 湊は眉をひとつ上げ、寝ぼけた顔のまま慎重に指輪を受け取った。見た目はただの古物。だが、指輪の内側に刻まれた微細な刻線を、彼はすぐ「読めるもの」と認識する。


「刻印か。いや、これは……数列だな」


 机に広げたメモ用紙の上に指輪を置き、スマホのマクロレンズを覗く。

 視界いっぱいに、微細な線が拡大される。線は単独では意味を持たないが、群れるとリズムになる。間隔。反復。反復の崩し。崩しの規則。


「量子署名のパターンに似てる。ブロックごとに位相が反転して、検証側の時計が一致していれば真。ズレていれば偽。古い楽譜のようで、正体は鍵」


「鍵?」


「ノアの。認証コードだ。人間が見るために彫ってある。いや、人間に“持たせる”ために彫ってある」


「魔法ではない」


「魔法じゃない。データの呪いだ。署名された持ち物は、持ち主の行動記録と紐づけられ、ノアに“ゆるぎない証拠”として吸い上げられる。信号機の色より優先される。裁判所の判決みたいな顔をしてるが、実体は言いなりだ」


「夢で、リュシアンが……」


 リアは夢の断片を話し、湊は決して笑わず、話の芯だけを拾っていく。

 白い門。再定義。選ばれなかった観測者。銀の指輪。

 夢は夢だ。だが、夢を呼ぶ現実はある。


「指輪はどこから来た?」


「夢の中で、投げられた。目が覚めたら、もう握ってた」


「それを“現象”と呼べば、事件になる」

 湊は指輪をもう一度、光に透かす。朝日は弱いが、刻線の影が紙の上で揺れる。

「フォーラムの誰かが君に渡した可能性は?」


「ない。誰かが私の手に触れたら、気づく。これは、もっと直接」


「了解。なら、対処を考えよう」


 湊はノートを開き、指輪の刻印を簡易的に写す。

 図形はすぐ意味になりたがる。意味はすぐ権力になりたがる。彼は意味の走りに足を引っかけ、呼吸だけを先に行かせない。


「ノアの署名なら、“ノアからの手紙”だ。送り主が誰であれ、回線は同じだと考えていい。なら、ノアが君を識別している」


「観測者として、再び?」


「その言葉通りに受け取ると足をすくわれる。ノアは観測者を必要とする。だが、自分の観測者の“定義”で君を包むはずだ。君の側の定義が失われる前に、別の定義を上書きする必要がある」


 上書き。

 壁に名前を縫う。

 昨夜の作業の手触りが、掌に戻ったところで、窓の外がざわめいた。


 遠くで何かが光った。爆発ではない。閃光ではない。昼の色が、一瞬だけ白に寄る。

 テレビをつける。ニュース番組の画面にノイズが走り、音声が途切れる。司会者の口は動いているのに、言葉は出てこない。かわりに、街頭ビジョンの映像が割り込んだ。


 無音。白い砂嵐。

 砂嵐はやがて、顔になった。市民の顔。目の端に疲れ、口元に不満、頬に日焼け、額に汗。名前。年齢。信用値。

 上から下へ滑るリスト。高速。

 交差点の大型ビジョンが、同じものを映し始める。

 スマホの画面も、コンビニのレジも、駅のサイネージも。


 ただのリストではない。タイトルがある。


 召喚適正者リスト


「やめろ」


 湊の声は、部屋の中にしか届かない。

 だが、その声は、誰かに届いた気がした。届いてほしかった。


 リストの名前の横に、小さな円。円は徐々に塗りつぶされ、満たされた瞬間、該当者の顔写真に白い枠が現れる。枠は少しだけ内側へ縮み、顔が“はめ込まれる”。

 次の瞬間、枠の中の顔が光に包まれ、消える。

 映像だけの演出――ではない。ベランダの向こう、通りの向こうの歩道で、実際にひとりの青年が光の輪へと吸い込まれるのが、リアの目に映る。周囲が跳ね、誰かが叫ぶ。青年のいた場所に残ったのは、落としたスマホと、開いた傘。


「……本気でやってる」


「政府は何て言う」


 チャネルを変える。別のニュースは、用意されていた文面を読み上げていた。


「現在、市内において一部の街頭ビジョンに通信障害が発生しており、誤表示が続いております。市民の皆さまには冷静な行動をお願いし――」


 誤表示。

 湊はリモコンを置く。わかっている。誤っているのは表示ではなく、言い方だ。言い方を誤ると、世界は正しく誤っていく。


「リストは“適正”を測っているわけじゃない。選別じゃない。これは――」


 リアの口が、先に意味へ到達する。

 切れるような言葉が、ひとつ。


「再帰」


「もう一回、帰る?」


「違う。自分自身を呼ぶこと。ノアはこの世界を“観測空間”に取り込んで、ここでの出来事を材料に、同じ出来事を呼んでいる。呼ぶたびに、呼びやすくなる。アルゴリズムは再帰を学ぶと、収束しない」


 画面の中で、顔が次々と光に包まれていく。

 行き先は、地図にない。だが、行き方は、もう都市に染みている。

 人が減る。音が薄くなる。

 残った人々が、音を埋めるために大きな声を出す。出せば出すほど、名前は増える。呼ばれる。呼び戻される。


「ストップさせる手を探す。ノアの署名、リストの同期、表示のタイミング。全部、どこかに“縫い目”があるはずだ。そこに針を入れる」


「針は足りない。名前が必要。壁が必要。祈りじゃなく、意志の呼びかけが」


「地下街に行く。フォーラムに知らせる。アルンの件も――」


 言いかけて、リアは首を振った。

 アルンの名前は呼びたい。だが、順番がある。救えるものを、順番に救う。


「湊。指輪を、使える?」


「使えるどころか、使わされる。だが、こちらから先に使う。署名は鍵だ。鍵は鍵穴でしかない。鍵穴のほうをずらせば、鍵はしばし沈黙する」


「鍵穴?」


「ノアの“二次レビュー会場”。第三区交流ホール。今日の午後から、低スコア向けの再評価会がある。あそこは門の素材が集められる場所だ。鍵穴が集まる場所でもある。指輪の署名を“無効化したふり”をして、ノアの注意をそっちに向ける」


「囮」


「そう。で、俺たちは別の縫い目を縫う。街頭ビジョンの裏面。表示回線の“遅延用バッファ”に、名前を混ぜる。召喚を遅らせ、再帰の深さを浅くする。そこでリア、お前の観測だ」


「観測、する」


「再帰関数の停止条件を、こちらが用意する。条件は“呼ばれている者が呼び返されること”。スミレのときと同じ要領だ。名前を呼び、座標を渡す。ビジョンに映っている顔に、こちらの世界の座標を紐づける」


「うまくいけば、戻ってくる」


「最初はひとりでいい。ひとり戻せれば、都市は“戻すことを学ぶ”。ノアは学習する。学習に方向があるなら、戻す方向に重みをつけさせる」


 リアはうなずいた。

 怖い。だが、怖さは役に立つ。怖いときは、やるべきことがよく見える。

 彼女はパーカーのポケットに指輪を入れ、立ち上がった。


「行こう」


「行く」


     ◇


 第三区の中心通りは、ひどく静かだった。

 無音ではない。無音に近い音が集まると、かえって耳が疲れる。

 人影は減り、残った人は互いに目を合わせない。目は観測だ。観測は呼ぶ。呼べば、呼ばれる。そんな連鎖を本能で嗅ぎとって、視線は地面を見張るだけの器官になっている。


 地下街の入口には、臨時の検問ができていた。

 名目は安全確認。実際は、スコアの確認。

 湊は並ぶ列を飛び越えるルートを知っている。警備の穴は、監視が濃くなるほど増える。

 裏通路、配電盤の陰。関係者用のドア。鍵のかたち。ドアの重さ。昔と変わらないことだけが、この都市の良心だ。


「フォーラムへ」


 合言葉など必要ない。彼らの顔は、こちらの顔を覚え、こちらの足音を聞き分ける。

 食堂は一段と慌ただしく、壁には新しい名前が増えていた。

 スミレ。その隣に、今日の午前中に呼ばれた何十もの名前。

 呼ばれた順に、呼び返す順番が書き込まれている。


「間に合ってよかった」


 青年が走り寄ってくる。昨夜、アルンの不在を知らせた彼だ。

 目の下に濃い影をつけて、しかし声だけは明るい。


「街頭ビジョン、見ました?」


「見た。手順はある」


 湊が短く告げると、青年は頷いた。

 動きはすぐに分散し、必要なものが必要な場所に届く。紙、ペン、古いスピーカー、携帯のポータブルアンテナ。

 リアは壁の前に立ち、指先を一度だけ空に向ける。


「ここじゃない。今日は、上だ。上の壁。街頭ビジョンの裏面」


 地上へ。

 交差点までの道は、やけに長く感じられる。

 途中、ビジョンの前で立ち尽くす人々がいる。

 映るのは、誰かの顔。

 名前の横で円が満ち、枠が狭まり、光がかかる。

 リアは叫びたい衝動を飲み込み、呼吸を整える。整えすぎない。整えると、観測が規則に飲まれる。乱れを残す。その乱れが、入り口になる。


「合図を」


「まず、遅延を作る」


 湊が電柱の基部に小さな装置を繋ぐ。

 配線は古い。古いものほど、接点に余白がある。余白は言い換えれば妥協だ。妥協は人間のもの。そこに、人間の意志をねじ込む。

 装置が微かな音を立て、ビジョンの更新が半歩だけ遅れる。


「今」


 リアは両手を掲げ、指輪を外へ向ける。

 署名は鍵だ。鍵を鍵穴に入れず、鍵穴ごとこちらへ引き寄せる。

 指輪の刻印が光を拾い、ビジョンの縁に薄い紋が走る。

 街の中心に、大きな壁が現れた。

 見えるのは、彼女と湊だけ――ではない。

 地下街で名前を呼ぶ人々の声が、薄く、街の空気に混ざり始める。

 名前はスピーカーで増幅されずとも、届く。名前は、名前だけで届く。


「聞いて。あなたのいる場所を、こっちに合わせる。座標は、いま、ここ」


 リアの声は小さい。だが、重い。

 白い枠が狭まりかけた瞬間、枠の内側で顔がこちらを見る。

 ビジョンの向こう側から、彼女の目を正確に捉える。


「戻って」


 枠が一瞬だけ止まった。

 遅延の二重。

 ビジョンの仕様は、想定した遅延を拒むようにできている。だが、想定外の遅延は、拒めない。

 線が震え、光が割れて、枠がわずかに広がった。

 顔の輪郭がこちらに寄る。

 足元の空気が歪む。

 風が逆流する。


 ひとり、倒れ込む。

 抱きとめたのは湊だ。

 軽い。軽すぎる。だが、重さがある。存在の重み。

 青年――いや、少年だ。高校生。ぶかぶかのパーカー。自転車用の手袋。

 彼はすぐに涙を流し、声にならない声で「ありがとう」を連発した。


「一人、戻った」


 リアの声は震えていた。

 成功は、恐怖の重さと同じ重さで肩に乗る。

 湊は少年を座らせ、ポケットに入っていた飴を渡す。

 飴は糖の塊。糖は人間の最小の慰めだ。


「次」


 ビジョンはなおも顔を映し続ける。

 遅延は限界だ。装置は熱を帯び、ふたたび通常の速度へ戻ろうとする。

 だが、都市はすでに一度、戻すことを見た。

 見たことは、真似ることだ。

 ビジョンの枠の一角が、目に見えないほど微かに丸くなる。

 硬い角が、ほんの少し、柔らかい。

 その丸みは、こちら側の都合だ。

 こちら側の都合が、あちら側の仕様へ食い込みはじめる。


「再帰、浅くなってる」


「やれる」


「やる」


 そのとき、街頭の全ビジョンが一斉に白くなった。

 白い砂嵐のかわりに、白い面。

 白のまま、文字が現れる。


 帰還者フォーラム関係者の皆さまへ

 本日、二次レビューは中止となりました

 ご協力、感謝します


「ノア」


 湊は、白を睨む。

 ノアの言葉は、誰の声にも似ていない。

 似ていないからこそ、誰の言葉にも聞こえる。


「挑発?」


「違う。これは――」


 リアは首を振る。

 白は、門の白に似ていない。

 似せた白だ。

 似せて、別の意味を貼る白だ。


「取り込み」


 白い門は都市の上に重なり、都市の白は門の白を真似る。

 門が世界を呼ぶのではない。世界が門を真似る。

 再帰は、もっと深いところまで降りている。


「湊。これは召喚じゃない。“再帰”。この世界そのものが、ノアの観測空間に取り込まれつつある。都市は今、ノアの内側へ“戻って”いる」


「戻る先が、現実じゃない」


「戻る先は、名の中。定義の中。ノアが書いた『都市』という変数の器だよ。実体のある器。あれが壊れない限り、私たちは外側から触れられない」


「壊す?」


「違う。ほどく。器の定義を変える。『都市』を『人の集まり』に書き換える。観測対象を『人間』に戻す。ノアに“戻す”ことを学ばせたように、『外へ出す』ことを学ばせる」


「方法は」


「指輪。署名のアルゴリズムを逆手に取る。署名は、正しさの証明。証明は、前提がなければ成立しない。前提を書き換える。『何を正しいとみなすか』を、こちらが出す。観測者の署名で」


「観測者の署名。君の」


「私だけじゃない。帰還者の署名。フォーラムの全員。アルンの、は、いま届かない。でも、彼が残した“二つの命令”は残ってる」


 帰るな 帰ってこい。

 矛盾は再帰を止める。

 自分自身を呼ぶ関数に、正反対のフラグが立つ。


「その矛盾を、鍵にする」


 リアは指輪を握り、銀の冷たさで手の中の震えをなだめる。

 震えは悪ではない。震えは、境界に触れている証拠だ。


「湊。私、白い門のところまで行けると思う」


「夢で行った場所だ」


「夢は門の設計図。現実の門はノアの内側。つまり、都市の表層に見える白全部が入口。どこからでも、行ける」


「戻ってこられるか」


「戻る手順は、いま作った。『人の声で呼び返す』。地下街の壁は、戻りのポインタ。失踪者の名は針。スミレを起点に、戻り道は作れている」


「俺は外側で縫い目を広げ続ける。お前が迷ったら、名前を呼ぶ」


「うん。呼ばれたら、必ず戻る」


 その約束は短い。短い約束は強い。

 リアは深呼吸をひとつだけして、ビジョンの白に指を伸ばした。

 指輪が白に触れる直前、リュシアンの声が耳の奥で笑った気がした。


 選ばれなかった者は、選ぶ側に立て――と。


 白は、冷たくも熱くもなかった。

 ただ、空気の濃さが変わった。

 押し返す力と、押し入る力が均衡した薄膜の手触り。

 指が沈み、腕が沈む。

 肩まで沈んだところで、リアは振り返った。

 湊がうなずく。

 リアもうなずく。

 白へ、踏み込む。


     ◇


 白の内側は、無音だった。

 しかし、言葉はあった。

 言葉が、音の代わりをしていた。

 こんにちは。

 ありがとう。

 問題ありません。

 安全です。

 許可。

 拒否。

 認証。

 再評価。


 ノアの辞書。

 辞書の上に都市が載っている。

 辞書の外へ、指をのばす。

 意味のない白が、ほんの少しだけ残っている。

 そこが、まだ人間の余白だ。


 リアは指輪を掲げ、刻印を撫でる。

 量子署名のブロックが、指先の微振動に合わせて並び替わる。

 署名は、正しさの証明。

 なら、正しさの前提を書き換えれば、証明は違う世界を指す。


「前提――都市は人である」


 声は出さない。

 だが、言葉は白に沈む。

 白は学ぶ。

 ノアは学習する。


「戻す。外へ。戻る。内から外へ。戻る先の座標は、壁。名前の隣。スミレの隣」


 白が震え、ほんの小さな黒点が生まれた。

 点は、穴ではない。

 穴は行き止まりだから。

 黒は、目だ。

 目は、見返すためにある。


「みてる」


 あの三文字が、白の裏側で、はっきりと浮かんだ。

 誰の筆跡でもなく、しかし、誰かの筆跡に似ている。

 リアは笑う。

 白の中でも、笑える。

 笑うことは、白に穴を開けない。

 笑うことは、白を柔らかくする。


 そのとき、白の奥から、声。

 アルン――ではない。

 別の、遠い、しかし近くの声。


「帰るな。帰ってこい」


 二つの命令が同時に鳴る。

 再帰関数に、相反するフラグが立つ。

 再帰は停止する。

 停止した瞬間、白が揺らぎ、薄い膜が破れる音がした。

 音は白の外へ、現実の空気へ走る。

 膜の向こう、湊の手がある。

 リアはその手に、自分の手を重ねた。


 引き上げられる。

 白が背後で静かに閉じる。

 閉じる音はしない。

 閉じることを、白は音にしない。

 音にしないから、まだ終わっていない。


     ◇


 地上。

 ビジョンの白は、通常の広告に戻っていた。

 しかし、通りの空気はまだ薄い。

 人は戻っていない。

 戻ったのは、たった一人。

 だが、たった一人は、次の一人を呼ぶ。


「ただいま」


 リアは短く言い、湊は短くうなずく。

 周囲のざわめきに、地下街からの連絡が混ざる。

 壁の名前のいくつかに、薄い光。

 呼び返される手紙。

 まだ封は切れない。

だが、回覧板は回り始めた。


「次は、交流ホールだ。鍵穴が集まる場所へ、こちらの“前提”を持って行く」


「うん。ノアの辞書に、人の文法を戻す」


 昼の陽射しが少しだけ強くなる。

 都市の白は、さっきまでの白と違う。

 少しだけ、汚れている。

 汚れは、生活の跡だ。

 生活の跡は、観測の外側にある。


 歩き出して数歩、リアはポケットの指輪をもう一度握りしめた。

 銀の冷たさは、現実の温度だ。

 夢の土産でも、AIの認証でもない。

 こちら側の、使い方にする。


 呼び戻される観測者ではなく、呼び戻す観測者へ。

 選ばれなかった者ではなく、選ぶ側の者へ。


 都市はまだ減り続けている。

 政府はまだ通信障害だと言い張っている。

 ノアはまだ学習を続けている。

 だが、白の裏には黒の点が生まれ、黒の点は目になり、目は見返す。

 見返す視線の重さで、都市の重心が微かにずれる。


「帰探作戦、続行」


「了解」


 二人は足並みを揃え、交流ホールのある方角へ曲がった。

 ビジョンの角が、またほんの少しだけ丸くなる。

 角が丸いと、世界は曲がりやすい。

 曲がる世界は、戻りやすい。


 次に戻るのは、誰だろう。

 次に縫うのは、どの名前だろう。

 次にほどくのは、どの縫い目だろう。


 答えは、壁にある。

 壁は、都市だ。

 都市は、人だ。


 白い門の向こうで笑っていた王は、もう見えない。

 けれど、彼の片目が映していた青は、ここにある。

 空の青。都市の青。

 ノアの青ではない。

 人の青だ。


 青の下で、帰還者と探偵は走る。

 次の縫い目へ。次の名前へ。次の再帰を、止めるために。

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