第1話 帰還者と廃都の探偵
東京湾沿いの再開発区〈第三区〉。
高層ビル群の裏手に取り残された旧街区は、すでに誰も住んでいない。鉄骨は錆び、歩道は雑草に覆われ、海風が割れた窓ガラスを鳴らす。
夜明け前、空に白い線が走った。
まるでガラスにひびが入るような光の断層。その裂け目から、一人の少女が落ちてきた。
重力に引きずり下ろされるように、彼女はビルの屋上から墜ちる。
純白のマントがひるがえり、手には焦げついた杖。
着地の衝撃で瓦礫が弾け、埃が舞い上がる。
少女は息を吐いた。目の色は灰青。どこか人間離れした透明さを宿していた。
「……ここは、どこ……?」
声は震えていた。
かつて〈観測者〉と呼ばれた者、リア=エイデン。異世界〈アルスヴェイン〉の戦いのあと、気づけばこの世界――かつての地球に戻ってきたのだ。
だが、足元に感じるのは魔素ではなく、冷たいコンクリート。
耳を澄ませても魔力の流れはない。
空は灰色、雲は低く、街の輪郭は歪んでいた。
そして同じころ、別の廃ビルの一角。
眠たげな男がスマホのカメラを構えていた。
「おかしいな。電波、また飛んでる……」
神崎湊。
三十手前、無職、肩書きだけは“探偵”。
依頼は〈失踪者調査〉。
だがこの街では、犯罪のほとんどがAI警備網によって即時検挙される。
つまり“探偵業”など、時代遅れの骨董品だ。
それでも、彼が仕事を続けるのは――
“警察が扱わない失踪”が、確かに存在しているからだ。
AIが人間の行動を把握しきれない“穴”。
湊はその“穴”の中で、行方不明者の影を追っていた。
そのとき、ビルの屋上から光。
反射的に顔を上げる。
次の瞬間、ドン、と鈍い音。
瓦礫の中に、少女が倒れていた。
湊は目を瞬かせた。
「……なんだ、コスプレイベントでもやってんのか?」
焦げた布、見慣れない模様の杖、そして異様に整った顔立ち。
彼女の服は汚れていたが、目を開けると、まるで違う世界を見ているような真っ直ぐな光を放っていた。
「あなたは……人間?」
「少なくとも、税金は払ってるつもりだ」
「税金……?」
リアは小さく首をかしげる。その仕草が妙に真剣で、湊は思わずため息をついた。
「とりあえず、救急車呼んどくか」
「……それは、魔法の治癒術?」
「いや、こっちの世界じゃ“医療サービス”って言うんだよ。金がかかるやつな」
軽口を叩きながらも、湊はリアの震える肩を見て、ジャケットを脱いだ。
薄汚れたアパート暮らしでも、誰かを放っておけない性分なのだ。
この街で生き延びているのは、案外そういう人間だけなのかもしれない。
リアは少し迷ってから、静かに頷いた。
「……ありがとう。神崎湊」
「名前、いつ言った?」
「あなたの名は、“観測”できた」
「……何だそれ」
その言葉を半信半疑で聞き流しつつ、湊は少女を肩に担いで夜の街を歩き出した。
*
アパートの一室。六畳一間。天井のシミが夜明けの色を帯びる。
リアは布団の中で目を開けた。
初めて見るはずの天井なのに、どこか懐かしい。
窓の外では、機械の唸りと遠いサイレンの音。
異世界〈アルスヴェイン〉にはなかった音の重なりだ。
「……魔法、が使えない」
手の甲を見つめる。
そこに刻まれていたはずの魔法紋〈ルーン〉は消えていた。
代わりに、薄く光る傷跡だけが残っている。
「ここは、まだ人間の世界?」
「まあ、一応な」
湊がインスタントコーヒーを二つ持ってきた。
部屋は狭く、散らかった資料の山。ホワイトボードには“第三区失踪者マップ”と赤マーカーで書かれている。
「で、君は……どこから来たんだ?」
リアはカップを両手で包みながら、しばらく沈黙したあと、小さく息を吐いた。
「“向こう”の世界。異なる法則の下にあった場所。私は、そこから帰還したの」
「はぁ……転生? 召喚? それともゲームの話か?」
「あなたの世界では、そう呼ぶのかもしれない。でも、私にとっては現実だった」
湊は肩をすくめる。
嘘をついているようには見えない。
だが信じるには、あまりに非現実的すぎた。
「で、その“異世界帰還者”が、どうして廃ビルから降ってきた?」
「召喚の反動。私のいた世界では、“観測”が過剰に進みすぎて……崩壊した」
「観測? カメラか?」
「違う。存在そのものを確定する観測。あらゆる思考が、誰かに見られていた。だから私は逃げた。……けれど、戻ってきたこの世界も、似ている」
「似てる?」
リアは窓の外を見た。
街を覆う電光広告。ドローンの群れ。顔認識を行う防犯カメラの点滅。
視線のすべてが“観測”を目的としている。
「この街、すでに“観測されてる”。あなたたちが知らない方法で」
その言葉に、湊は笑えなかった。
失踪者調査の最中に何度も感じた“見えない視線”。
AIが処理しきれない不具合データ。
まるで、誰かが“上書き”しているような記録の欠落。
リアは静かに立ち上がり、窓を開けた。
海風が吹き込み、カーテンがはためく。
空には、薄く揺らめく円形の光。
「見えるのか、それ」
「“残響”。観測の残りかす」
湊はカメラを構えた。だが――映らない。
レンズ越しでは、ただの空気だ。
リアは言った。
「カメラは“見る”けど、“観測”はしない。あなたが直接、見なきゃ」
意味がわからない。だが、湊はもう笑わなかった。
理屈では説明できない“穴”が、確かに存在している。
*
夜。
二人は再び第三区へ戻っていた。
リアが感じた“波動”を追うためだ。
「探偵って、こういう危険地帯にも平気で入るの?」
「仕事だからな。あと、生活費のため」
「生きる理由が明確で、いいね」
「いや、それ褒めてないだろ」
軽口を交わしながら進む。
廃墟ビル群の中、風が鳴る。
リアの瞳が淡く光り始めた。
「……来る」
地面が揺れる。
空気が裂け、白い粒子が舞い上がる。
湊の目には見えない“何か”が形を取り始める。
人の輪郭をした、空洞の影。
「な、なんだよこれ!」
「“観測残響”――この街で失われた人の“存在のコピー”」
影が動く。
腕を伸ばし、湊の喉を掴もうとする。
リアは咄嗟に腕を掲げた。
「――エイデン・コード、起動!」
しかし魔法紋は発光せず、空気が破裂した。
微弱なエネルギーが暴走し、リア自身が吹き飛ぶ。
湊は彼女を抱きとめ、壁際に転がった。
「おい! 大丈夫か!」
「……魔法、使えないの。こっちでは」
「なら逃げるぞ!」
二人は非常階段を駆け下りる。
影が追ってくる。
リアの目には、影の中に“誰かの顔”が一瞬映った。
それは、行方不明になった少女の笑顔だった。
「……湊、あれは“消えた人たち”よ」
湊の足が止まる。
影の一つが、まるで助けを求めるように手を伸ばしていた。
だが、次の瞬間、光が弾け、すべて霧散した。
静寂。
リアの肩が震える。
湊は深く息をついた。
「……お前、やっぱりただのコスプレじゃねぇな」
「確認、遅い」
ふっと笑ったリアの表情は、どこか安心しているようにも見えた。
*
アパートへ戻る途中。
街のサイネージが一斉に点滅した。
電光掲示板に、意味をなさない数字の羅列。
リアが呟く。
「“観測ログ”。誰かがこの街を記録してる」
「誰かって、誰だ」
「――神か、人か。まだ、わからない」
その夜。
湊の部屋に、リアの寝息が響く。
机の上のホワイトボードには、新たな文字が追加されていた。
〈失踪者=観測の残響?〉
〈リア・エイデン=異世界帰還者〉
〈調査対象:第三区全域〉
ペンの跡は震えている。
だが湊は、久しぶりに“生きている感覚”を覚えていた。
*
翌朝。
湊は缶コーヒーを二つ買って帰る。
リアは窓辺で空を見上げていた。
彼女の手の甲には、うっすらと新しい紋が浮かび上がっている。
「……この世界でも、まだ戦えるみたい」
「そりゃ頼もしいね。家賃分は働いてもらうぞ」
「了解。私は“観測者”。あなたは“探偵”。いい組み合わせ」
「コンビ結成、早いな」
リアは笑った。
その笑みは、確かにこの廃れた都市の中に小さな光を灯していた。
――探偵と帰還者。
それが、この都市の“再起動”に関わる最初の誤算だった。




