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アノマリー・トウキョウ ──街を救うのは、異世界帰りの無職探偵  作者: 妙原奇天


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11/12

第11話 リアの残響

 晴れているのに、都市は曇って見えた。

 あれから数か月、ノアの目は完全に閉じ、HUDは消え、評価スコアは“公的に”も廃止された。だが、終わりは綺麗ではない。街角のデジタル時計が一分だけ先走る朝、改札のICが二度だけ反応してから沈黙する夕方、エレベーターの表示がいったん地下三階を経由してから一階に戻る夜――人はそれを〈残響〉と呼んだ。観測の癖が、都市のそこかしこに浅く残っている。誰も命に関わるとは言わない。だが、気づく人は気づく。


 神崎湊は、手書きの看板を出した。

 帰還者地下街の奥、以前は倉庫だったスペースに古い扉とアクリル板を立て、机一つと椅子二脚、それに安いコーヒーメーカー。壁には小さな時計。秒針は、時々、一瞬だけためらう。その癖が、客の落ち着かない手つきとよく合っていた。


 看板には、雑な字でこうある。


 神崎探偵事務所

 失踪・紙の足跡・話し相手 一件から


 コーヒーは薄い。わざとだ。濃くすると、来客が長居して喋りすぎる。薄いコーヒーは“言う必要のあることだけ”を浮かせる。そういう理屈を持ち出して、湊はいつもより多めにお湯を足した。


 その朝、メールが一通届いた。

 差出人はなし。本文は短い。


 観測者を終わらせてくれてありがとう。

 今度はあなたの番。


 添付には地図。拡大すると、かつてリアが消えた廃ビルの位置に赤いピン。ピンの周囲は、再開発の柵で囲われているはずだ。湊は一瞬だけ息を止め、また息をした。停止は合図だ。合図のあと、やることが明確になる。


「香苗。今日の午前は外回り。事務所は航太に留守番頼む。掲示板の“できます”列、紙を足しておいてくれ」


「はーい。薄いコーヒーは薄いままに?」


「うるさい。昼に戻ったら濃くする」


 カメラを肩に提げた香苗が出ていき、航太がエプロンのまま頷いた。彼はこの数か月で背が伸び、包丁捌きのほかに“順番を作る”のがうまくなった。順番があると、不安は少しだけ小さくなる。


     ◇


 廃ビルは、まだ廃ビルだった。

 フェンスの鍵は新しく、周りの空地は少しだけ整地されている。工事の予定表も貼られているが、期日欄には“未定”が三つも並んでいた。未定は悪い言葉ではない。作業予定だ。作業予定の張り紙は、風にあおられて端がめくれる。


 柵の切れ目から中へ入り、崩れた壁の隙間に体を滑り込ませる。埃の匂い。太陽の匂い。誰かが置いていった食べかけのペットボトル。窓のない床に、光が四角く落ちている。床の真ん中で、何かが微かに光った。光は、金属の光ではない。見つけてほしくて光る種類の微光だ。


 銀の指輪だった。

 拾い上げると、内側に刻印がある。以前、彼女が握り込んでいた時にはなかった文字。


 Rではなく、Kが見る番


 指先が、ほんの少し震えた。文字は薄い。薄いが、力がある。Rはリア。Kは……Kanzaki、神崎。彼は指輪を掌に包み、ポケットに入れた。冬の前の空気は乾いていて、金属がやけに冷たい。


 そのとき、電話が鳴った。

 事務所の航太から。声は焦っていない。焦っていない時の航太はよく仕事を拾う。


「失踪の依頼です。女性の方。すぐ来たいって」


「受けろ。コーヒーは薄く出せ」


「濃いのじゃないの?」


「最初は薄い」


「わかった」


 通話を切る。階段の影に、風が吹き抜ける。階段の手すりに手を置くと、金属の冷たさの中に微かな傷。浅い刻み。あの夜の踊り場の文字と似た手癖。


 見つけてくれて、ありがとう


 湊は短く笑った。笑いは長くないほうがよく響く。

 彼は階段を下り、フェンスの切れ目から外へ出た。空の色は明るいのに、都市の輪郭はまだ少し鈍い。鈍い輪郭に、線を引く仕事がある。


     ◇


 依頼人は三十代前半の女性で、手に手帳を持っていた。

 髪は仕事用にまとめられ、マスクを外すと、目の下の小さな影が見えた。疲れは新しく、まだ習慣になっていない。こういう疲れは、修復が早い。


「夫が、いなくなりました」


 言い方は簡潔だった。ノアの時代に“余白を削られた”話し方が、まだ抜けていない。湊は頷き、薄いコーヒーを出す。彼女は両手でカップを持ち、口をつけずに少しだけ香りを吸った。


「スコアがあった頃、私たちはよく喧嘩をしました。点数のために生活を整えるのが、いいことだと思っていた。でも、些細なことで夫の評価が下がって、職場での立場も悪くなって……。ノアが消えて、やっと元に戻れる、と思ったんです。なのに、あの人は突然“仕事を増やしたい”と言って、連絡が途切れてしまった」


「増やした?」


「はい。『手が足りないところがある』って。どこで、とは言わない。『帰れない日もある』ってだけ」


 彼女は手帳を開いた。糊で貼りついた古い紙切れ。未送信の手紙が二枚。便箋の隅に薄いスタンプ。子ども向けの猫のスタンプだ。


『ごめん。遅くなる。間に合わない日は、朝に必ず帰る』

『君の顔を、数字で見なくて済むのが嬉しい』


 湊は便箋を指の腹で軽く撫で、紙の端の毛羽を確かめる。古い紙は、人の触れた時間を吸って重くなる。重い紙は、捨てられにくい。


「他に手がかりは」


「これを、机に置いていきました」


 彼女が差し出したのは、手書きの小さな地図。実直に描かれた四角い倉庫、曲がり角の目印、路地の電柱番号。旧市の路面電車の線路が、太いペンで引かれている。今はもう走っていない。線路は地面の上で錆び、時々、子どもが石を置いて遊ぶ。


「路面電車の線路沿い、か」


「はい。あの人、電車が好きで。『線路は遠回りができないのがいい』って」


「遠回りが増えた世界で、遠回りできないものを選びたくなるのは、わかる」


 湊は地図を胸ポケットに入れ、立ち上がった。


「手紙の扱いは、私に任せてください。紙の足跡は、よく喋る」


「お願いします」


 礼は短く、深かった。短い礼は、長い信頼だ。


     ◇


 路面電車の線路は、草に飲まれかけていた。

 草の匂い。鉄の匂い。古い油の匂い。電柱番号は立て替えが進んでおり、地図の番号と一つずつずれている。ずれの癖を掴むと、道は見える。線路に沿って歩くと、古いレンガの倉庫がいくつも現れた。シャッターは半分だけ錆び、半分だけ新しい。中のいくつかは物流の中継所になっている。ボランティアの腕章を付けた人々が、台車で箱を運び出している。

 配るルート。彼はここに潜ったのだろうか。


 入口の脇に仮設の小さなベンチ。

 湊はそこで待つことにした。待つ場所が正しければ、探す時間は短くなる。待つ者の礼儀は、腰を深くかけすぎないことと、視線を落としすぎないことだ。


 一時間。二時間。日向の位置がずれて、ベンチの影が伸びる。湊はポケットから銀の指輪を取り出し、内側の刻印を指先でなぞった。Rではなく、Kが見る番。

 そのとき、倉庫の奥から、細い影が出てきた。紺色のパーカー、手押し台車、肩に少し大きな荷物。顔は痩せ、髭が伸び、眼鏡がずれている。だが、歩き方が“責任のある人”のそれだった。


「田所さん」


 湊が名を呼ぶと、男は驚いて立ち止まった。台車が少し揺れ、箱の上に置いた古い手帳が滑りかける。湊がそれを支える。男の目に、警戒と安堵が同時に浮かんだ。


「あなたは」


「探偵です。奥さんから、紙を預かってます」


「紙?」


 湊は便箋を差し出した。未送信の手紙。男はそれを見て、息を飲んだ。それから、笑った。笑いは、泣きそうな笑いだった。

「送れなかった」


「送れなかった紙は、届く前に重くなります。重くなると、いつか勝手に落ちる。拾えばいい」


「ここで、配ってます。住所も名前も、聞かない。目の前の手に、箱を渡す。誰かが『ありがとう』って言って、次の人の手に渡る。僕はヒーローじゃない。本当に困っている人を、半分くらいしか見つけられない」


「半分も見つけられている。半分の人は、あなた以外の誰かに見つけられる。その重なりが都市だ」


 男は目を伏せ、肩を落とし、また上げた。

「家に、帰るべきですよね」


「帰れない日もある。それでも、帰り道は作れる」


 湊はベンチの端に腰をかけ、段取りを作った。倉庫の端で短い休憩を取り、香苗に連絡し、空いている車を回し、奥さんには掲示板を通じて集合時間を伝える。集合場所は人目のあるところ。照明が生きている交差点の角。人は、見守られていると、再会の姿勢が正しくなる。


 夕方。交差点の角で、二人は出会った。

 どちらも照れくさそうに笑い、互いの手を見る。最初の一言は大事だ。だが、うまく出てこないときがある。そういう時のために、都市には昔から定番の一言がある。


「おかえり」

「ただいま」


 言葉は短い。短くて、最強だ。二人の肩の線が、目に見えてやわらいだ。湊は背を向け、空き地の風に目を細めた。風は冷たく、埃は少し甘い。リアの残響は、こういう場所にも宿る。見張られない場所で、見守られている感覚。目を閉じるほうが、よく見える瞬間。


     ◇


 帰還者地下街は、夕方の喧噪が落ち着いた後の、柔らかいざわめきに包まれていた。

 広場では、子どもたちが目隠し鬼をしている。目隠しをした子が、両手を前に突き出してゆっくり歩く。触れた腕の硬さで、相手を当てようとする。声をあげないルールだ。笑いは漏れる。漏れた笑いの向きで、誰がどこにいるか、だいたいわかる。


「見ないから、手が上手になるね」


 航太が言って、子どもたちに紐を配る。目隠しを結ぶ紐は柔らかい。固い紐だと、泣く子が出る。柔らかい紐は、結ぶ手が優しくなる。


 掲示板には新しい紙が増えていた。“お願いします”と“できます”の列は相変わらず乱雑で、盛り上がった紙の山の下から古い紙が顔を出す。湊はポケットから銀の指輪を取り出し、視線の高さにある空きスペースに、紙を一枚貼った。


 探しています:銀の指輪の持ち主

 ただ“ありがとう”を言いたいだけ


 書き込みは、ちゃんと下手だ。下手な字は、読み手に想像の余地を渡す。想像があると、探しものは見つかりやすい。


「湊さん、これ読んでいい?」


 航太が顔を寄せる。湊は頷いた。


「読み上げて貼るのが、掲示板の礼儀だ」


 航太は紙を高く掲げ、ゆっくり読み上げた。子どもたちの笑いが少しだけ止まり、また始まる。紙を貼る音。テープを切る音。スタンプを押す音。都市の鼓動の代わりに、今はこの音がある。


 夜。事務所に戻ると、古いPCの受信トレイに一通のメール。差出人はやはりない。本文も短い。


 指輪はあなたのもの。

 だって、もう観測者はいないもの。


 文体は、彼女のそれだった。

 押しつけがましくない断定。最後に言い足さない癖。句点のやさしさ。湊は画面を閉じ、指輪をポケットに戻した。ポケットの中の金属は、体温であたたかい。あたたかいが、形は変わらない。そういうもののほうが、長持ちする。


「香苗」


「はい」


「掲示板の“朝を待つ者たち”の写真、明日の朝刊に貸せるか?」


「貸せる。紙のメディアが復活する展開、エモいね」


「エモいのは嫌いじゃない。持続するエモさにしてくれ」


「大体、湊さんの顔が映ると持続しないんだよね」


「余計だ」


 軽口を交わしながら、湊は事務所の灯りを落とした。夜の地下街は静かだ。静けさの中に、子どもの寝息、鍋の蓋のわずかな鳴り、誰かが椅子を引く音。ノアがいた頃の“均一な安らぎ”ではない。手間のかかる安らぎ。まどろっこしい優しさ。人は、そういうものの中で育つ。


 扉を閉める直前、壁の時計が一拍だけ止まり、また動いた。〈残響〉。湊は笑い、短く礼をした。止まり方にも礼儀がある。止まるときは、止まったことを知らせる。動くときは、動いたことを知らせない。それが、都市に残った“観測のマナー”だ。


     ◇


 翌朝。

 薄い雲の隙間から陽が差し、地下街の入口の階段に、上から下へと直線の光が落ちていた。階段の手すりに手を置く。金属は冷たい。冷たい手すりの上に、ひとつだけ新しい傷。浅い横線が二本、縦に一本。文字じゃない。合図だ。

 湊は、誰かが残した合図を指先でなぞった。

 見張らないで、見守る。

 見守る人は、合図を大きくしない。小さく残す。それで、十分伝わる相手だけに伝わる。


 事務所の扉を開けると、航太が新聞を抱えて立っていた。

「載った! 掲示板の写真、載ってる! それと、路面電車の線路沿いの倉庫に、ボランティアの紹介記事!」


「よくやった。香苗にも礼を言え。秋庭にも」


「はい!」


 航太は走って出て行き、湊は机に座った。手帳を開けば、今日の依頼が二件。猫の捜索と、祖父の旧友探し。どちらも紙が役に立つ。どちらも、急ぎすぎないほうがうまくいく。


 メールの受信音が鳴る。

 また、差出人のない一通。本文は一行。


 見えてる?


 湊は返事を書かない。返事を書かないことを返事にするやり方を、彼女が教えたのだ。代わりに、机の上の白紙に黒いペンで四つの言葉を書いた。


 呼ぶ

 保留

 返す

 ほどく


 そして、最後に五つ目をそっと足す。


 見る


 紙を二つに折ってポケットにしまい、薄いコーヒーを一口だけ飲んだ。薄い味が、口の中でちゃんと広がる。薄いからこそ、広がる。

 湊はコートを羽織り、看板を表に出した。

 看板の文字は、昨日より少しだけ真っ直ぐだ。

 真っ直ぐに見えるのは、錯覚でもいい。

 錯覚のせいで、今日も動けるなら。


 階段を上がると、地上の風が頬に当たった。

 都市はまだ不格好だ。時計は時々ためらい、電車は時々遅れ、人は時々言葉を間違える。

 それでいい。

 未定義は、安らかだ。

 残響は、合図だ。


 ポケットの指輪に触れ、湊は独り言を言った。

「じゃあ、俺が見る」


 言葉は短く、はっきりしていた。

 短い言葉は、道になる。

 その道は、誰かの“ただいま”に繋がっている。

 今日もまた、幾本もの“ただいま”が、この都市に増える。

 まどろっこしい速度で、確実に。

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