1 残酷な提案
カラオケの個室。
扉の隙間から漏れ聞こえる他の客の歌声は、この重苦しい空気にはとても似合わない。
未来からやって来た俺の娘、如月花音。
彼女の目的は、高校時代の俺に会って、未来の俺が抱えていた後悔が解消されることーーーすなわち、過去の俺に当時の想い人に想いを伝えさせることーーーだった。
想い人とは、もちろん幼馴染の七瀬美亜のことで間違いないだろう。
まるで俺の恋を成就させてくれるかのように語る花音に、だけど、俺は疑問に思った。
あり得ないことかもしれない。
しかし、もし万が一俺と美亜が結ばれたら、その時未来はどうなるのか……。
俺と未来で結婚した相手は?
その人と俺の間に生まれた子供である、花音や彼女の弟はどうなるのか?
花音は、大丈夫だと言った。
あまりにも簡単に言うので、何か上手いこと未来が行くのかと思って安堵していたら、彼女はこう続けた。
「私は、パパの後悔を解消しに来た。だから、ちゃんとパパと好きな人の縁は繋ぐよ。勇気を出せなかった後悔を、未来でパパが抱かないように」
「でも最終的な縁は、変わらない。パパが結婚するのは、私のママだよ」
あまりにも、残酷な提案だった。
俺の恋を成就させてくれるのかと思ったら、それは青春限定のーーーーいつかは終わる恋だと、花音はそう言い切ったのだ。
そもそも父親の恋路に介入しようとする心情が理解出来ない。それも、自分の母親とのじゃない。違う相手と父親の恋路を応援しようとするのが、わけがわからないんだ。
「俺は……お前が何をしたいのか、分からない…」
「だから、言ったでしょ?未来のパパは、ずーっと後悔してたの。高校時代に勇気を出さないままで終わったのが。その気持ちを抱いたまま、家族で居る方がパパは辛いし、私もどうにかして過去を変えてあげたかった。パパに素敵な青春をプレゼントしたかったんだよ」
それは、未来の俺の落ち度だ。
そんなやり切れない過去の想いを、どうして娘に悟られている?母親以外への微かな思慕を抱いていると知って、娘が複雑な心情を抱くだろうことは、容易に想像がついたはずだ。
まさか、未来の俺が直接話した?
何で、そんなこと。
俺が言葉を失っていると、花音は息を吐いた。彼女は、難しい表情をしていた。
腹に一物を抱えて、胸にとある思いを秘めている。そんな含みのある表情だった。
彼女は、俺が見ていたと気付かずに、表情をころっと切り替えた。いつも通りの、元気印の笑顔を浮かべる。
「……んー、そんなに、深く考えないでよ。パパは、自分の好きな人と恋人になれるチャンスが降ってきた。未来は、なるようになる。"今だけ"、考えればいいんだよ!」
それは、非常に難しいことだ。
未来から花音が来ているという事実がある以上、そんな楽観的な見通しを俺が抱くはずがない。
そんなわけには、いかない。
本来在ったはずの未来に歪みが生じるかもしれないことに対して、今の俺が気にするなというのは、あまりに無理がある。
元々、諦めた恋だった。
美亜への恋心が冷めたわけではないが、今の俺を積極的に突き動かす情熱はそこにはない。
本来の歩まれるはずだった過去の世界を変えてまで、彼女を求めるほどの衝動を俺は現在抱いてはいない。
「………美亜とのことは、もう…いいんだ」
傷つきたくない。
もう一度傷ついてまで、俺は彼女を振り向かせたいなんて思えない。
恋なんて、所詮自分本位でしかない。
相手に同じ気持ちで居て欲しいと願うのも、傷つくからそばに居られないと離れるのも、自分本位だ。少なくとも俺は、そうなんだ。
臆病で、自分本位なんだよ、ずっと。
長い、長い…ぬるま湯のような自傷行為の方が、よほど苦しくない。
だから、俺はこの恋を不毛だと呼んでいるのに。
俯いた俺の頭上からは、溜め息がした。肩と胸を大きく上下させて、花音の息遣いがはっきりと聞こえた。
「ーーーそうだよね。パパは、ずっとそうだった。パパが勇気を出したのなんて、ママと結婚してから。ママと結婚したのだって、半分流されたようなものだった。たまたま運命が巡り合っただけ。パパは何も頑張ってない」
「何を………」
「自分本位なんじゃない。他人本位なんだよ、伊織くんは。自分の人生の基準を、他人の評価とか顔色に委ねて一喜一憂してるんだよ」
「そんな、こと……っ」
俺は革張りのソファに手をついて、立ち上がった。
俺はせめて何か言い返そうと口を開いたが、それよりずっと強い意志で、花音が俺を見ていた。
余念を許さない、真っ直ぐな瞳。
俺は閉口した。
ない、と言いたかった。
でもその通りだった。
俺は、他人本位だ。
他人からの評価と顔色に、自分の行動が依存している。自分で、……自分の意思で決めてるつもりだった。だけど、違う。
恋愛なんて、所詮自分本位でしかない。
相手に分かってもらおうとして。
分かってもらえなかったら、傷ついて。
だけど、自分本位だから、恋愛できるんだ。
自分本位だから、相手を好きになって好きにさせて、嬉しがって傷ついて。
それが、美しくて、醜くて、だけど心が通う。
「パパはね、言ってたよ。"もしも過去の自分に会えたなら何て伝えるのか"……パパは私が尋ねたら、こう言ったんだ」
ーーーー" 一度だけでいい。勇気を出せ。過去の俺 "
「ああ………」
つくづく自分だと思った。
不気味で、納得の行かなかった未来の自分が、やはり今の自分と一緒だったんだと、そう思った。
何度でも頑張れ、なんて似合わない根性論でも語られたら、全力で突き返すつもりだった。
一度だけ。だけど、それは、それでもゼロの俺にとっては、きっと比べものにならないくらいの進歩なのだ。
俺はソファに静かに座り直した。俺が顔を覆うと、花音が隣に座る気配がした。
そっと、彼女の手が俺の背中に置かれた。
赤子をあやすみたいな、安らぎだった。
俺は苦笑した。
これじゃあ、どっちが親なのか分からないじゃないか。
俺は顔を上げた。
「少し、考える時間が欲しい」
ここで決め切れないあたり、相変わらず臆病だと思うが、やはり時間が欲しかった。
だけど、俺はずっと美亜への気持ちを不毛だとか言いながら、曖昧にしていた。
それと向き合う時間が、どうしても欲しいのだ。
花音がぽん、と俺の背中を叩いた。
「…うん」と小さく返す言葉が聞こえた。
「……分かった。貴方の勇気に期待してるね、この世界の如月伊織くん」
そんなことを言って、微笑んだ。




