令嬢ラフィーナは見逃さない
王立貴族学園の講堂にて。
新入生たちが一様に硬い表情で着席する中、ラフィーナ・ヴァインザークは、ただ一人、背筋を凛と伸ばし、落ち着き払った様子で正面の演壇を見据えていた。
艶やかな黒髪を高く結い上げた彼女の横顔は彫刻のように整っており、気品を漂わせている。
しかし、その涼やかな瞳の奥には、周囲の令嬢たちのような華やかな学園生活への夢見るような光はなく、むしろこれから始まるであろう退屈な日々を値踏みするかのような冷やかさが宿っていた。
式典が滞りなく進行し、新入生総代の挨拶が始まった。
壇上に上がった青年を一目見た瞬間、講堂内の空気が一変した。
それまで静粛を保っていた令嬢たちの間から、抑えきれないため息が広がっていく。
「まあ、ランサンドベルク公爵家の……」
「アレクシス様……」
囁き声がラフィーナの耳にも届く。
彼女は軽く眉をひそめ、改めて壇上の青年へと視線を向けた。
プラチナブロンドの髪はきらめき、磨き上げられたサファイアのような青い瞳は理知と自信に満ち溢れている。
その立ち姿は非の打ちどころがなく、彼が発する一つ一つの言葉は聞く者の心を掴んで離さない力を持っていた。
見目麗しい。
ラフィーナはそう素直に認めた。
だが、それだけだった。
「なぜ皆、あんな男に夢中になるのかしら……」
ラフィーナは小さく、誰に聞かせるともない独り言をこぼした。
彼女にとって、男性の容姿の良し悪しは庭に咲く花の美しさと同じ次元の話でしかなかった。
美しいものは美しい。
それ以上でもそれ以下でもない。
ましてや、その見た目だけで心を乱したり、浮ついた気持ちになったりすることは彼女の性分に全く合わなかった。
周囲の令嬢たちが頬を染め、うっとりとした表情でアレクシスを見つめる様を、ラフィーナはどこか遠い国の出来事のように眺めていた。
色恋沙汰などという曖昧で不確かなものに心を砕く時間があるのなら、もっと他にすべきことがあるはずだ。
彼女はそう信じていた。
* * *
こうして、ラフィーナの学園生活は始まった。
彼女の周囲には、入学初日から見えない壁が築かれていた。
その原因は、彼女自身が纏う近寄りがたい雰囲気だけではない。
「口より先に手が出る」
「気に入らない相手には容赦しない乱暴な令嬢」
――そんな不名誉な噂が彼女がこの学園の門をくぐるよりも前から、まことしやかに囁かれていたからだ。
事実、ラフィーナはこれまで、不正や卑劣な行いを見過ごすことができず、幾度となくトラブルの中心にいた。
だが、彼女自身はその悪評を微塵も気にしていなかった。
己の信じる正義を貫いた結果なのであれば、何を言われようと構わない。
その揺るぎない信念が彼女を孤立させ、同時に彼女を誰よりも強くあらしめていた。
そんな日々が数週間続いた、ある日の放課後のことだった。
ラフィーナは借りていた本を図書館に返すため、少し遠回りになる校舎裏の通路を歩いていた。
ふと、物陰から聞こえてくる、押し殺したような泣き声とそれを嘲る甲高い笑い声に足を止めた。
「だから言ったでしょう? 平民の分際で、私たちと同じ教室で学ぶなんて、百年早いのよ」
「奨学生だからって調子に乗らないでくださる?」
ラフィーナは彼女たちの顔を覚えていた。
声の主は、男爵家と伯爵家の令嬢たちだった。
常に数人で徒党を組み、自分たちより立場の弱い者を見つけては陰湿ないじめを繰り返しているグループだと聞く。
そして、その標的となっているのは、小柄で栗色の髪をした見覚えのある少女だった。
名前はミナ。
奨学生として入学した平民の生徒だと、誰かが話しているのを聞いたことがある。
ミナは地面に膝をつき、教科書やノートが無残に散らばる中で必死に涙をこらえていた。
しかし、その肩は小さく震え、恐怖と悔しさに耐えているのが痛いほど伝わってくる。
いじめの主犯格である伯爵令嬢が、勝ち誇ったようにミナの顎に指をかけ、無理やり上を向かせた。
「ねえ、何か言ったらどうなの? それとも、悔しくて声も出ないのかしら?」
令嬢たちの下卑た笑い声が静かな放課後に響き渡る。
ラフィーナの全身を冷たい怒りが貫いていく。
(見過ごせない!)
ラフィーナは一瞬の逡巡もなく、物陰から姿を現した。
コツ、コツ、と彼女の靴音が石畳に響くと、あれほど騒がしかった令嬢たちの笑い声がぴたりと止んだ。
「あなたたち、そこで何をしているのかしら」
ラフィーナの声は、低く、静かだった。
その響きには有無を言わせぬ威圧感が込められていた。
いじめっ子たちは、まるで蛇に睨まれた蛙のように硬直し、その顔からさっと血の気が引いていく。
「ヴァ、ヴァインザーク嬢……」
主犯格の伯爵令嬢が、かろうじて声を絞り出す。
彼女たちの目には、恐怖と同時に、「なぜこのトラブルメーカーがここに」という困惑の色が浮かんでいた。
ラフィーナは、彼女たちには目もくれず、まっすぐにミナのもとへと歩み寄った。
そして、その前に静かにしゃがみ込むと、散らばった教科書を一つ一つ丁寧に拾い始めた。
その指先は、まるで壊れ物を扱うかのように優しく、先ほどまでの張り詰めた雰囲気とは裏腹に穏やかだった。
「大丈夫? 怪我はないかしら」
ラフィーナはミナの瞳を真っ直ぐに見つめ、優しい声で尋ねた。
ミナは、突然現れた救いの手に驚き、声も出せずにただこくこくと頷くことしかできなかった。
その瞳からは、こらえきれなかった涙の粒が次々とこぼれ落ちていく。
ラフィーナは拾い集めた本をミナに手渡すと、すっと立ち上がり、再び令嬢たちの方へと向き直った。
その表情からは、先ほどの穏やかさは消え去り、絶対零度の冷徹さが浮かんでいた。
「もう一度聞くわ。あなたたちは、彼女に何をしていたの?」
「な、何も……。ただ、少しお話をしていただけですわ」
「お話?」
ラフィーナは、片方の眉をわずかに吊り上げた。
その仕草だけで令嬢たちの背筋を冷たいものが走り抜ける。
「人が地面に膝をつき、持ち物を散乱させている状況をあなたたちは『お話』と呼ぶのね。ヴァインザーク家ではそのような教育は受けた覚えがないのだけれど。どこのお家の作法かしら? 教えていただきたいわ」
皮肉のこもった、しかし完璧に礼儀正しい言葉遣い。
それは、どんな罵声よりも相手のプライドを抉る切れ味を持っていた。
令嬢たちは言葉に詰まり、顔を青ざめさせる。
「……さあ、失せなさい。私の目の前から。次、このような愚かな真似をしたらその時は……容赦しないわ」
最後の言葉は囁くように静かだったが、その分、凄みを増していた。
令嬢たちは互いに目配せをすると、蜘蛛の子を散らすように慌ててその場から逃げ去っていった。
後に残されたのはラフィーナとミナの二人だけだった。
ミナは、まだ震えが止まらない手で、抱えた教科書をぎゅっと握りしめていた。
「あ、あの……」
ミナがおずおずと口を開く。
「助けていただいて……ありがとうございました」
か細い、しかし心のこもった感謝の言葉だった。
ラフィーナはミナに向き直ると、その表情をふっと和らげた。
「気にしないで。私は、ああいう卑劣な行いが嫌いなだけよ」
彼女はそう言うと、ミナの制服についた土埃をハンカチを取り出して優しく払ってやった。
その自然な仕草にミナは驚いて体を硬くする。
「立てるかしら?」
ラフィーナが手を差し伸べる。
ミナは一瞬ためらったが、やがておそるおそるその手を取った。
* * *
この一件は、翌日には学園中の知るところとなった。
もちろん、いじめっ子たちが捻じ曲げた形で。
「ラフィーナ・ヴァインザークが、何の罪もない令嬢たちに一方的に暴力を振るった」
「平民の生徒をそそのかして、使いっ走りにしているらしい」
悪意に満ちた噂は尾ひれをつけて広まり、ラフィーナの悪評は決定的なものとなった。
彼女が廊下を歩けば、生徒たちはさっと道を空け、ひそひそと囁き合う。
その視線には、恐怖と侮蔑の色が混じり合っていた。
しかし、ラフィーナはそんなものに動じる人間ではなかった。
彼女は以前と何ら変わらず、背筋を伸ばし、堂々と学園の中を歩いた。
そんな彼女のもとに一人の少女が訪れたのは、事件の翌日の昼休みのことだった。
ラフィーナが教室で一人、静かに本を読んでいると、控えめなノックの音がした。
「失礼します……ヴァインザーク様」
そこに立っていたのはミナだった。
彼女は緊張した面持ちでラフィーナの前に立つと、深々と頭を下げた。
「昨日は、本当にありがとうございました。それから……私のせいで、ヴァインザーク様に酷い噂が立ってしまって……本当に申し訳ありません」
ミナの声は震えていた。
自分のせいで恩人に迷惑をかけてしまったという罪悪感に苛まれているのが見て取れた。
ラフィーナは読んでいた本を静かに閉じると、顔を上げてミナを見た。
「顔を上げて、ミナ。あなた、謝る必要などどこにもないわ」
「で、でも……」
「噂など、気にするだけ時間の無駄よ。真実を知る人間が一人でもいれば、それで十分。それに、私はあなたが謝ることなど何もしていないと知っている」
ラフィーナのきっぱりとした言葉にミナは顔を上げた。
彼女の目に映ったのは、少しも曇りのない真っ直ぐなラフィーナの瞳だった。
その瞳は、ミナの罪悪感も、周囲の悪評もすべてを跳ね返すような強い光を宿していた。
「それよりも、あなたこそ大丈夫だったの? これからも、あのような嫌がらせが続くかもしれないわ」
「……大丈夫です」
ミナは、小さく、しかしはっきりと答えた。
「ヴァインザーク様が私の味方でいてくださるなら。私、もう怖くありません」
その言葉を聞いた瞬間、ラフィーナの口元に柔らかな笑みが浮かんだ。
それは、彼女がこの学園に来てから初めて見せた心からの微笑みだったかもしれない。
「そう。それなら良かった」
ラフィーナは立ち上がると、ミナの肩にそっと手を置いた。
「よろしければ、これからお昼をご一緒しないかしら。一人で食べるのも、少々味気ないと思っていたところなの」
それは、ラフィーナなりの不器用な誘いだった。
ミナは一瞬、目を丸くしたが、すぐにその意図を察し、顔をぱっと輝かせた。
「はい! ぜひ!」
こうして、悪評高い子爵令嬢と心優しい平民の少女は、誰よりも固い絆で結ばれた親友となった。
学園中の誰もがラフィーナを遠巻きにする中で、ミナだけが、彼女の本当の姿を知っていた。
その日から、ラフィーナの隣にはいつもミナの姿があった。
* * *
学園で孤立する二人だったが、ラフィーナの態度は常に凛としていた。
「悪いことなど何一つしていないのだから、隠れる必要はないわ」
彼女はそう言うと、毎日、昼休みには一番日当たりが良く、見晴らしの良い中庭のベンチへとミナを誘った。
そこは多くの生徒が行き交う場所であり、二人の姿は否が応でも目立った。
周囲から投げかけられる好奇と悪意に満ちた視線、聞こえよがしに交わされる囁き声も、ラフィーナがそこに座っているだけで不思議と力を失った。
ミナも初めは居心地の悪さを感じていたが、ラフィーナの堂々とした横顔を見ているうちに、次第に心が落ち着いていくのを感じた。
ある日の午後、ミナは図書館で調べ物に取り組んでいた。
奨学生である彼女は勉学に一切の妥協を許さなかった。
気づけば、借り出す参考書の数は膨大な量になり、彼女の細い腕には余るほどの重さになっていた。
ミナはよろよろと覚束ない足取りで書架の間を抜け、出口へと向かう。
その時、ふらついた拍子に、一番上に積んでいた分厚い歴史書が滑り落ちそうになった。
「あっ……!」
ミナが小さな悲鳴を上げた瞬間、横からすっと伸びてきた手が、その本を危なげなく受け止めた。
「ミナ、一人で無茶をするものではありませんわ」
穏やかで、少しだけ呆れたような声。
振り返ると、そこにはラフィーナが立っていた。
彼女はミナが落としそうになった歴史書を片手で軽々と持つと、もう片方の手で、ミナが抱えている本の山から当たり前のようにその半分をすっと抜き取った。
「あの、ラフィーナ様! 私、自分で持てますから!」
ミナは恐縮して慌てた。
子爵令嬢であるラフィーナに自分の荷物を持たせるなどとんでもないことだった。
しかし、ラフィーナは涼しい顔で首を横に振る。
「気にしないで。貴女がこれを抱えて転んで図書館の大切な本を汚してしまうより、私が手伝う方がずっと合理的でしょう?」
そう言って、彼女は悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
その有無を言わせぬ優しさと姉のような頼もしさに、ミナは何も言えなくなってしまった。
ラフィーナは、ただ優しいだけではない。
相手が本当に必要としている助けを、ごく自然に差し出すことができる人なのだ。
ミナは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、ラフィーナの隣を歩いた。
また別の日。ミナは早起きをして、キッチンに立っていた。
ラフィーナへの感謝の気持ちを何か形で表したかったのだ。
貴族である彼女に高価な贈り物はできない。
だから、せめてもの気持ちを込めて、得意のクッキーを焼くことにした。
バターと小麦粉の甘い香りが小さな家に広がる。
綺麗に焼きあがったクッキーを丁寧にラッピングし、ミナは少しだけ誇らしい気持ちで学園へ向かった。
昼休み、いつもの中庭のベンチで。
ミナはおずおずと、その小さな包みをラフィーナに差し出した。
「あの、ラフィーナ様。いつもお世話になっているので……。お口に合うかわかりませんが、今朝、焼いてきたんです」
ラフィーナは少しだけ驚いたように目を瞬かせたが、すぐにその意図を汲み取り、優雅な仕草で包みを受け取った。
「まあ、私のために? ありがとう、ミナ」
彼女はにこやかにそう言うと、包みを開け、中から現れたクッキーを一枚、指先でつまみ上げた。
そして、躊躇なくそれを口に運ぶ。
サクッ、という軽やかな音が、静かな中庭に小さく響いた。
「……とても美味しいわ。貴女は本当に器用なのね」
ラフィーナは、心の底から感心したようにそう言った。
その言葉には一切の裏表がなく、ミナのささやかな贈り物を真っ直ぐに受け止め、喜んでくれているのが伝わってきた。
ミナは、思わず顔が綻んだ。
彼女は決して、相手の身分や立場によって態度を変えたりしない。
良いと思ったものは良いと褒め、感謝すべきことにはきちんと「ありがとう」と伝える。
ラフィーナのこういう素直なところが、ミナは大好きだった。
こうした二人の穏やかで微笑ましいやり取りを、遠くから静かに観察している者がいた。
アレクシス・フォン・ランサンドベルク、その人だった。
彼は、友人たちと食堂へ向かう途中、たまたま中庭に面した渡り廊下を通りかかった。
そこで目にした光景に、思わず足を止めたのだ。
悪評高い子爵令嬢、ラフィーナ・ヴァインザーク。
彼女が平民の少女と二人きりで、実に楽しそうに談笑している。
手作りのクッキーだろうか、それを嬉しそうに頬張り、相手の少女に優しい笑みを向けている。
その姿は、学園に流布する「乱暴で自己中心的な令嬢」というイメージとはあまりにもかけ離れていた。
アレクシスは、以前から彼女に密かな興味を抱いていた。
いじめの現場に介入したという一件も、彼の耳には入っていた。
もちろん、彼のもとに届く情報は噂レベルのものではない。
彼がその気になれば、事実関係を正確に把握することなど造作もなかった。
彼は、ラフィーナが一方的に暴力を振るったのではなく、平民の生徒を庇ったのだという真実を知っていた。
それ以来、彼は学園内でラフィーナの姿を見かけるたびに、無意識のうちに目で追うようになっていた。
そして気づいたのだ。
彼女は常に堂々としており、誰かに媚びることも、悪評に怯えることもない。
それでいて、唯一の友であるミナに対しては驚くほど細やかな気遣いを見せ、身分の差など微塵も感じさせずに、対等な友人として、あるいは優しい姉のように接している。
今日の光景もそうだ。
あのラフィーナの表情は作り物ではない。
心からの信頼と親愛がなければ、あんな柔らかな笑みは浮かばないだろう。
「彼女は一体、本当はどんな人間なのだろう」
アレクシスは、口の中で小さく呟いた。
噂と現実。
そのあまりに大きなギャップが彼の知的好奇心を強く刺激していた。
* * *
その日、ミナは急な用事を頼まれ、ラフィーナとの昼食の約束に少し遅れてしまっていた。
急ぎ足で中庭へ向かう途中、以前自分が辱めを受けた校舎裏の物陰から聞き覚えのある声がするのに気づき、足を止めた。
「ちょっと、あんた。この前の試験、カンニングしたでしょう?」
「ち、違います! 私はそんなこと……」
あの伯爵令嬢たちの声だ。
そして、震えながら反論しているのは、ミナと同じクラスの、あまり目立たない気弱な令嬢だった。
ミナは息を飲んだ。
彼女たちが新たな標的を見つけて、また同じようなことを繰り返しているのだ。
ミナの全身を過去の恐怖が蘇ってきて支配した。
足が震え、その場に縫い付けられたように動けなくなる。
嘲るような笑い声、屈辱的な言葉、無力な自分。
あの時の光景が鮮明に脳裏に蘇る。
逃げ出してしまいたい。
見なかったことにして、ラフィーナのもとへ走って行きたい。
しかし、その時だった。ミナの脳裏に、もう一つの光景が浮かび上がった。
――どんな悪評にも屈せず、常に背筋を伸ばして立つ、ラフィーナの凛とした後ろ姿。
――「悪いことなど何一つしていないのだから、隠れる必要はないわ」と言い切った、彼女の強い眼差し。
――自分を庇い、卑劣な悪意にたった一人で立ち向かった、あの日の勇敢な姿。
いつも、ラフィーナが自分を守ってくれた。
彼女がいたから、自分は学園で笑うことができた。
今、目の前で、かつての自分と同じように誰かが助けを求めている。
ラフィーナがここにいたら、きっと迷わず割って入るだろう。
……今度は、私が。
ミナの恐怖で震える心に、小さな勇気の灯がともる。
ミナは、ぎゅっと拳を握りしめた。
足の震えが、まだ完全には収まらない。
それでも、彼女は一歩、また一歩と、物陰の方へと足を踏み出した。
「おやめください!」
ミナが振り絞った声は自分でも驚くほど大きく、はっきりと響いた。
いじめっ子たちが一斉にこちらを振り返る。
その顔には、驚きと、邪魔者をみるような苛立ちの色が浮かんでいた。
「あら、あんた……。ミナじゃない。何か用事かしら?」
伯爵令嬢が意地の悪い笑みを浮かべる。
「前回、ヴァインザーク嬢に助けてもらって、少し強気になったのかしら? でも、残念ね。今日はあんたの騎士様はいないみたいよ」
ミナは怯まなかった。
ラフィーナの姿を心に思い描きながら、まっすぐに彼女たちを睨みつけた。
「卑劣な行いです。身分を笠に着て、弱い者いじめをすることしかできないなんて、恥ずかしいと思わないのですか!」
その言葉は、確かに彼女たちに届いた。悪い形で。
伯爵令嬢の顔が怒りで歪む。
「……生意気な口をきくじゃないの」
彼女が合図するようにパチンと指を鳴らすと、その背後から、ぬっと大きな人影が現れた。
がっしりとした体格の長身の青年。
ミナは息をのんだ。
彼は伯爵令嬢の婚約者である侯爵令息だった。
ラフィーナに邪魔された経験から、用心棒として連れまわすようになっていたのだ。
「この平民、少し黙らせてちょうだい」
伯爵令嬢が甘えるような声で侯爵令息に言う。
彼は、面倒くさそうに一つため息をつくと、品定めするような目でミナを見た。
そして、ゆっくりと彼女に近づいてくる。
ミナは後ずさったが、すぐに壁に背中がつき、逃げ場を失った。
「や、やめてください……!せ、先生に言いますよ!」
ミナが叫ぶが、「そんなことはどうとでもなる」といった態度で、侯爵令息は無言のまま彼女の細い腕を乱暴に掴んだ。
骨がきしむほどの強い力にミナは顔を歪める。
「あらあら、可哀想に」
伯爵令嬢が心底楽しそうに手を叩いた。
「ねえ、あなた。その女で好きに遊んでいいわよ。少し手荒に扱ったって誰も文句は言わないわ」
その卑劣極まりない言葉がミナの耳に突き刺さる。
絶望がミナの心を覆い尽くす。
恐怖で声も出せず、ただ涙が瞳に溢れてくる。
(ラフィーナ様……助けて……)
心の中で、ただ親友の名前を叫ぶことしか、今のミナにはできなかった。
* * *
ラフィーナは中庭のベンチで静かに本を読んでいた。
しかし、その目は少しも活字を追ってはいなかった。
約束の時間を過ぎてもミナが現れる気配がない。
彼女は時間に正確な少女だ。何かあったのだろうか。
最初は些細な懸念だった。
だが、時間の経過とともに、それは確かな胸騒ぎへと変わっていった。
嫌な感覚。
ラフィーナは、こういう自分の直感が、しばしば的中することを知っていた。
彼女は読んでいた本を乱暴に閉じると、勢いよく立ち上がった。
じっとしてはいられない。
ミナを探しに行かなければ。
その一心で、彼女は中庭を駆け出した。
いつも保っているはずの優雅な物腰は、そこにはなかった。
ただ、親友を案じる一人の少女の切羽詰まった姿があるだけだった。
* * *
その頃、アレクシスは渡り廊下の窓辺に佇み、中庭の景色をぼんやりと眺めていた。
ラフィーナとミナがいつも座っているベンチが今日は片方しか埋まっていないことに、彼はすぐに気づいた。
ラフィーナ・ヴァインザークが一人でいる。珍しいこともあるものだ。
そう思った矢先だった。
彼女が突然立ち上がり、走り出したのだ。
鬼気迫る、とでも言うべき表情だった。
結い上げていた髪がほどけ、頬にかかるのも構わずに、ひたすらに駆けていく。
あの常に冷静で堂々としているラフィーナが、これほどまでに余裕のない姿を見せるのはアレクシスにとって初めて見る光景だった。
(何かあったのか?)
ただならぬ様子に、アレクシスの眉がひそめられる。
彼女が向かう先は校舎裏手の方角。
そこは、以前いじめ騒ぎがあった場所と一致する。
彼女の友人に何かトラブルが起きたのだろうか?
そして、彼女は助けに向かっている。
興味、という言葉だけでは説明がつかない感情がアレクシスを突き動かした。
彼はラフィーナの後を追うように、静かに、しかし素早く歩き出した。
* * *
ラフィーナが校舎裏にたどり着いた時、目に飛び込んできた光景に彼女は全身の血が逆流するのを感じた。
壁際に追い詰められ、大柄な男に腕を掴まれているミナ。
その瞳に浮かぶ恐怖と絶望の涙。
そして、その様子を嘲笑しながら見ている伯爵令嬢たち。
「ミナッ!!」
ラフィーナの絶叫が、その場の空気を切り裂いた。
全員が声のした方を驚いて振り返る。
侯爵令息も一瞬だけミナから注意をそらし、ラフィーナの方を見た。
その隙をミナは見逃さなかった。
彼女はありったけの力で腕を振りほどき、ラフィーナのもとへと駆け寄った。
「ラフィーナ様……!」
「もう大丈夫よ、ミナ」
ラフィーナは、震えるミナを背中にかばうようにして立ち、鋭い視線で侯爵令息を睨みつけた。
「侯爵家の御令息がこのような場所で、か弱い女性一人に暴力を振るうとは。感心いたしませんわね」
ラフィーナの言葉に侯爵令息は鼻で笑った。
「なんだ、お前が噂のヴァインザークか。思ったより華奢な女じゃないか」
「忠告しておくわ。今すぐ、その子を解放して立ち去りなさい。そうすれば、この件は不問にして差し上げてよ」
「面白いことを言う。お前こそ、俺に何をされるかわかっているのか?」
侯爵令息は、指の関節をポキポキと鳴らしながら威嚇するように一歩前に出た。
体格にも腕力にも、歴然とした差があるのは明らかだった。
しかし、ラフィーナは一歩も引かなかった。
彼女の瞳には、恐怖の色など微塵も浮かんでいない。
「やるというなら相手になるわ」
ラフィーナはそう言い放つと、侯爵令息に向かって行った。
護身術の心得はあった。
だが、相手は鍛えているであろう大柄な男だ。
ラフィーナは彼の攻撃をかろうじて避けるが、反撃の一撃は軽くいなされてしまう。
体力の差が少しずつ彼女を追い詰めていく。
ついに、侯爵令息の強引な一撃がラフィーナの体勢を崩した。
彼女はバランスを失い、地面に倒れ込む。
すかさず、侯爵令息がその体の上に乗り、両腕を地面に強く押さえつけた。
「これで終わりだ、可愛い乱暴令嬢様」
男の下卑た笑い声が頭上から降り注ぐ。
ラフィーナは歯を食いしばり、必死にもがいたが、体重をかけられた体はびくともしない。
身動きが取れなくなり、屈辱に顔が歪む。
「ラフィーナ様!」
ミナの悲鳴が聞こえる。
伯爵令嬢たちの勝ち誇ったような笑い声も。
(ここまで、なの……?)
ラフィーナの心に、一瞬だけ絶望がよぎった。
その時だった。
「――そこまでだ」
低く、冷静で、しかし威厳を帯びた声が、その場に響き渡った。
その声がした瞬間、場の空気が凍りついた。
侯爵令息の動きが止まり、伯爵令嬢たちの笑い声も消え失せる。
全員の視線が声の主へと注がれた。
そこに立っていたのは、アレクシス・フォン・ランサンドベルクだった。
彼は、まるで散歩でもしているかのような落ち着き払った様子で、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
しかし、そのサファイアの瞳は、絶対零度の光を宿し、侯爵令息を射抜いていた。
「ランサンドベルク公爵……! なぜ、貴方がここに……」
侯爵令息が動揺した声で言う。
アレクシスは彼の言葉を無視し、ラフィーナを押さえつけている腕を一瞥した。
「その手を彼女から離せ」
命令だった。
侯爵令息は一瞬ためらったが、アレクシスの瞳に宿る本気の怒りを見て、慌ててラフィーナから身を離した。
アレクシスはラフィーナには一瞥もくれず、侯爵令息の前に立つ。
その身長差は僅かだが、放つ威圧感は比較にすらならない。
「侯爵家の名を汚す、愚かな行いだ。君の父親が知ったらどう思うかな」
「い、いや、これは……その、彼女たちが……」
「言い訳は聞きたくない」
アレクシスは侯爵令息の反論を冷たく遮ると、今度は伯爵令嬢たちの方へと冷徹な視線を向けた。
彼女たちは、憧れの君の見たこともないような冷たい表情に恐怖で顔を引きつらせていた。
「君たちも同罪だ。二度とこのような真似をするな。もし、次に同じようなことをした場合は、私がランサンドベルク家の名において、君たちの家を然るべき処遇を与えることになるだろう。覚えておくがいい」
その言葉は、単なる脅しではなかった。
公爵家が本気になれば、伯爵家や男爵家など一夜にして潰すことすら可能だ。
令嬢たちは、その事実を思い知らされ、ただ青ざめて震えることしかできなかった。
アレクシスは彼らを一瞥すると、踵を返した。
* * *
アレクシスは、地面に座り込んだまま呆然としているラフィーナの前に立つと、静かにその手を差し伸べた。
節くれだった美しい指。
ラフィーナは、無意識のうちにその手を見つめていた。
「立てるか?」
穏やかな声に促され、ラフィーナはその手を取った。
アレクシスは力強い動きで彼女の体を軽々と引き起こす。
その瞬間、彼の整った顔が間近に迫った。
ラフィーナは思わず息をのむ。
彼のサファイアの瞳が真っ直ぐに自分を見つめている。
そして、アレクシスは悪戯っぽく口の片端を上げて微笑んだ。
「――君の噂はかねがね聞いていたが、これほど勇敢で愛らしい女性だとは思わなかったな」
その言葉は、静かな爆弾のようにラフィーナの心の中で炸裂した。
愛らしい? この、私が?
予期せぬ、あまりにもキザな言葉。
恋愛というものに全く免疫のないラフィーナの思考は完全に停止した。
彼女の頬に、じわりと熱が集まっていくのが自分でもわかった。
みるみるうちに顔は真っ赤に染まり、心臓が今まで経験したことのない速さで激しく鼓動を打ち始めた。
いつもは弁が立つ彼女の口からは何の言葉も出てこない。
ただ、ぱくぱくと唇を動かすのが精一杯だった。
その初々しい反応を、アレクシスは心底楽しむかのように見つめていた。
普段の彼女の凛々しい姿とのギャップが彼にとっては何よりも魅力的に映ったのだ。
彼は呆然とするラフィーナをその場に残し、背後で心配そうに佇んでいたミナの方へ向き直った。
「彼女を医務室へ連れて行ってあげなさい」
アレクシスはそれだけを告げると、ラフィーナに再び目を向けることなく、颯爽と背を向けてその場を去っていった。
残されたラフィーナは、ただ彼の後ろ姿が遠ざかっていくのを見つめることしかできなかった。
頬の熱は一向に引かず、心臓はまだうるさいほどに鳴り響いている。
助けてもらったことへの感謝よりも、先ほどの彼の言葉と、あの眼差しが頭の中で何度も何度も繰り返される。
「ラフィーナ様、大丈夫ですか? どこかお怪我は……」
ミナが心配そうに駆け寄ってくる。
その声でラフィーナはようやく我に返った。
「え、ええ……。だ、大丈夫よ。何ともないわ」
明らかに動揺し、しどろもどろになるラフィーナの姿にミナは小さく首を傾げたが、今はそれ以上追及する時ではないと判断した。
* * *
その日を境にラフィーナの世界は一変した。
今まで、その他大勢の生徒の一人、ただ「顔が良いだけ」の男としか認識していなかったアレクシス・フォン・ランサンドベルクという存在が、彼女の中で急速に大きくなっていく。
授業中、ふとした瞬間に彼のことを考えている自分に気づき、慌てて首を振る。
廊下で彼の姿を見かけると心臓がどきりと高鳴り、以前のように平然と通り過ぎることができず、思わず顔を背けてしまう。
食堂で、友人たちと談笑している彼の声が聞こえるだけで耳が熱くなるのを感じる。
そんな自分自身の変化に、ラフィーナは戸惑っていた。
これは、一体どういうことなのだろう。
なぜ、あの男のことばかり考えてしまうのか。
なぜ、彼を前にすると、いつもの自分でいられなくなるのか。
彼女は、その感情の名前を知らなかった。
いや、知ってはいたが、自分自身がそんなものに囚われるはずがないと無意識に認めることを拒否していたのかもしれない。
ある日の昼休み。
いつものように中庭のベンチでミナと昼食をとっていると、向こうからアレクシスが友人たちと歩いてくるのが見えた。
ラフィーナの心臓が、またしても大きく跳ねる。
彼女は、咄嗟に読んでいた本で顔を隠した。
「ラフィーナ様?」
「な、何でもないわ」
明らかに挙動不審なラフィーナの様子に、ミナはくすくすと笑みをこぼした。
彼女は、親友の心に起こった可愛らしい変化に、もうとっくに気づいていたのだ。
あの日、助けられた後のラフィーナの様子を見ていれば、誰にだってわかることだった。
アレクシスが二人の座るベンチのすぐそばを通り過ぎていく。
その瞬間、彼がちらりとこちらに視線を向けたのを、ミナは確かに見た。
そして、その視線は間違いなくラフィーナに向けられていた。
通り過ぎた後、ラフィーナは本をそっと下ろし、彼の後ろ姿を目で追っている。
その横顔は少しだけ赤く染まっていた。
そんな親友の姿が、ミナにはとても微笑ましく思えた。
「ラフィーナ様」
ミナが優しい声で呼びかける。
「はい、これ。今日のクッキーは、昨日より上手に焼けたんですよ」
「……そう。ありがとう、ミナ」
ラフィーナは、まだ少し上の空でクッキーを受け取った。
いつも不正や悪事だけは決して見逃さなかった正義の令嬢ラフィーナ・ヴァインザーク。
そんな彼女が、今まさに、自分自身の心に芽生えた初めての淡い恋心からは目を逸らすことができずにいる。
(完)
見逃せんかぁ…