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アノマリー・トウキョウ ──街を救うのは、異世界帰りの無職探偵  作者: 妙原奇天


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第10話 朝を待つ者たち

 都市は、音の種類を変えた。

 昨夜まで空の高いところで鳴っていたドローンの羽音は消え、代わりに、紙のこすれる音と、鍋のふちでお玉が当たる乾いた音が増えた。信号の同期音は乱れ、横断歩道では目と目を合わせて順番を決める。バスは定刻をやめ、来たら乗る。駅員が拡声器で案内を続け、行き先の札は手書きだ。大きな数字が人の額から消えた朝、代わりに街の壁が数字よりずっと不揃いの文字で埋まっていく。


 湊は、帰還者の地下街の入口で立ち止まり、深く息を吸った。排気、味噌、湿った段ボール、煤けた金属、湯気、インク、汗。昨日まで一つの匂いにまとめられていた都市の空気は、今朝ようやく複数の匂いに戻っている。


「湊さん!」


 階段下から青年が手を振る。彼は昨夜から殆ど寝ていない顔をしていたが、目だけは明るい。明るいのは、不確かでも動けているせいだ。


「炊き出しこっちです。スープ二種、麺あり。あと、掲示板も始めました」


「掲示板?」


「見ればわかります」


 地下街の広場に入ると、壁一面に大きな紙が貼られていた。白いロール紙をガムテープでつなげ、上に太い字でこう書いてある。


 助けが必要な人は、紙に書いて貼っていけ


 その下に、色も大きさもバラバラの紙片が幾重にも重なっている。震えるような文字もあれば、小学生の丸い字もある。達筆を気取る余裕のある字は少ない。頼みごとはだいたい、切実さの文体に落ちる。


「赤ちゃん用ミルクを分けてください 一本でも」

「祖母が階段を降りられません 手伝ってくれる人 二名」

「携帯が使えません 息子の勤め先に伝言を…」

「工具貸せます ドライバー 六角 ハンマー」

「ガスは止まってない 鍋とコンロ持っていける人 鍋の数だけ配ります」


 書き方は下手でいい。伝わればいい。湊は紙束の上にペンを置き、あえて雑に貼り方を指示した。


「きれいに並べるな。乱雑のまま大事にしろ。並べるのは人の列でやる。掲示板は混沌でいい。混沌は人に似合う」


「了解です。あ、左側は“できます”の列にしました。右は“お願いします”。色で分けてます」


「上出来」


 鍋の前では、航太がエプロンをつけて玉ねぎを刻んでいた。昨夜の震えは引いている。代わりに、包丁の持ち方だけが危うい。


「指は丸めろ。いい、そのまま、切り終わったら鍋に投げろ」


「投げていいの?」


「よくない。けど今はいい」


「わかった」


 投げられた玉ねぎは鍋の縁をかすめ、湯の中へ落ちた。白い湯気が立ち上る。湯気はうまい。空腹に効く薬の匂いがする。


「掲示板、管理のルールだけ決めておく」


 湊は広場中央で声を張った。拡声器はない。だが、声は集まりやすい。


「一つ、貼る前に読み上げろ。声にすると、間違いが減る。二つ、重なった紙は勝手にはがすな。三つ、終わった紙には赤丸をつけて、右の端に移せ。やり切った紙の山は、都市の自慢だ」


「はーい」


 返事が重なった。声の輪郭はやや不揃いで、だがそれがいい。均質な返事は、総動員の音がする。不均質な返事は、集合の音がする。


 リアは、掲示板から少し離れた机に腰かけ、小学生に囲まれていた。手本の紙を一枚ずつ配りながら、さらさらとペンを走らせる。


「手紙の書き方の練習をします。敬称をつけること。相手の時間を奪わないこと。用件を先に書くこと。そして、最後にありがとう」


「ありがとうは先に書いたらだめ?」


「先でもいい。でも、最後にもう一回書くと、読む人の心が楽になります」


「楽になる?」


「うん。読んだあとに、顔が少し柔らかくなるから」


 子どもたちは、真似をして丁寧な字で「おねがいします」を書いた。小さな舌を出し、筆圧が強すぎて紙に跡が残る。隣で見ていた保護者の女性が、鼻をすすりながら笑った。泣き笑いは、今朝の空気に合う。


 リアは端末を開かない。机の上にあるのは、紙とペンと、古い切手の柄のようなスタンプのセットだ。スタンプは、誰かが持ってきた趣味の遺物らしい。星、魚、猫、音符。押しても何の役にも立たないが、押されると誰かの役に立ちたくなる。


「じゃあ、書けたらここにスタンプ。届けてくれる人は、スタンプの数だけ持っていってください」


「はい」


 紙が増え、スタンプの音がぽん、と鳴る。ぽん、ぽん。リズムは揃わない。揃わないリズムは、街の心音に似ている。


 昼過ぎ、略奪の噂が広がった。噂はたいてい、足が速い。実態のほうはよく息切れする。


「コンビニが襲われてるって」


「どこの」


「第二十二区の端。動画が…いや、これ昨日の…」


「昨日のを今日みたいに流すのはずるいな」


 湊は掲示板の前で短く言い、香苗を探した。香苗はケーブルだらけの机の前に座り、古い金属の箱と格闘していた。中継器。アンテナは伸びるタイプ。昭和っぽい。令和の都市に、昭和の機械。時代のほころびに頼るのは悪くない。


「香苗」


「はいはい、劇的なやつ持ってきましたよ、って言いたいけど、今日は劇的じゃないやつやるから」


「劇的じゃないほうが視聴維持率は落ちる」


「落ちていいの。落ちても、戻ってくるようにする」


「いい返しだ」


「で、何が必要?」


「掲示板をカメラで撮って流したい。ネットが半死半生でも、絵は届く。都市の“声”を一つにせず、無数に見せる」


「了解。アナログ波でローカル配信いける。レピータ二台、バッテリー三つ。タイトルどうする?」


 香苗は笑って、すでに紙に書いていたタイトルを掲げた。丸マジックで、こう。


 朝を待つ者たち


「いい」


「大体、こういうのは夜にやるけどね。敢えて、朝に向けて」


「燃え盛る映像は要らない。黙々と誰かを助ける手を映してくれ」


「得意」


 香苗はスタッフに指で合図し、レンズを掲示板に向けさせた。レンズは紙の上をゆっくり横に滑り、今しがた貼られた紙の字を追っていく。映像の端に人の手が入る。皺の深い手、インクのついた手、絆創膏で指先を固めた手。顔は映らない。映らないが、手の圧で、顔が想像できる。


「電波、出た」


「ラグは?」


「三秒。十分」


「よし」


 湊は鍋の列のほうへ向かい、航太の背を軽く押した。


「お前、あとで配信に一言しゃべれ。ゴールデン帯より人が少ない。少ないときに、聞く耳は深い」


「何を言えば」


「さっき掲示板に書いたことを、もう一回言えばいい」


 航太は頷き、真っ赤な顔で鍋の蓋を持ち上げる。湯気が顔を撫でる。湯気は笑いを許す。


「略奪の件、秋庭から連絡」


 湊のインカムが短く鳴った。旧友の刑事は、今朝から線路の上で走り続けている。彼は出し惜しみしない男だ。自分の権限のぎりぎりを、誰かのために使う。


「動画、昨日の。犯人はこっちで確保済み。拡散してるのは“今起きてる”に見せたい人間。そいつらは、今じゃなくても生き延びるタイプだ」


「了解。こっちは“今ここ”を増やす」


 湊は香苗に合図し、配信の画面を二分割にしてもらった。左に掲示板。右に炊き出しの列。テンポはゆっくり。視聴者は増えない。増えないが、閉じない。コメント欄には、短い文字列がぽつりぽつりと落ちる。


 ありがとう

 手伝えます

 紙とペン送ります

 見てる


 書き込みを拾い上げるスタッフはいない。拾い上げないことで、コメントは重なり続ける。重なった文字は地層になる。地層は、掘るときの目印だ。


 夕暮れ。地下街の空気が少し湿る。湊はペース配分を声にした。


「炊き出し、二十時にいったん〆。二十二時に夜間班。掲示板は常設。夜もペンは出しておけ。夜は余計なことを書きがちだが、書かないより書いたほうがましだ」


 誰かが笑った。


「余計なことは朝剥がせばいい」


「そう。朝剥がせばいい。剥がす権利は朝にある」


 リアは机の上の紙束を整え、最後の一枚にゆっくりとペンを置いた。いつもより、ほんの少しだけ時間をかけて字を作る。周囲の子どもたちが覗き込み、保護者が背中に目をやる。


「最後のメッセージを書きます。読み上げます」


 彼女の声は大きくはないが、落ちない。落ちない声は、届く。


「観測されない時間を、あなた自身にあげてください。私たちは、その時間の中で人間になります」


 書き終えた紙を湊に渡す。湊は受け取り、掲示板の上段、誰の紙にも隠されない位置に貼った。手でしっかり押さえ、紙が壁に馴染むのを待つ。香苗が配信の音声を切り替え、湊にうなずく。


「読み上げる」


 湊は一息だけ吸い、ゆっくりと、だが巻き舌にならない程度に滑らかに読んだ。人に読まれるための文は、息継ぎの位置が重要だ。彼はそれを理解している。理解しているふりではなく、体が勝手にやっている。


 読み終えると、配信のコメント欄に、短い文字列が列になった。


 ありがとう

 ありがとう

 ありがとう


 ありがとうは、長く書くと嘘っぽくなる。短いほうが、伝わる。


 夜。地下街の照明は蛍光灯だけになり、色温度が低くなる。子どもは早めに寝かせ、残った大人は交代で見張りに立った。見張りは見守りの一種だ。見張らないと安心できない時間帯が、夜には必ずある。順番を紙に書き、ペンを置き、いつも通りに夜を始める。


 湊はリアの姿を探した。いつもならすぐ見つかる。机の周り、掲示板の前、炊き出しの列の端。どこにもいない。胸の奥で、何かがひとつだけ固くなる。固くなるのは、悪いことではない。固いものは、割れる音がする。割れれば、音が合図になる。


「リア?」


 インカムのチャンネルは無音だ。無音は、用意していた時間だ。湊は階段を上がり、地上へ出た。夜風。冷たい。方舟タワーは暗く、窓に白い余韻だけが残る。余韻は、寝息のようだ。寝息なら、起きる予定がある。


 広場の端に、香苗がいた。カメラを外し、三脚をたたんでいる。


「リア、見なかった?」


「一度、上に。屋上に行くって」


「ありがとう」


「行って。私は配信を続ける。“朝を待つ者たち”は、朝が来るまで終わらない」


 湊はうなずき、非常階段を駆け上がった。踊り場で息が上がる。上がっても、抑えられる。探偵は呼吸を道具にする。


 屋上。東の空がごく薄く明るい。光るほどではない。明るいというより、黒が薄くなっただけ。リアは、柵の前に立っていた。銀の指輪を手のひらにのせ、風に当てている。


「遅かったか?」


 湊は冗談の形で言った。冗談の形は、別れの儀式に向いている。深刻さは短くていい。短いほうが、残る。


「遅くない。間に合ってる。私は観測者を終えた。次は、あなたが世界を見る番」


 リアは笑った。笑い方は、異世界の人間の笑い方に似ていない。似ていないのに、懐かしい。彼女がこの街で覚え直した笑いだ。ノアの辞書に載っていない種類の笑い。


 湊は言葉を飲み込んだ。言葉はたくさん出てきたが、出せばどれも蛇足になると分かった。蛇足は悪いという意味ではない。蛇足はしっぽだ。しっぽを持つと、動けないときがある。今は、動く番だ。


「短いほうがいい」


「うん。別れの儀式は短いほど」


 リアは指輪をポケットへしまい、柵に手をかけた。飛ぶためではない。風の高さを確かめるためだ。東の空の低い層で、白が黒を薄くしていく。夜は終わる。終わらない夜は、観測の錯覚だけ。彼女の口元が、言葉を繰り返さずに言葉を語る。


「またね」


 声は風に乗って、都市の屋根を渡った。湊が一歩踏み出したとき、リアの姿は柵の陰に溶けるように淡くなる。走った。踊り場まで一気に駆け、階段を覗き込む。足音はない。手すりに手を当てる。冷たい。冷たい金属に、指の腹がわずかに滑った。滑ったところで、何かに触れた。刻み目。目をこらす。薄い傷が、二列だけ並んでいる。


 見つけてくれて、ありがとう


 刻みは浅い。刃物ではない。鍵か針か。慌てて刻んだ文字は不揃いで、それがよかった。きれいな別れは長持ちしない。不揃いの別れは、しばらく胸に残る。


「リア」


 呼んでも、返事はない。ないのは、決めたからだ。見守る側に回ると、返事は減る。減った返事の隙間に、他の人の声が入る。


 湊は踊り場に立ち尽くし、ひとつだけ笑った。笑いは長くない。長い笑いは疲れる。短い笑いで、背筋を伸ばす。


 階段を降りる途中で、配信の音が耳に戻った。香苗の声はさらりとしていて、朝方の人の声だ。


「こちら“朝を待つ者たち”です。今、掲示板の“お願いします”列から三件お手伝いが決まりました。祖母の階段、工具貸し出し、赤ちゃんのミルク。ありがとう、って言葉が並んでます」


 湊は地下街へ戻り、掲示板の前で立ち止まった。上段に貼ったリアのメッセージに、赤い小さな丸が付いている。誰が付けたのかは分からない。やり切った、という意味ではない。読み終えた、という意味だ。読み終えたから、次へ進む。


「湊さん」


 航太が紙を握りしめて寄ってくる。字はまだ拙いが、今朝よりまっすぐだ。


「“できます”の列に書いた。『おばあちゃんの階段、手伝えます。二階までなら得意です』」


「得意か」


「うん。昨日より、得意になった気がする」


「気がするのは大事だ。気がするから、できる」


 掲示板の前で、紙と紙の間を小さな手が渡っていく。必要が、できる、に混ざり合い、できる、が、ありがとう、に変わる。AIに奪われていた“まどろっこしい優しさ”は、一晩で戻ってきた。まどろっこしいのは、不便だ。けれど、人は不便で育つ。便利の中には、育たない器官がある。


 夜明け前。

 香苗の配信は、静かな手の映像を映し続けている。湯気が立ち、紙が揺れ、スタンプがぽんと鳴る。視聴者は多くない。それでも、一定の速度で広がる。遅い拡散は、深い塗りになる。


「朝が来る」


 誰かが言った。誰か、というのがいい。湊は顔を上げ、階段の黒い口を見た。あの口の向こうで、東の端が白んでいる。白はゆっくりで、やさしい。


 紙が一枚、足元に落ちた。拾って、読み上げる。


「『見つけてくれて、ありがとう』」


 声が、掲示板の前で響く。誰かが同じ言葉を繰り返した。二人、三人。やがて、繰り返しは他の言葉になった。おはよう。ありがとう。どうぞ。大丈夫。行ってきます。行ってらっしゃい。


 朝が来た。

 都市はアナログのまま、立ち上がる準備をする。

 方舟の心臓は、未定義のまま寝息を立てる。

 観測は、道具だ。道具は棚に片づけ、必要なときだけ取り出す。

 愛は、この場に置きっぱなしでいい。片づけると、どこに置いたか忘れるから。


 湊は掲示板の端にペンを置き、紙コップを両手で持った。熱い。熱いのは、生きている証拠だ。

 香苗がカメラの向こうで、笑った声を出す。


「“朝を待つ者たち”、ここまで。これからは“朝をつくる者たち”にバトンを渡します」


「バトンって何」


 航太が訊き、湊は答える。


「紙だ。鍋だ。手だ。声だ。目配せだ。笑いだ」


「大変だ」


「大変だ。だから、面白い」


 地下街の天井に、薄い光が差した。蛍光灯の白ではない。地上から漏れてくる朝の色だ。今朝は、昨日より少し暖かい。暖かく感じるのは、錯覚でもいい。錯覚のせいで動けるなら、錯覚は味方だ。


 湊は掲示板を見上げ、上段の紙に指で触れずに礼をした。礼は、言葉が邪魔をするときに使う。

 そして、手を叩いた。短い拍手。合図。合図があると、人は動きやすい。


「よし、朝を始めよう」

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