放課後の教室
俺はまたすぐに眠りにつき、夜に目覚めた。湿布と頭痛薬のおかげか痛みはひいていた。
今思い出した。大和が言っていた神崎からの緊急指令。組織は警察官の襲撃事件を連続で起こしてるんだ。今回もそうだとすれば、松田さんは無事なのか。
俺は携帯を手に取り松田さんに電話をかけた。
『はい松田です』
「黒木です」
『黒木君? どうしたの』
よかった、無事で。だが勢いで電話をかけてしまったが、大和のことなんて言えるはずがない。
「何か嫌な予感がしたので……例の警察官襲撃の件で、松田さんは大丈夫なのかなって。根拠はないんですけど、僕昔から勘はいいって言われますから」
『そういうことね、私なら大丈夫よ。元々あんまり治安のいい土地じゃないし夜は気をつけてるからね』
「組織による事件って、新たに起こってはいないんですか?」
『ええ、今のところはね』
「それはよかった。それでは失礼します」
『心配してくれてありがとう。失礼します』
電話を切ると、またすぐに電話が鳴った。松田さん、何か言い忘れたことでもあったのかな。しかしその番号は覚えがないものだった。
「はい黒木です」
『こんばんは、お母さんよ』
母さん。声を聞くのは何年ぶりだろう。
はっきり言って俺は母さんのことを恨んでいた。父さんとの不和は仕方ないと思ってる。それでも、せめて俺が大人になるまでは母親をやってほしかったんだ。
「……いきなりどうしたの」
『どうしたも何も、お父さんのことよ。重傷でまだ病院にいるんでしょう』
「そうだけど……」
『纏、あなたお母さんの家に来なさい』
母さんは今実家に住んで地元で仕事をしている。とは言っても遠いわけではなく、新幹線で1時間弱の距離なのだが。
「僕ならここで大丈夫だよ」
『そんなこと言ったって、まだ高校生なのに一人で暮らすなんて』
「友達もいるし、1年半後は受験だから環境を変えたくないんだ。どうせ大学に入ったら一人暮らしすることになるんだし。それに父さんが帰ってきたとき、出迎える人間が必要でしょう」
もちろん組織と戦うためなんて言えるはずがない。しかし今言ったこともまた本心だった。
『……そう、わかったわ。生活費は口座に入れるから。辛いと思うけど、がんばってね』
「ありがとう。母さんもご自愛ください。失礼します」
『ご自愛くださいだなんて、お父さんみたいなこと言って。それじゃ』
血は争えないってやつだな。
次の日、俺は普通に朝から出席した。
「大丈夫だったのかよ、纏。外村さんから聞いたぞ」
「大森と戦ったあと全身が痛くてな。だがもう大丈夫だ。外村に手当てしてもらったから」
話を聞いて、一瞬桜井が心底悔しそうな顔をしたことを俺は見逃さなかった。
「それならよかったよ。そうだ、纏。最近勉強のほうはどうだ?」
「授業中はスマホゲームか睡眠。家ではまったく勉強していない」
「お前なー。地頭いいんだから勉強さえすりゃ偏差値60代も行くだろうに」
「何言ってんだ。俺はお前みたいに頭よくねーよ」
「俺は元々は頭悪いって。俺はたぶん纏の100倍くらいは勉強してるからな」
「100倍は言いすぎ……いやあながち間違ってないかも」
「纏、ちょっと待ってろ」
そう言って桜井は白沢の席に行った。座っている白沢と少し話して、二人でこちらに来た。
桜井の野郎、なんのつもりだ。
「話はわかったわ。それじゃ放課後、数学の教科書と青チャートを準備しておいて」
白沢が席に戻ったあと、桜井は俺に向かって親指を立てた。
「どういうことだよ、まったく意味がわからんぞ」
「纏、微積が苦手だって言ってただろ? だから白沢さんに放課後教えてもらうように頼んだんだ。白沢さんに教えてもらうんだったら、やらざるを得ないだろ?」
「……桜井、何がほしい」
「ドトールの抹茶ラテでいいぜ!」
俺と桜井は固い握手を交わした。
「纏せんぱーい!」
午前中の授業が終わったあと、その高い声のするほうを見ると外村がこちらに手を振っていた。
「外村、これ」
俺は財布の中から2000円を取り出し外村に差し出した。
「わ、なんですか!?」
「食べ物と薬のぶんだ」
「え、湿布とロキソニンは纏先輩の家にあったものだし、食べ物と飲み物で700円くらいですよ」
「じゃあ治療費と出張費。何も言わず受け取れ」
俺は眉間にしわを寄せ、外村の目を見て言った。断らせるもんか。
「わ、わかりましたっ。ありがとうございます」
外村は両手で2000円を受け取り、深々と頭を下げた。
「礼を言うのは俺のほうだって。本当に一昨日はありがとう」
「いえいえ、どういたしまして」
外村は少し顔を赤らめ微笑んだ。
「何怪しい取引をしてんだい? 君たち」
桜井が眉をひくつかせながら来た。
「桜井先輩! これは纏先輩とあたしだけの秘密なんだから教えませんよ!」
俺が言ったけどな。
「まーいいけどよ。早く購買行こうぜ」
俺はいつものようにチョコチップを買った。外村もチョコチップ。桜井は焼きそばパンとメロンパンを買った。
「そうだ、外村さん。纏、うちのクラスの白沢さんに勉強教えてもらうらしいぜ」
らしいぜって、お前が取り付けたんだろうが。
「え、あの白沢先輩にですか?」
「お前、白沢のこと知ってるのか」
「そりゃ知ってますよ! 成績は常に学年トップ、その上あの美貌とスタイル……」
そう言ったあと、外村は下を向き自分の胸を見ながら心底悔しそうな顔をした。
「胸なんてただの脂肪ですから」
「負け惜しみもいいとこだよ」
授業が終わり、放課後。俺は数ⅠAとⅡBの教科書と青チャート、そしてノートと筆箱を持って白沢の席に行った。
「約束通り持ってきたぞ。俺にとってはなかば枕と化してるこいつを」
この辞書かと思うような厚みの、青い表紙の数学の参考書。通称青チャート。
「もったいないわね、学校で買わされているのに。青チャートを完璧にすればどこの大学でも合格点は取れるわよ」
「俺には無理だ。重要例題なんて一生解けそうにない」
「それを解くのが受験生なのよ。早速始めましょうか」
「ああ、よろしく頼むよ」
白沢の隣の机を借りて、白沢の机にくっつける。白沢は俺のⅡBの青チャートを開きこちらに向けた。
「この基本例題を解いてみて」
そう言って白沢は問題の下の回答を自分の手で隠した。
「わかった」
いや、わかってない。白い手が気になってぜんぜん集中できねえ。
5分ほど経ち、白沢が口を開いた。
「……あなた、ペンがまったく動いていないわよ。ちゃんと解いているの」
白沢は少しあきれたふうに言った。
「いや、この問題ちょっと難しくて」
そう言って白沢のほうを振り向いた瞬間、俺の右手が白沢の胸に当たった。
ペンを持った俺の右手の甲がその胸に沈み込む。柔らかい。服の上からでもこんな柔らかいのか。
「きゃあ!?」
その悲鳴と同時に、白沢に頬をぶたれた。
俺はおっぱい星人でもおっぱい星人の子でもない。だがこの感触とこの痛みは一生忘れることはないだろう。
「ご、ごめんなさい。故意じゃないのに、取り乱してしまって……」
白沢は顔を真っ赤にして申し訳なさそうに頭を下げた。
お前、そんな表情するのかよ、『きゃあ』なんて言うのかよ。
「……私のことも叩いていいわ」
「と、とんでもない。悪いのは俺だから」
「そ、それじゃ気を取り直して。今度はこっち」
白沢は呼吸を整えてからⅠAの青チャートを開いた。
そうだ、目的を思い出せ。おっぱいを触ることじゃない。勉強だ。
これなら解けそうだ。俺は5分ほどで答えを書いた。
「解いたよ」
「じゃあ見せてみて。赤ペン借りていいかしら」
ノートと赤ペンを白沢に渡すと、軽く目を通して大きく丸をつけた。
「やったぜ」
「二次方程式は問題ないわね。やはり微分積分が課題のようね」
「微積なんて人間のやるもんじゃねえ」
「あなた、理系でしょう」
白沢はあきれた顔をした。この表情、結構ダメージがでかいんだが。
「わりと真剣に文転しようか迷ってる。経済学部とか」
「文系といっても、経済学部なら数学、微積は必要よ」
「……マジかよ」
「マジよ」
「もう俺プロゲーマーになるわ」
「どんな方向転換よ」
俺はFPSの世界ランカー、black_dresser。『好きなことで、生きていく』。
「……わかったわ。10分ほど時間もらっていいかしら。教え方を少し考えるわ。その間携帯でも見てていいから」
白沢は真剣な表情で教科書をめくっている。俺は言われたとおりスマホゲームをやって待っていた。少し罪悪感があった。
ちょうど10分後、白沢はゲームに興じる俺を呼んだ。
「待たせたわね」
「いや全然。つーか早いよ」
白沢は1時間ほどで微積の概要を教えてくれた。
1年の後半から微積の授業は受けているが、この1時間だけで今までよりも格段に理解できた。
「そういうことか……。お前すごいよ、今まで聞いたどんな授業よりわかりやすかった」
「そんなたいしたものではないわ」
「謙遜するなよ、白沢。お前予備校講師とか向いてるんじゃないか? 美人すぎる予備校講師とか言われるぜ、きっと」
「何言ってるのよ、ふふ」
笑った。白沢が笑った。あの白沢ゆりが笑った。
「初めて笑ったな、白沢」
「黒木君、あなたも私の前で笑ったのは今が初めてよ」
言われて初めて、自分の口角が上がっているのに気付いた。
また二人で笑った。白沢はすごく控えめな笑顔だったけれど。
白沢に数列とベクトルも教えてもらい、もう6時になっていた。
「本当に助かったよ。ありがとう」
「どういたしまして」
「それで、何がほしい。金か?」
「……黒木君。あなた、なんでもお金で解決しようとしていない? 昼休みも外村さんにお金を渡していたし」
それを見られていたとは。
「そうは言ってもな。等価交換と言うだろ」
「私は大したことはしていないわ。『ありがとう』だけで十分よ」
「ありがとうございました」
俺は深々と頭を下げた。
「大げさなのよ、あなたは」
白沢はまたあきれた顔を、しかし少し優しい顔をした。
「あと胸を触ってしまってすみませんでした」
「それは忘れてほしいのだけれど」
白沢は少し顔を赤くして俺をにらんだ。
白沢と帰りはじめると、よく知った二人とはち合わせた。
桜井優人と外村茜。
「おっ、纏と白沢さんじゃねーか」
まず口を開いたのは桜井。だが俺は危惧していた。二大美少女が顔を合わせることを。なんの危惧なのかは俺自身わからないが。
「し、白沢ゆり先輩! あ……握手してください!!」
予想外の言葉に俺のほうが面食らってしまった。
「……それはかまわないけれど、どうして」
「あこがれの存在というか、ファン! ファンなんですよ!」
なんだよファンって。
「それは光栄ね」
白沢が右手を差し出すと、外村は両手で握手した。
「……なんだこれ」
「俺もわからん」
俺と桜井は目の前の光景にただただ困惑していた。
「あ、申し遅れました! あたしは1年の外村茜といいます」
「存じているわ」
「あ、あの! 白沢先輩、これからスタバでも行きませんか?」
「ええ、いいわよ」
「ありがとうございます! それじゃ纏先輩、桜井先輩、お疲れ様です!」
男二人が取り残されてしまった。
俺たちのたまり場はもっぱらドトールだが、やはりJKはスタバか。
意外かもしれないが、桜井もドトール派だ。俺たちはスタバのキラキラした空間には耐えられそうもない。
「女子ってのはやっぱりわかんねーな」
「ああ、まったくだ。一生かけても理解できそうにない」