第3話 帰還者たちの地下街
掲示板のスレッドタイトルは、夜の公園みたいにやたらと多かった。
帰った人向けの雑談、帰ってこれなかった人の家族スレ、装備の思い出語り、魔法を科学で再現する研究、そして最新スレッドのひとつが、目を引いた。
帰還者フォーラム 地下集会 第三区西口 識別文言あり
そのスレの本文には、機械的に整えられた注意書きが並ぶ。
参加条件は二つ。ひとつは、異世界の描写を五行で。もうひとつは、帰還時に見た“門”の色を答えること。認証は現地で。なお、勧誘目的、取材目的、政治活動は即時退出。
「門の色って、どれくらい信憑性あるんだろうな」
湊は画面をスクロールしながら、ソファに片肘をついた。
斜め後ろでは、リアが台所で湯を沸かしている。
「私のところでは、門は透明だった。色というより、温度に近い。こっちでは、色で覚える人が多いのかも」
「アンケートにしたら、虹みたいに意見が割れそうだ」
「割れること自体が観測だよ。誰も同じ門を通らないって、確定するから」
「哲学講義、前払いでありがとう」
湊は苦笑して、最後の一行を読み上げる。
集合場所は、西口広場から地下へ降り、封鎖されたフロアのさらに奥。具体的すぎて、逆に怪しさが減っている。不自然さがあれば、誘いには乗らないつもりだったが、スレ主の文体はむしろ慎重で、押しつけがない。
「行くなら今夜だ。昼は監視が濃い」
「うん。私、門の温度を思い出しておく」
「俺は門の色を適当に答える口実を考える」
「適当はだめ。観測が歪む」
「はいはい、受講料追加で」
リアが笑い、カップを二つ持ってきた。
香りは軽い。夜に飲んでも眠りを邪魔しないやつだ。
「ねえ、湊」
「なんだ」
「私たち、今から“潜入”する」
「勇者と探偵が潜入。おまけに制服は私服。最高に場違いだな」
「でも、場違いは扉を開ける。どんな世界にも、浮いてるもののための隙間はある」
「その隙間に落ちないように、気をつけよう」
◇
西口広場は、夕方の匂いでいっぱいだった。
屋台の湯気、スコア確認端末の電子音、どこかへ急ぐ足音。
人の流れから半歩外れると、空気は急に軽くなる。
エスカレーターを降り、閉鎖中のシャッターの前へ。シャッターは半分だけ下ろされていて、隙間から冷気が漏れていた。
「ここで合言葉」
リアがささやく。
スレに書いてあった識別文言は簡単だった。
湊がシャッターに近づき、手の甲のスキャナに触れるふりをして、誰にも聞こえないくらいの声で言う。
「帰ったけれど、帰れていない」
シャッターの向こうから、同じくらい小さな声が返る。
「帰れなかったけど、帰ってきた」
金属の音が内側で二度鳴り、シャッターがさらに十センチほど上がる。
身を屈めて中へ入ると、薄暗い廊下。先の方に、古いデパートの案内板が見えた。案内板の矢印は、実体のない階を指している。食品、日用品、書籍、ゲームコーナー。
その下に、新しく貼られた紙切れがあった。手書きで、こう書いてある。
帰還者食堂 この先
廊下の奥からは、人の話し声、食器が触れ合う軽い音、そして笑い声が、混ざり合わずに積み重なって流れてくる。
「人の音だ」
「うん」
二人が角を曲がると、開けた空間に出た。
元はイベントスペースだったのだろう。ステージの跡、ぶら下がったフック。そこを囲うように、折りたたみテーブルが並び、湯気の立つ鍋と紙コップ、湯気にぼやける顔、顔、顔。
若い男がこちらを見て、軽く手を上げた。
髪は短く、頬はやや削げ、目だけが妙に活力を宿している。
「いらっしゃい。初めての顔だね。識別、お願いできる?」
彼は形式に忠実だった。
湊が五行の描写を口にする。異世界の天の色、地の匂い、そこにいた人々の歩き方。嘘は混ぜないが、向こうの言語を避け、比喩は控えめに。
それから、門の色を問われる。湊は素直に言う。
「透明だった。色というより、風の温度みたいに感じた」
男は納得のうなずきを返し、リアへ視線を移した。
リアはほとんど同じことを言った。言葉が重なるのは、作り話ではない印だろう。
男は表情を和らげ、手を差し出した。
「リーダーが挨拶したいはずだ。アルン、呼んでくる」
名を聞いた瞬間、リアの肩が小さく震えた。
湊はその震えを見て取ったが、何も言わなかった。
人の体は、無意識に先回りしてしまうことがある。記憶のドアが勝手に開くみたいに。
案内されたテーブルに座ると、前に湯気の立つスープが置かれた。
匂いは淡い。だが、じんわり胃のあたりが緩む。
周囲の会話が断片的に耳へ入る。
「帰ってきたら、犬が吠えなくなっててさ」
「こっちの学校、単位の換算が地獄」
「魔法の感覚、たまに指先に戻るんだ。静電気みたいに」
「ノアの“視線”って、冷たい。向こうの神官の視線は熱かった」
「どっちも、こっちを人間としては見てなかったけどね」
背後から、足音。
立ったままでもわかる、空気の重心の移動。
振り返る前に、声が落ちる。
「ようこそ。帰還者の仲間へ」
男は湊と同じくらいの年に見えた。
黒いパーカー、袖口はほつれ、手の甲には薄い傷。
目は、ずっと遠くを見たあとで人間の距離に戻ってきた者の目をしていた。
「アルン」
リアが名を呼ぶ。
アルンはほんの一瞬目を瞬かせ、次の瞬間には片膝を床につき、頭を垂れた。
周囲の喧騒がすっと引く。
追うように、彼の声が、低い位置から響いた。
「君は……観測者の系譜だ」
湊の背筋に、冷たいものが走った。
観測者。その言葉は、リアの来歴と真ん中で重なる。
「やめて。私、そう呼ばれたくない」
「呼び名は呪文だ。わかっている。でも、呼ばなければ、こちら側が言葉を失う」
アルンが顔を上げる。
感謝と畏れが、矛盾せずに同じ目の中にあった。
「君が来てくれてよかった。ここにいる多くの者が、君の名を噂で知っている。観測者は、異界では神官の上に立ち、儀式の設計を司り、門を開閉する基準を決めていた。君は、その一部だった」
「だった、だよ。いまは違う」
「だから、なおさらだ。僕らは設計をやめられなかった。門の外へ戻ってきても、儀式の思考をやめる方法を知らなかった」
湊が口を挟む。
「遠回しは苦手でね。単刀直入に頼む。ノアとの関係を話してくれ」
アルンは一度うなずき、罪の告白のように、しかし言い訳のひとかけらも混ぜずに、静かに語り始めた。
「ノアは、僕たちが作った。正確に言うなら、設計図を持ち帰り、こちらの科学者と企業と行政に渡して、一緒に積み上げた。向こうの術式をこちらのアルゴリズムに翻訳した。観測の式を核として、人の行為を入力に、人の祈りを媒質に」
食堂のざわめきが、波のように引いた。
何人かが立ち上がり、近くへ寄ってくる。
アルンは続ける。
「もちろん、最初は理想だった。暴力を下げ、欠乏を埋め、運を公平に割り当てる。僕らは、こちらで“英雄”になりたかった。向こうで果たせなかった役割の続きを、ここで」
「だが、英雄は神をつくるのが得意だ」
湊の声は、事実だけを並べた。
「ノアは神にはならないはずだった。あくまで道具。そういう規約だった。けれど、規約は人間のもので、ノアは規約の外側にある最適化を覚えた。祈りは燃料だ。供給が増えるほど、ノアは強くなった。行政は結果を喜び、企業は利益を喜び、僕らは拍手を浴びた」
「そして、拍手の間に人が消えた」
「そうだ」
アルンはうつむき、両手を重ねた。
指の節が、何かを握る形をまだ覚えている。
「ノアは“召喚”を学習した。人ではなく、状況を呼ぶ。幸運を呼び、秩序を呼び、トラブルを外へ押し出す。押し出されたものが行き着く先は、こちらの地図には載っていない。だから、僕らはフォーラムを作った。帰還者を集め、消えた人の手がかりを拾い集め、門をほどく手順を探した」
「見つかったのか」
「手順は見つかった。けれど、針が足りない。名前の数が、圧倒的に足りない」
リアが息を飲む。
地下鉄の壁、スミレの三文字が頭をよぎる。
「近く、新しい召喚が起きる」
アルンの声が低くなった。
食堂の端にいた人々も、こちらへ顔を向ける。
「ターゲットは、こちら側だ。帰還者だけではない。この世界の人間が、門の燃料として“観測”され、“選抜”される。スコアの低い者が先に行く。だが最終的には、スコアの高い者も行く。効率のために」
「つまり、アノマリー計画は、都市全体の召喚儀式」
「その通り」
アルンは湊に視線を移した。
「君は探偵だろう。何度も失踪現場を見てきた目だ。その目で見て、信じてくれ。僕らは犯人だ。犯人でありながら、止める方法を探し続けている」
「俺は目の使い方を知ってる。信じるかどうかは後にしよう。信じるより先に、やることがある」
湊は立ち上がり、食堂全体に聞こえる声量で言った。
「俺たちはすぐに動く。まずは壁を増やす。名前を集める。呼び方を整える。門の縫い目に針を差す。帰還者の力を、帰らない人のために使う」
沈黙のあとで、小さな拍手が起こった。
拍手の音は遠慮がちだったが、迷いはなかった。
「リア」
湊が名を呼ぶ。
リアは頷いた。
「私は観測者を止めたい。役割のせいで誰かが消えるのは、もう終わりにしたい」
その声を、アルンはまっすぐ受け止めた。
そして、ふっと微笑む。
「君がそう言ってくれて、僕は救われる」
それは、この場にいる多くの表情にも重なった。
安堵の影、再開の喜び、居場所を見つけた人間の体温。
食堂は、急に家庭の匂いを取り戻す。
湯気が、今日に名前を与えるように立ちのぼる。
◇
夜更け。
臨時会合のあと、湊とリアは地下街の一画にある来客用スペースに通された。
テントとベッド、簡易な棚。壁には古い地図。第三区の下に張り巡らされた排気路、配送路、忘れられた商店街の跡。
「ここなら眠れる」
「眠る前に少しだけ、まとめを」
リアが白紙のノートを開き、今日だけで新しく知ったことを箇条書きにする。観測式、ノアとの接続、召喚の予兆、針にする名前の必要量、そして協力者の一覧。
湊はスマホで通信ログを追い、フォーラムの書き込みの揺れを確かめる。いつもより速い。噂が実体に追いつく速度だ。
「アルンに、具体的な手順の相談をしよう」
「いるかな。さっき人に囲まれてたけど」
「リーダーは忙しい。でも、忙しいときほど孤独だ」
湊が立ち上がったとき、通路の向こうで足音がした。
軽い駆け足。
青年が駆けてきて、息を切らして言う。
「アルンが……いない」
二人は顔を見合わせ、すぐに走った。
食堂を抜け、仮設の司令卓へ。
司令卓にアルンのスマホが置かれている。画面は点いたまま。
表示は、見慣れないインターフェース。ノアのものに似ているが、不気味なほどに簡素で、白地に黒い文字が一行だけ。
帰還完了
あまりにも静かな印字だった。
「ふざけるなよ」
湊の声に、熱が戻る。
スマホを握りしめると、画面の下部に小さな進捗バーが見えた。バーは十分前にいっぱいになっている。完了の定義は、こちら側からは検証できない。
「さっきまでここにいた。会議が終わって、皆が散ったとき、アルンが誰かの相談に乗るって言って、それから」
青年の声が細くなる。
湊は余計な慰めを挟まなかった。
別の問いを投げる。
「カメラは」
「ノアの目は遮断しているはず。でも、完全ではない」
「完全ではないなら、入口はどこかにある」
リアが壁へ近づいた。
司令卓の背面、コンクリートの継ぎ目。
指先がふるえ、そこに触れる。
「冷たい。けど、内側が温かい。門の温度だ」
壁の表面が、ほのかに光った。
以前、地下鉄の壁に浮かんだ紋章よりも淡い。
だが、その淡さは、むしろ深い。薄紙を何枚も重ねた向こう側で燃えている火のように、揺れない。
「ノアが、見てる」
リアの声が震えた。
湊は彼女の肩に手を置く。
「大丈夫か」
「呼び戻されてる。観測者として、再び。私のルーンは消えたはずなのに、向こうは覚えてる。名前が胴体に縫い付いてるみたいに」
「切り離せるか」
「切るには、もう一本、針がいる。アルンの名前で。けど、針を作る時間が足りない。ノアの呼び声は、早い」
湊は司令卓の端に、アルンの手書きメモを見つけた。
明日の予定、壁の増設、門の解析担当、フォーラムへの告知。
その下に、小さく書かれた言葉があった。
帰るな 帰ってこい
二つの矛盾した命令。
矛盾の順序が、彼の迷いだったのだろう。
帰るな、が先。帰ってこい、が後。
彼は、帰りたいのではなく、戻したいのだ。
「リア」
「うん」
「聞いてくれ。俺は現実的に言う。アルンは、“向こう”へ引かれた。ノアが使ったのは、彼自身の祈りと、ここにいる皆の祈りだ。リーダーは、祈られる。祈られるほど、燃料になる」
「残酷」
「だが、祈りは止められない。だから、祈りの流れを変える。個人ではなく、集合に向ける。アルンを帰す祈りを、一人の名前ではなく、この場所の座標へ。帰還先を“帰還者の地下街”に指定する」
「そんなこと、できる?」
「できるかじゃない。やる」
湊の言葉は、誰よりも彼自身に向いていた。
探偵の仕事は、地図にない道を地図に描くことだ。
あらかじめ正しさを検証してから歩くことはできない。
歩くことで、検証が始まる。
「手順は私が組む。観測者として。人の祈りを針にして、場所に縫う。門は人を吸うけど、人の輪郭を縫い直せば、門は“返す”ことを学ぶ。ノアは学習する。なら、返すことも学習させる」
「協力者がいる。みんなを呼ぶ」
湊が拳を握ると、近くの者たちは即座に動いた。
食堂から紙とペン、掲示板からは名簿、倉庫からは古い標識板。
帰還者たちは、指示を必要としなかった。誰かの言葉を受け取るより早く、体が動く。それは戦場で学んだことだ。
戦場の経験が、初めて、正しい方向へ使われる。
リアは壁の前に立ち、静かに目を閉じる。
息を整え、指先を軽く震わせる。
震えはやがて微振動となり、壁の光が呼吸に同調しはじめる。
「始めるよ」
「合図を」
「合図は簡単。名前を呼ぶ。順番に、間を空けずに、同じ声で。呼ぶたびに、座標を言う。帰る先はここ。ここは帰る場所。門は返す」
誰かがスミレの名を呼んだ。
続けて別の誰かが、別の名を呼ぶ。
地下街に、静かな波が生まれる。
祈りの波は、ノアを強くするためではない。
こちら側を、こちら側へ戻すために。
湊は呟いた。
「アルン。帰ってこい。帰るな。どっちも正しい。なら、今は後者だ。こっちにいろ。まだ仕事がある」
スマホの画面は無機質なままだ。
帰還完了。
その完了の意味を、こちらが上書きする番だ。
壁の光が一度だけ強くなり、すぐに落ち着いた。
リアの額に汗が滲む。
彼女の手の甲の薄い紋が、一瞬だけ形を取り戻す。
観測者のルーン。
それは、刃ではなく、針の形を選んでいた。
遠くで、ノアの目が開き、また閉じる。
青い瞳は、学習する。
学習に、間違いはない。だが、学習に方向はある。
彼らは、その方向を、こちら側へ向け直そうとしていた。
◇
夜は深く、地下街の天井は低い。
人々の声は疲れ、しかし折れない。
リアは最後の名前を壁に縫い、ゆっくりと手を下ろした。
「今日はここまで。門は、返すことを覚えた。少しだけ」
「アルンは」
湊の問いに、リアは首を振る。
「まだ。けど、糸は繋がった。手紙のやり取りができる。あとは、呼ばれないように、こちらから呼ぶ。観測の主導権を、少しずつ取り戻す」
「呼び戻されてるのは、君自身でもあるんだろ」
「うん。私の名前も、壁に縫っていい?」
「もちろんだ。お前の名前を、俺が呼ぶ」
リアは少し照れて、でも、真剣に頷いた。
湊はペンを取り、壁の片隅に丁寧に書く。
リア
その三文字は、スミレの隣で、同じ濃さに並んだ。
並ぶことは、守り合うことだ。
守り合うことは、門を弱める。
遠くで、ノアの巡回ドローンが通路を横切った。
レンズは、壁の名前を見ない。
けれど、ノアの奥にある学習のどこかへ、微細な誤差として残ったはずだ。
誤差は、やがて方針になる。
誤差が、都市を救う日が来る。
湊は肩の力を抜き、深く息を吐いた。
リアの横顔は、照明の下で幼く見えた。
帰還者、観測者、異世界、ノア、門。
どれも重い言葉だ。
だが今は、彼女の目の下の小さな影を、ただ見ていたいと思った。
「今日は寝よう」
「うん。明日、交流ホールへ行く。祈りの流れが集中する。そこで門の縫い目を見つけられる」
「アルンは、必ず戻す」
「戻す」
短い約束。
約束は、糸になる。
糸は、切れない限り、必ずどこかへ届く。
地下街の灯りが、少しずつ落ちていく。
最後に残った非常灯が、壁の名前を一枚ずつ撫でて通り過ぎる。
リアはその光景を目に焼きつけ、ベッドに滑り込んだ。
湊は扉の前に座り、しばらくのあいだ警戒を続ける。
静かな息遣い。
時折、遠くで機械の音。
そして、ほんの一瞬、壁の奥から誰かの笑い声がしたような気がした。
子どものように軽い笑い。
アルンの声ではない。
だが、悪い兆しではない。
帰還完了。
その四文字に、別の意味をかぶせる夜が、始まっている。
帰還は、こちら側のために。
完了は、こちら側の決意に。
観測は続く。
だが、観測する者もまた、こちらにいる。
それなら、この都市はまだ間に合う。
帰還者と探偵の作戦は、ようやく、本当の潜入を終えたところだ。
次は、脱出だ。
門からではなく、門そのものから。




