鬱の概要
もっと楽に生きたらいいのに。
教卓近くの席の男の子――名前は覚えてない――はいつもよく分からないこと言ってる。クラスの子たちなんて怖くないって思うために。
右の席の女の子――今「サフラちゃん」って呼ばれた――はいつもにこにこ人気者。でもほんとは笑ってない。
ごはんを食べてぐっすり寝られたらそれでいいんじゃないかな。
分からないことばかり。
もっと楽に生きたらいいのに。
授業はよく分からない。だからわたしはお昼寝の時間にしてる。でも今日はなんとなく周りを眺めてた。のんびり進む時計、揺れるカーテン、教科書を持ちながら話す先生。
そしたら左の方に座ってる子が目に入った。その子はすごく苦しそうな顔で授業を受けてた。なんでそんなに頑張ってるんだろう。
わたしは立ち上がるとその子の袖を引っ張った。
「え……? 何?」
「来て」
その子は何が起きてるか分からないって感じでわたしに引っ張られていった。
学校の屋上。授業中だから人はいない。お日様に照らされてそよ風が吹いてる。この時間は静かだから好き。
女の子はちょっと怒ってる。
「ねえ。なんでこんなところに連れてきたのか教えて欲しいんだけど」
「お昼寝、しよ?」
「は?」
女の子は何を言ってるのか分からないって顔をした。
「あなたも授業、嫌。だからお昼寝しよ?」
だって振り払おうと思えばきっとそうできたから。女の子はうつむいた。
「……分かった」
わたしが壁に背中を預けて座ると女の子もそうした。
わたしは女の子を見上げた。わたしより小さい子は同じ学年にはいないから。女の子は今にも泣きそうだった。
「どうしたの?」
「なんで、こんなことしたの?」
「一緒にお昼寝したら、なんでそんなに苦しそうなのか分かるかなって」
女の子はまた俯いた。
「あのね、授業が苦しいの」
頑張って勉強しようとしてるのに全然やる気が湧いてこないこと。それでも無理やり体を動かしてること。そんなに頑張っても授業についていけないこと。女の子は涙をぽろぽろ流しながら話した。
でもテストの結果が張り出されるたびにクラスメイトのみんなが感情を向けるのはいつだってこの子だ。憧れ、諦め、憎しみ。みんなの視線を受けてるのになんで気付かないんだろう。
「そっか。でも頑張ってて、えらい」
女の子は俯いた。
「そんなこと言われたの初めて。ううん、だって誰にも言ってなかったから」
「なんでわたしに教えてくれたの?」
「分からない。ううん、違う。なんか、もう、どうでもいいの」
「そっか。なら寝よ? 考えても仕方ないことなんてたくさんあるよ」
女の子はしばらく迷ったあと目を逸らしながらほっぺたを赤くする。
「ねえ、太ももの上で寝たい」
「いいよ」
わたしは膝枕してあげた。女の子は体を縮こませながら横になった。
そうしてわたしにお昼寝仲間が増えた。
「ここが私の部屋だよ」
女の子が扉を開ける。部屋の左側にベッドがあったからわたしはそのベッドで横になった。ふわふわでとっても気持ちいい。それからわたしは女の子の部屋を眺める。女の子の部屋はさびしい部屋だった。最低限のものしか置いてない。まるで病室みたい。
「そんなに寝たかったの?」
女の子は呆れてる。
「素敵なベッドで寝たくなるのは人類のしゅくめい」
「そうなのかな……?」
女の子は変な顔をしながらベッドに座った。部屋になにもないからわたしは本棚を眺める。でも知らない題名ばかりだった。あんまり本は読まないから。
「本棚が気になる?」
「うん。どんな本が好き?」
「私ね、切ない恋愛小説が好きだったの」
女の子は俯いた。
「胸がきゅって締め付けられる感じが好きだったんだ。でもね、最近は全然読む気が湧かないの。頑張って読んでも何も感じないんだ」
女の子は本棚を寂しそうに見つめる。
「でも、あなたと一緒にお昼寝するの、好きだな」
女の子はわたしの方を向くと笑顔を浮かべた。そして初めて会った頃に比べると骨ばった手でわたしの頭を優しく撫でた。ちょっと幸せそう。よかった。
「じゃあ一緒に寝よ?」
「うん」
女の子はそう言って横になった。
「なんか、ちょっと照れるな。でも、嫌じゃない」
女の子ははにかんだ。
ある日、一時間目の授業中に教室の扉が開いた。そこにいたのはあの子だった。遅刻なんてしたことなかったのに。授業の後クラスがざわざわしてた。でも次の授業で先生に指された時はいつも通りすらすら答えてて先生はちょっと安心したみたい。わたしはなんで遅刻したのかお昼休みに聞いてみた。
「先生にも聞かれたよ」
女の子は苦笑いしながらパンを一口食べた。わたしも一口食べる。学校で買ったお昼ごはんを食べてると学校に行っててよかったって思う。
「……いつも通り起きて準備してたはずなんだけどね。でもいつの間にか時間を過ぎてたんだ」
「そうなんだ」
「忘れ物も増えたし、最近どうしちゃったんだろう」
増えた……のかな? でもその子が言うならそうなのかも。
「きっとお昼寝が足りてない。もっと寝よ?」
女の子は空を見た。青い空に雲がゆっくり流れてる。
「そうだね」
わたしは女の子に起こされるまでだけど寝た。次の授業は社会だったからよく寝られた。
学校が終わってわたしたちはいつも通りその子の家に行った。女の子は部屋に着くとベッドに倒れこんだ。
「疲れた」
「そうだね」
わたしも横で寝転がる。女の子が真ん中だからちょっと狭い。
「寝てるだけなのに疲れるの?」
女の子は呆れてた。
「横になって寝たい」
女の子はちょっと笑った。
「あなたといるとちょっと力が抜けるよ。いい意味でね?」
たしかに進級式の時から女の子はなんか固くてちょっと怖かった。でも最近はあんまり固くない。なんかさらさらしてる。そのうち風に吹かれて消えちゃいそう。気付くと女の子は寝てた。わたしも寝よう。
お日様がオレンジ色になった頃わたしは起きた。体をぐーって伸ばしながら起き上がる。そろそろ帰らないと。わたしは部屋から出る。
そういえばいつから女の子はわたしが帰るときも寝てるようになったんだろう。
あの子が学校を休むようになった。最初はちょっとだけだったけど最近は休んでる日の方が多い。大体の子は心配してたけどだんだん慣れてきたみたい。その日もあの子は休んでた。だからあの子の家に行くことにした。女の子はベッドに座ってぼーっとしてた。
「学校は……?」
女の子は目をぱちぱちさせてた。
「抜けてきた」
「なんで?」
「気になったから。どうしてお休みするようになったの?」
女の子は呆れてる。
「そんなの休みの日にでも聞けばいいのに」
「いま気になったから」
「そう」
女の子はちょっと嬉しそうだった。
「最近はもう何もする気が起きないんだ。家でもずっとぼーっとしてる。頑張って勉強しようと思っても何も入ってこない。私はもう何も出来ないんだ」
女の子は俯きながら話した。
「死にたい」
女の子はちっちゃな声でつぶやいた。
「そっか」
わたしは横になって女の子の太ももに頭を乗せた。
「苦しいね。でも頑張ってて、えらい」
「偉い……? 私が?」
「うん。 死にたいのに頑張って生きてる。だからえらい。お願い、死なないで」
女の子は考え込んだ。
「そっか……。そっか。……ありがとう。分かった。頑張って生きてみる」
女の子はちょっとだけ笑顔になった。
ぽかぽかした日も好きだけど雨の日も好き。匂いも好きだし音も好き。それにお昼休みでも屋上がうるさくない。わたしは机の上で半分溶けながら朝の会を待ってた。
扉の開く音がした。
そこには女の子が立ってた。髪から水がぽたぽた垂れてる。みんなびっくりしてる。女の子はゆっくり歩きながら席に座った。わたしは女の子の席に行く。
「ひさしぶり。学校では」
「久しぶり」
机の上に水滴が落ちた。ポケットからハンカチを取り出して拭いた。また水滴が机に落ちた。もう1回拭いた。ついでに女の子の髪も軽く拭いた。女の子は何も言わない。でも嫌がってはなさそう。
「学校、来たくなった?」
「行かないと駄目だから」
今の女の子は固かった。机に置いてる手はぎゅって握られてるし眉間にはしわが寄ってる。
「傘は?」
「忘れちゃった」
「ほんとのこと言って」
女の子は観念したのか喋り出した。
「なんでだろう。傘がないと濡れちゃうって分かってたけどなんか、どうでもいいやって気がしちゃって」
今度はほんとう。でも服濡れるの嫌じゃないのかな。服が濡れてたら気になってお昼寝できなくなると思う。なのになんでだろう。頭が良かったら分かるのかな。わたしも雨にあたってみようかな。
「大丈夫!?」
後ろから声がした。人気者の女の子だ。顔は心配してるけど心ではずぶ濡れの女の子を嘲笑ってる。
「ほら、タオル使っていいから髪くらいは拭こう? 風邪引いちゃうよ。嫌じゃなければジャージも貸すよ?」
人気な子の周りの子がきらきらした目でその子を見てる。
「大丈夫」
女の子はタオルを突き返した。周りの子が女の子を睨んだ。
その日女の子は先生の質問に「分かりません」と答えた。ほんとうに分からないみたい。そうしたら右の席に座ってる人気者の子がにやりと笑った。なんでこの子が人気者なんだろう。分からないことばかり。
あの子が学校に来なくなった。おうちに行ってもベッドでずっと横になってる。
「だいじょうぶ……?」
「大丈夫に見える?」
女の子は寝たまま振り返る。声には感情がこもってなかった。
「見えない」
「もう、何も出来ないんだ」
女の子は力なく笑う。
「ずっと時間が進まないんだ。何も出来ないからずっとぼーっとして。でもたまに時計を見ても数分しか経ってない。分かる? 何も出来ないの。何も出来ずにずっとずっとずっとずっと。空を眺めて壁を眺めて床を眺めて。眠って時間を飛ばそうとしてももう寝られなくて。なんでだろう。言葉にするとぜんぜん伝わらない。時間がないの。早く、勉強しないと。学校もまともに出られなかったらどうやって生きたらいいの? でも何も出来ないの。ずっとぼーっとして。早く勉強しないといけないのに。ううん、そんなこと思ってない。早く過ぎて欲しい。もう、何もする気が湧かないの。なんで、伝わらないんだろう。助けて」
わたしには女の子の言ってることがよく分からなかった。
「そっか。お昼寝しよ?」
「ははは」
女の子の笑い声は乾いてた。
「そうだよね、そうだよね。あなたに話した私が馬鹿だったよ」
「あなたはばかじゃないよ」
女の子がわたしを見る。お父さんとかお母さんがわたしを見る時の目だ。
「馬鹿にしてるの?」
女の子は怒ってる。どうして?
「してないよ。ただ……」
「ただ? 何? 言ってみなよ。早く、早く!」
「ただ、辛そうな顔を見るのはいや」
「あなたはいつもそうだよね。自分のことばっかり! そうやって心配してるふりして本当は自分の我儘でしょう? あなた、私の名前を呼んでくれたことないよね。私の名前覚えてないんでしょ。友達が誰もいないわけだよ」
女の子はすごく怒ってる。
「もっと楽に生きたらいいのに」
「は?」
「怒っても疲れるだけだよ。気楽に生きようよ。何も望まなければ苦しまずにすむよ。分からないこと、いやなこと。全部お昼寝して忘れれば……」
「黙れ」
女の子が布団から手を出した。そして勢いよく物を投げた。カッターナイフ。慌てて避けるとわたしのほっぺたを軽く切って後ろに飛んでった。女の子の腕は傷だらけだった。
女の子の家の扉を叩くとお母さんが出迎えてくれた。
「また来たのね。いらっしゃい」
「うん」
お母さんは笑顔を浮かべた。なんで人はたまに嬉しくないのに笑顔になるんだろう。
「来てくれてありがとうね。でもあなたも忙しいでしょう? そろそろ大きな試験もあるそうじゃない。うちの子に構うのもいいけれどもっと自分のことも大切にした方がいいわよ?」
「うん」
「私はあなたを心配してるのよ? 努力せずに甘えてばかりだといい仕事に就けないわよ?」
「うん」
お母さんは溜息を吐いた。
わたしは女の子の部屋に向かった。わたしは扉を開けた。
部屋に入ると嫌なにおいがした。きっと長いことお風呂に入ってない。
女の子はずっと横になってる。
「お風呂、入ろ?」
「……」
女の子は何も言わない。死んじゃったみたい。
「なにか言ってほしい」
「……」
「言ってくれないと何も分からないよ」
「……」
わたしは部屋を見回す。机には埃が積もってた。
「……死にたいって言った時、『死なないで』って言ったよね」
女の子がついに喋ってくれた。
「うん」
「よかったね。もう死ぬ気も起きないよ」
それならよかった。
「これが、あなたの望んだ結末なの? 生きることも死ぬことも出来ずただ死んだように生きてることが」
「死ぬのは、悲しい」
「そう」
「きっと、何かの病気なんだよ。いつかよくなるよ」
「……二度と来るな」
女の子はそう言って静かになった。
わたしは女の子の部屋を出る。
そしてわたしは扉を閉めた。