ヒーリング・ミュージカル
その日を境に、篠織の娘、由美香は笑わなくなった。
特に男性が怖いようで、それが篠織であっても目を合わせなくなり、それどころか部屋を出ることを拒むようになってしまった。
篠織は自分を責めた。……というのは嘘だ。演劇業界を憎んだ。
なんてものを娘に見せてくれたんだ。それもコメディーミュージカルだと謳っておきながら、これでは詐欺ではないか!
「本当に申し訳ない…… どう、責任を通ったらいいか……」
篠織は妻に謝った。
「了ちゃんは悪くないよ……でも、もう、演劇は無理だね……」
妻は寛容に篠織に言ってくれたが、それでも由美香はもう、元に戻らないかもしれない。
篠織は金輪際、ミュージカルなんて観に行かないと心に決めた……。
それから治癒は困難と思われた由美香も、だんだんと笑顔を取り戻していった。
それでも、街を歩いている時、電車に乗っている時にパニックに陥ることがあった。
学校には通えるようになったが、
例えば体育の先生や、ガタイのいかつい先生は由美香と極力接触を控えるように、最大限の注意を強いられた。
ありがたいことに先生たちも協力的で、篠織一家に気を使ってくれた。
……その存在を忘れかけていた頃に……エリーから連絡がきた。
「 dear篠織くん。
ヤッホー! 久しぶり! 血みどろ不謹慎女優のエリーです 笑
随分前になっちゃったけど、
警察沙汰に巻き込んじゃってメンゴ(古いって笑)!!
今回は、大丈夫!
血も出てこないし、コメディでもないです 笑
今回はヒーリングミュージカルに挑戦します!!
篠織くんを精一杯『癒す』から! 由美香ちゃんも連れて見にきてね!!
スコッチ座
「潤月からの一滴」
「喧騒を離れ、心がほどける夜へ。」自然の息吹に包まれ、満月が照らす奇跡の夜が始まる――。都会の疲れた心に届けるヒーリングミュージカル『潤月からの一滴』。魂の奥深くに響く音楽と、繊細な物語があなたを癒しの旅へと誘います。ストレス社会に生きるすべての人へ贈る、再生の物語。今宵、潤月の恵みがあなたの心を浄化し、新しい明日への一歩を灯します。人と自然が紡ぐやさしい調べに、体も心もゆだねてみませんか?誰もが求める癒しを、舞台からお届けします。ヒーリングミュージカル『潤月からの一滴』――今だけの特別な時間をあなたに。」
……篠織はためらった。
しかし、同時に葛藤もしていた。
もう演劇は観に行きたくない。でも、
輝いていた頃のエリーにもう一度会いたい。
エネルギーの強い、両方面からの潮流に挟まれ、篠織は苦悩の渦中にいた。
……今回の宣伝文句は信じていいのだろうか?
前の二回が、単なる『偶然のハズレ』で、
三度目の正直はあるのだろうか? それとも……エリーは変わってしまったのだろうか?
考えたくない想像だった。
篠織の瞼側には、豚を解体し、豚に犯されているエリーと、
劇団時代に輝いていたエリーの両方が確かにいる。
その二人のエリーの間で、篠織は苦悩していた。
……行っても、行かなくても、後悔するかもしれない。
こんな時どうすればいいのか。
篠織はなんだか、人生の分水嶺に立っているような気持ちになった。
その晩、篠織は、劇団時代の夢を見た。
そこには、笑いと拍手に包まれ、
貧乏と苦労が、達成感に昇華される瞬間が確かに残っていた……
あくる朝、篠織は、娘の由美香に勇気を出して聞いてみた。
「なあ、今度の土曜日、パパと出かけないかい?」
「え……」
由美香の顔は恐怖に満ちていた。
「大丈夫。もう、男の人は出てこないから。」
「ほんとう……?」
「うん。忘れられない思い出になるかもよ?」
篠織は、娘と二人で、ヒーリング・ミュージカル「濡月の一滴」を観劇することに決めた。