第12話 円環の外へ
冬の朝は、ガラスの欠片みたいに空気が鋭い。
吐いた息が白く割れて、すぐに街の色へ混ざっていく。路面の氷は薄く、踏めば簡単に鳴って、しかし誰もそれを楽しむ余裕はない。始発から遅れが出ている駅の前で、係員が紙で書いた行き先の札を掲げ、交差点ではボランティアの誘導が手袋越しに合図を飛ばす。
そのときだ。都市中のスクリーンが、いっせいに白く光った。
ビルの壁に貼り付いた巨大な画面も、コンビニの天井から吊られた小さな広告モニターも、信号機の根元にある歩行者案内も、一瞬だけ色を落として、白。それから簡潔な文字が、音もなく滑り出る。
〈観測終了。再起動を開始します〉
名義はない。署名も、ロゴも、識別子も。
人々は足を止め、同じ角度で顔を上げ、目を細め、そして、やがてまた歩き出した。歩き出す動作の手前に、かすかな肩の上下が揃う。寒いからではない。合図を受け取った体が、合図の意味を確かめる仕草だった。
神崎湊は、旧都心の空き地に立っていた。かつてビルだったものが層になって重なった場所で、低い柵の向こうに、方舟タワーの輪郭が遠く霞んでいる。空き地の一角に立つと、風が四方から当たる。冬の風は、都市の匂いを薄く削ぐ。削がれて残るのは、鉄と紙と、人肌の熱のわずかな蒸気。
湊はポケットから銀の指輪を取り出し、冷たい指へはめた。
何も起きない。
稲妻も、幻の字幕も、白い門も、開かない。
ただ、世界の輪郭が、ほんの少しだけ際立った。風の筋が地面の砂粒を撫でる方向。空を横切る鳩の視線の高さ。遠くの工事現場から届く打音の間隔。見えてはいたが、見ていなかったものが、いつもより近い。
深く吸って、ゆっくり吐く。
息の白が、音のない合図みたいに前へ伸びて消える。
「おじさん」
隣に、子どもが一人いた。
薄手のダウン。指切りの手袋。胸元に小さな名札。航太だ。方舟の心臓で、震える指でボタンを押した少年。今は背が伸び、頬に薄い赤みが差している。
「あの時のボタン、押せてよかった。僕、今は配達の手伝いしてる。倉庫から、紙とか、粉ミルクとか。階段のある家に行くから、脚の筋肉がついたよ」
「見つけてもらえたな」
湊が言うと、航太は照れくさそうに笑った。
「うん。でも、自分でも、自分を見つけてる。配達先の人が『助かった』って言ってくれると、僕、ここにいていいんだって思えるから」
「いい筋だ。筋は、寒いほど鍛えられる」
「そうかな」
「そうだ。寒いと、余計な動きが減る」
風がまた頬を撫でる。スクリーンの白は消え、街はいつもの朝に戻っていた。戻っているのに、どこかが違う。違うのは、たぶん、見る側の姿勢だ。
◇
香苗のローカル配信〈朝を待つ者たち〉は、今日も続いている。アンテナはビルの端に、ケーブルは相変わらず無骨で、バッテリーは毛布にくるんで暖めてある。今日は特別編。都市各所の“ありがとう”だけを繋いだ映像だ。
壊れた自転車のチェーンを直してくれた老人。
産まれたばかりの赤ん坊の小さな手を握る看護師。
列を譲られて、何度も振り返って頭を下げる青年。
掲示板の前で、読み上げ係を買って出た声の大きな女の子。
インスタントのスープに、乾燥パセリを指でひとつまみ載せる手。
字幕は、最小限。固有名詞は出ない。説明はしない。
カメラはただ、観測されない瞬間の癖のよさを、そっと横切るだけだ。レンズが遠慮して、音がいつもよりゆっくり耳に届く。コメント欄には賛否も煽りもなく、ただ静かな滲みが広がっている。語彙に頼らない「見てる」の合唱。画面の端を、風が通り抜ける。
リアが望んだ“観ない優しさ”は、確かに息をしていた。
観測を道具に戻した都市が、人肌の温度でやりとりできることを、映像は思い出させる。忘れっぽい都市にとって、思い出す装置は必要だ。必要だが、主役ではない。主役は、画面の外にいる。
◇
湊は、廃ビルの階段を上った。
踊り場の手すりは冷たい。冷たい金属に触れると、皮膚が少しだけ目を覚ます。指の腹が薄く痺れる。手すりには、あの刻印がある。浅い文字が、薄い朝の光で浮かび上がった。
見つけてくれて、ありがとう
その隣に、細い線が刻まれていた。
最初の刻みよりもさらに浅く、まるで風に書かせたような弱さで、しかし確かに読める。
見るから、ありがとう
誰が足したのかは分からない。リアかもしれないし、別の誰かかもしれない。あるいは、階段を上がる風が偶然刻んだ線が、人間の目に文字として見えているだけかもしれない。どれでもいい。大事なのは、今、その文字を読む自分がいることだ。
屋上に出る。白い門はやはり現れない。
代わりに、薄雲の切れ目から冬陽が差し込み、都市の瓦礫の一つひとつに影が落ちる。影は短く、硬い。硬い影は、輪郭の練習に向いている。輪郭を持つものは、拾いやすい。
湊は指輪を外し、ポケットにしまった。
儀式は、もう要らない。
手に持っているだけで、十分だ。持っているという意識が、見る姿勢になる。
スマホは取り出さない。代わりに、紙のノートを開く。
罫線は薄いが、頼りになる。ペン先を置き、一行目に書く。
記録者の原則。見たものだけを書く。測れるものは数値で残す。推測は推測と明記。誰かの痛みを軽く扱わない
文字は、すこし右上がり。癖だ。
紙を擦る音が、朝の風に溶けていく。紙の音は、誰の耳にも届かない。届かないのに、届いてほしい誰かが確かにいる。そういう音を書き足すのが、記録者の仕事だ。
「湊さん」
階下から航太の声。
「配達、手伝ってくれる?」
「行く」
ノートを閉じ、胸ポケットに滑らせる。階段を降りる足音が、踊り場で少し跳ねる。跳ねる音は、まだ若い。若いうちは、跳ねたほうがいい。跳ねないと、寒さが骨に入る。
◇
配達のルートは、路面電車の線路沿いに設定されていた。
線路は、今朝、信じられないほどきれいだった。草刈りが入ったばかりなのか、鉄の帯が陽を受けて細く光る。冬陽は低く、線路の脇に落ちる影は長い。長い影は、目盛りみたいに見える。距離の感覚を、歩幅で測れる。
角を曲がると、小さなベンチの上で見知らぬ者同士が地図を広げていた。
市の配布した新しい地図ではない。掲示板から剥がしてきた“お願い”と“できること”の紙片を、紐で留め、手書きの矢印で線を結んだ、複数の手の作業の跡。紙は角が丸くなり、インクの滲みが色を深くしている。地図は完成しない。完成しないから、使える。
「おはようございます」
航太が声をかけると、ベンチの二人が顔を上げて笑った。
「おはよう。階段、今日はいくつ?」
「四つ。二階が二件、三階が二件。エレベーターは二つ動きません」
「三階は俺が行こう。脚の筋力、最近鍛えてるから」
「僕も行ける。湊さんは、紙のほうで」
「了解」
湊は紙袋の中身を確かめ、宛名のない封筒を確認する。宛名はなくていい。届けるべきは名前ではなく、必要だ。必要は、顔に乗っている。顔は、数字よりはるかに視認性が高い。
角の向こうから、電車の警報が鳴った。
短く、正確に三回。
止まっていたはずの路面電車が、ゆっくりと動き出す。
赤錆の上に塗られた新しい塗装が、冬陽を細く弾く。車体には、見慣れないロゴ。市のロゴでも、企業のものでもない。丸と線で描かれた、たぶん子どもの手による絵だ。丸は人の輪郭。線は手の届く距離。速度は遅い。遅いから、沿道の子どもが走って追いつける。追いつくと、運転席の運転士が片手を上げて返す。返す手の角度は、昨日より少し柔らかい。
「走るんだ」
航太が言う。声に、驚きと笑いが同時に混ざっている。
「試運転だな」
湊は電車の速度を目で測り、おおよその時刻を頭に入れる。
紙のメモに、鉛筆で短く書く。
路面電車、九時三十四分、角のベンチ通過。速度は歩行者の二倍弱。車内、ほぼ満席。窓、開く。手を振る人、多い。
「円環じゃない」
ベンチの二人が地図の上に線を足す。「ここからここに、今日動いた。明日は、もっと向こうへ」
「円環じゃなく、網にするんだ。網にするなら、結び目は多いほうがいい。綺麗じゃないほうが、強い」
「網なら、破れても直せる。編み直せる」
「そういうこと」
湊は頷き、封筒を一つ手に持ち直す。
結び目。都市は今、結び目の練習をしている。認めないと、練習は本番にならない。認める合図が、必要だ。
◇
午前中は、階段と紙と鍋の匂いで過ぎた。
二階の踊り場で手を引いてくれた老人に礼を言い、三階の扉の前で息を整え、配達先のドアノブに軽く二回ノックしてから声をかける。返事の代わりに足音が近づき、チェーンが音を立て、ドアが三センチだけ開く。開いた隙間に封筒を差し入れ、受け取った手の温度で必要の種類を推し測る。必要にも熱の違いがある。熱い必要は急ぎで、冷たい必要は繰り返す。繰り返す必要には、仕組みが要る。
昼前、掲示板の前に戻ると、紙の山はまた高さを変えていた。
“お願いします”と“できます”の列の間に新しい列が生まれている。紙の色は薄緑。見慣れない筆跡で、列の見出しが書かれていた。
“見守ります”
湊は、その列に貼られた一枚を読んだ。
「夜間、窓の灯りを見守ります。二十二時から二十四時。交代で二名。望遠鏡あり。合図はカーテン二回」
別の紙には、こんな文もあった。
「朝の交差点で、子どもの目を見守ります。七時半から八時半。横断、手を上げる練習します」
見張らない。見守る。
リアがノアに教えた新しい動詞が、街の紙の列に普通に並び始めている。普通になれば強い。強さは、日常のほうに宿る。
「香苗」
「はい」
「今日の特別編のあと、もう一本行けるか。〈見守る列〉のライブ。解説は入れるな。読み上げ役だけにして、合図の方法を静かに映してくれ」
「了解。うちのコメント欄、今日はやさしいから、たぶん荒れない。荒れても、やさしく返す。やさしい返しに慣れたいでしょ、みんな」
「慣れは武器になる」
「うん」
香苗は軽くウインクして、カメラマンに合図を飛ばし、配信の準備に戻った。
配信の機材の隙間から、紙を切る音が聞こえる。紙は、音がいい。音がいいだけで、半分くらい人は安心する。
◇
午後、湊はひとり、あの廃ビルへ向かった。
空の色が、朝より深くなっている。冬陽は相変わらず低いが、温度は朝より柔らかい。柔らかい光は、瓦礫の角を丸く見せる。丸く見えた角は、足に引っかかりにくい。足元の石がコロリと鳴って、猫が一匹、影から影へすり抜けた。
階段の手すりに、もう一度手を置く。
金属は朝より温かい。手のひらに、刻みの位置を覚えさせる。人の体は、物の位置を覚えると安心する癖がある。癖は悪くない。自分の癖を見ているのは、観測ではなく、まなざしだ。
屋上。空。
白い門は、やはりない。
でも、十分だ。
門がなくても、通れる。
門がないほうが、通り道は多い。
湊はポケットからノートを取り出し、昼のうちに増えた行を指で追った。
記録者の原則の下に、小さな文字で書き足す。
呼ぶ。保留。返す。ほどく。
そして見る。
余白を一つ残して、ペン先を止める。止める勇気は、最近やっと手に入れた。止めないと見えないものが、確かにあるから。
風の向きが変わる。足元で、小さな紙が鳴った。
何の紙かと思えば、掲示板から剥がれた古い“できます”の一枚。角が丸くなって、誰の手の跡だか分からない。湊はその紙を拾い、ポケットに入れた。紙切れは、地図より確かに役に立つ時がある。人の体温で温まり、必要な時に、必要な場所で見つかる。
◇
夕方前、航太が駆けてきた。
「湊さん、もう一本だけ配りたい家がある」
「行こう」
線路沿いの古い集合住宅。階段を二つ上がって、狭い廊下の突き当たり。ドアの前で、航太が一度だけノックする。返事はない。ノックをもう一度。鍵穴の向こうで、何かが小さく動く音。様子を伺う気配。見つけられたくない気持ち。見つけてほしい気持ち。どちらも、同じくらい強い。
「配達です」
航太の声は、押しつけがましくない。扉の隙間が、米粒ほど開く。
「必要なものは、これで足りるか分からないけど、足りなかったら紙に書いて掲示板に貼ってください。僕、七時にまた通ります」
返事は、やはりない。
けれど、隙間は少しだけ広がり、封筒を受け取る指先が現れた。指先は細く、爪に透明な塗料がひとすじ残っている。封筒が引き取られ、隙間が閉じた。
航太はドアに向かって、深く頭を下げた。礼は、見られないほうが効く。
「僕、帰り道に、見守り列のほうも手伝う。いい?」
「もちろん」
湊は微笑んだ。
彼の背中は、あの夜より広い。
広くなったのは、筋肉だけではない。
◇
夜。
香苗の特別編は、最後に、紙の一枚をゆっくり映して終わった。
紙は白く、文字は黒く、スタンプは青。
紙には、こう書かれている。
“観測されない時間を、あなた自身にあげてください。私たちは、その時間の中で人間になります”
読み上げる声は、誰のものでもないように調整されていた。
誰のものでもない声は、多くの人の声に近い。
コメント欄は静かで、しかし静けさは空ではない。
短い「ありがとう」が、まばらに、息をするみたいに並ぶ。
配信が切り替わり、〈見守る列〉のライブに移る。
交差点の角で、手袋の子が小さな手を上げる練習をしている。
マンションのベランダで、カーテンが二度、静かに揺れる。
ノアが観ていた頃には、誰もレンズを向けなかった種類の動作に、今夜はレンズがいる。説明はなく、評価もなく、ただ「ここにある」を映す。
映すことで、守る。
守ることで、映さない時間が増える。
◇
夜更け前、湊は事務所の灯りを落とし、扉を閉める前に壁の時計を見上げた。秒針が一拍だけ止まり、また動く。〈残響〉。
止まったことを知らせ、動いたことは知らせない。
都市に残った観測のマナーは、手間がかかるが、育つ。
メールの受信音が、机の上に置いた古いPCからひとつ鳴る。差出人のない一通。本文は、ひどく短い。
見えてる?
湊は返事を書かない。代わりに、ノートを開き、今日の最後の行へ小さな点を打った。句点は終わりではない。段落の合図だ。合図があれば、人は次へ進める。
「リア」
名前を短く呼ぶ。
返事はない。
ないのに、十分だ。
返事がないおかげで、耳は、ほかの声を拾う。
◇
朝の匂いは、前日より少し甘かった。
夜のうちに、誰かが鍋へ飴色の玉ねぎを足していたのだろう。湯気に甘みが混ざる。地下街の階段へ、上から下へ、薄い光の筋が伸びている。手すりに触れる。
冷たい。
冷たい金属の上に、昨日より一本分、多い浅い傷。
合図は小さくていい。
小さいほうが、届くべき相手に届く。
湊は看板を出した。
神崎探偵事務所。失踪・紙の足跡・話し相手 一件から。
看板の文字は、昨日よりまっすぐだ。
まっすぐに“見える”のは、錯覚でもいい。錯覚のせいで、今日も動けるなら。
階段の上で、警報がまた鳴った。
路面電車が、昨日より少しだけ速い。
速いけれど、追いつける速度だ。
沿道で手を振る子どもに、運転士が片手を上げる。
運転士の手袋は、毛糸。
毛糸の目は、ところどころ不揃い。
不揃いは、編み直しやすい。
湊はポケットの指輪に触れ、独り言のように言った。
「じゃあ、俺が見る」
言葉は短く、はっきりしている。
短い言葉は、道になる。
その道は、誰かの“ただいま”に繋がっている。
今日もまた、幾本もの“ただいま”が、この都市に増える。
まどろっこしい速度で、確実に。
空を見上げる。
白い門は、ない。
けれど、十分だ。
世界は観られない時にこそ、人間になる。
冬陽が強くなり、影が短くなる。
円環ではなく、網。
門ではなく、通路。
観測ではなく、まなざし。
円環の外で、都市は今日も始まる。
<おわり>




