<11・あさげ。>
鼻腔がいい匂いをかぎ取った。ゆっくりと意識が浮上していくと同時に、お腹がくう、と小さく音を立てる。
隣の家で、誰か美味しいものでも作っているのだろうか。最初はそんなことを思った。しかし、何かを炒めるような油の撥ねる音が、妙に近い場所から聞こえてくるような気がする。そう、まるで自分の家のキッチンで誰かが料理でもしているような。それに、隣の家の料理の匂いとは、こんなに強く香ってくるものだっただろうか。
もっと言えば、何だかさっきから背中が痛い。布団から転がり落ちたっけ、なんて場違いなことを考えて、次に。
――そうだ、私!
やっと、記憶が繋がった。がばり、と慌てて体を起こすみら。自分は一人暮らしだ、朝起きた時に人がいるなどあり得ない――昨日のように、誰かを家に泊めるなんて珍事が起きなければ。
というか、此処に引っ越してきてから誰かを泊めさせたことなど初めてだった。このアパートの拠点は、あくまで目的を達成するためだけに存在するもので、いつでも引き払えるつもりでいたものだから。
「あ、おはよう!」
みらが起きたことに気づいたのだろう。キッチンにいた人物がこちらを振り返って言う。着る服もなかったので、昨日着ていたスーツのズボンにワイシャツのままだ。エプロンは、私が使っていた藍色のエプロンを拝借したらしい。少々丈が足りていない。足が長くて羨ましい――と、そういうことではなく。
「き、き、霧島さん!?なんで料理……」
「ごめんね。俺、大したものはできないんだけど、流石に迷惑かけた分のお礼くらいはしないといけないと思って」
言いながら霧島流はフライパンをゆすり、とん、と中身をひっくり返すような仕草をした。キャベツやピーマン、ニンジンといった色とりどりの野菜が宙を舞う。
「お節介かもしれないけれど……鳥海さん、このアパートで全然料理しない人でしょう?簡単な野菜と卵とウインナーとかはあったけど、お肉とかお魚の類はなかったし……。それにカップラーメンが大量に納戸の中にしまわれてたし。キッチンも綺麗だったしね。朝ごはんくらいなら用意できるかなって」
「た、た、確かに料理はしませんけど、でも」
「此処に引っ越してきたばっかりってかんじだよね。部屋全体がなんかがらんとしているかんじで。なんか趣味とかないの?」
何だか、完全に話をコントロールされている気がする。確かに、酔っぱらったからといって彼をしれっと家に連れ込んでしまったのは自分だ。そこに彼の同意はなかったし、ついでに色っぽい展開も微塵もなかったわけだが。
急に、恥ずかしくなってみらは寝癖のついた髪を掻き上げた。朝食をご馳走されそうになっている、というのも申し訳なさ爆発なのだが。同じだけ、部屋の要素や冷蔵庫の状況から、生活の様子を見抜かれたというのが非常に恥ずかしい。
そもそも、みらだって一応は料理しようという気持ちもあったのである。だからフライパンとかの調理道具はひとしきり買ったり、あるいは実家にあったものを譲ってもらって持ってきたのだ。
ところが、いざ一人暮らしになってみるとまあ、自分だけのために料理をするのが面倒くさい。元々家事はそんな得意なタイプでないし好きでもないから尚更だ。掃除だけはみっともないので定期的にやることにしてはいるが、油断して数日サボるとあっという間に大変な有様になってしまうのは否定できない。派手に散らからないのは、単純に物が少ないからとうだけだ。
趣味も、ないわけではなかった。
弟が死ぬまでは、ラノベや漫画をたくさん読んだし、ハマっていたアニメやドラマもあった。推している漫画のキャラクターも、ミュージカル俳優も、アイドルも。それなのに。
今、それらの殆どはみらの実家で埃をかぶっている状態。その殆どは、弟と一緒に楽しんだものだった。思い出が詰まっていすぎて、思い出すのが辛すぎて――ついうち多くの楽しみを封印してしまっていたのである。
そんなことより、弟のためにやれることをしなければ、と。復讐に囚われ、頭が真っ赤になっていたからというのも否定はしない。なんせこの二年間、みらを生かす原動力はまさに弟を追い詰めた連中への復讐心だけだったのだから。
「……ま、前は」
三十路手前の女性が、趣味も何もなく。かといってバリバリ同じ会社で働き続けてきたわけでもない、ただの派遣社員をやっている状態。ここで変なことを言うと、あらぬ勘繰りをされそうだ。
だから、誤魔化すために口にしたのは。
「前は、アニメとか結構好きで見てたんですけど、最近はその……東京の環境に慣れるのに必死で、それどころじゃなくなっちゃって」
本当は、実家は埼玉の南部。それも浦和なので、東京まで仕事のために通うのは簡単なことだった。なんせ、上の東京ライン一本で行ける距離。本来ならばみら一人で引っ越す必要もない距離に実家はあるのである。
が、それじゃ何でわざわざお金払ってまで一人暮らしをしたの?という疑問をうまく説明できる自信がない。よって勝手ながら、両親は田舎暮らしということにさせて貰った。みらの言葉にあまり訛りらしい訛りがないのもバレているだろうし、千葉とか神奈川とか埼玉北部くらいで設定するのが関の山だろうが。
「また、見たいとは思ってるんですけどね。その……卓球プリンス、とか」
なんとなく出したその名前は、弟が大好きだった少年漫画だった。プリンス、なんて名前がついているので乙女ゲームかと誤解されがちだが、これでもれっきな週刊少年誌に連載されていた漫画である。廃部寸前の卓球部に、生意気な美少年が入部してきて部員達を鍛え上げ、馬鹿にされていた卓球部を全国優勝まで導くといういわゆる成り上がり青春ストーリー。キャラの多くが美形でかつ距離感が近いので女子人気が爆発したが、少年漫画として見ても非常に王道の作品で、熱血スポ根ものとして完結した今でも根強い人気を誇っているのである。
さらに、続編も去年発表されて。まだみらは見ていないが、コミックスの売上がかなり良かったのではないだろうか。
「へえ、卓球プリンス好きなんだ!」
すると、意外にもそこに流が乗っかってきた。
「俺も好きだよ。特に、黒峰高校の桜井淳平が好きだなー。あのリーダーシップ、同じ男として憧れるよね。不良に虐げられていたチームを一人で立て直してさ」
「ず、随分コアな人物推してますね」
「そう?人気ランキングでも十二位だったし、特に男性人気だと五位だったから結構人気キャラだと思うんだけど。あ、でも女性人気は二十五位だったから微妙なのかなあ。男女で好みのキャラクターって違うもんね。あ、鳥海さん好きなヒロインいる?もしいるならちょっと言わないで。桃子派と、知美派と、葵派で三つ巴の戦いだから。そこで鳥海さんと争うのは悲しすぎる。推しが違ったら即戦争でしょ、あそこ」
「ぶふっ」
思わず吹き出してしまった。昨夜の泥酔していた様子が嘘のように口が軽やかに回ること回ること。二日酔いは全然しない、という羨ましいタイプであるらしい。
しかも、出てくる情報がめっちゃくちゃ通。男女別人気ランキングなんか、ファンブックにしか載っていない情報ではないか。その順位を正確に喋ることができるあたり、どれだけ卓球プリンス、通称卓プリが好きなのか窺い知れるというものである。
霧島流のイメージが、思いがけない方向に崩れた瞬間だった。彼の方が年下だが、それでも会社ではぴっちりスーツを着ててきぱきと仕事をしている印象にあったのである。ようは、普段はものすごーく硬派なビジネス書とか、読書をするとしても大人向けのミステリーやら純文学でも読んでいそうな印象だったのだ。
「……本当に好きなんですね、そういう少年漫画系」
「大人になっても、少年漫画ばっかり読んでるよ。少年ファイト系だと……そうだな、“コルト!”とか“イナズマファイター”とか“正邪の刃”とかそういうのかなあ。あ、めろん100%みたいなラブコメも時々読むかな」
意外な一面を見て、なんだか微笑ましい気持ちになってしまった。思っていた以上に、親しみやすい人物なのかもしれない。――思えば自分は、彼から弟の死の真相を聴きだすとか、そういうことばっかり考えていたように思う。実際、彼のことをよく知っているかと言えば、まったく知らないにも等しいな、と。
『俺のこと、好きだって言ってくれるのは嬉しいよ。でも……俺のこと、まだ鳥海さんは何も知らないよね?俺だって、まだ全然鳥海さんのことは知らない』
本当の恋は、お互いのことをよく知ってからするべき。
そんなあの日の彼の言葉が、今更になって刺さるような気がしている。勿論、今だって何もみらは、彼に対してそういう感情を抱いているつもりではないけれど――。
「顔、洗ってきなよ。あとこの野菜炒めだけ作ったら完成だから」
「あ、はい……すみません」
お茶の用意だけでもと思ったが、既にほうじ茶の茶葉を浸したポットが置かれている。お箸も出てるし、既にやることは何もないようだった。時刻を見れば八時過ぎ。ここは大人しく、遅れて起きてきた自分が悪いということで言う通りにすることにしよう。
顔を洗って、簡単に寝癖だけでも直して。それから、まともな私服に着替えてリビングに戻ると、丁度彼が料理を盛り付けているところだった。
野菜炒めに、目玉焼き、こんがり焼けたベーコン。そして、バターを塗ったトースト。
非常に簡単な朝食とはいえ、その手際は見事なものだった。普段からちゃんと料理をしている人間なのだと知る。
「えっと、ごめんなさい。ほんと、みんな作って貰っちゃって」
みらが恐縮しながら言えば、彼は笑って“こんなの迷惑のうちに入らないよ”と言った。
「むしろ、俺の方が申し訳ないと思ってるから。実は、昨日の途中から全然記憶がなくて。服の様子とかからして、君に酷いこととかは多分してない、と思うんだけど」
「そ、それは大丈夫です!霧島さんが酔いつぶれたので、ちょっとどうすればいいか困って家に連れてきちゃっただけなので!」
それに、万が一襲われても返り討ちにできるし、とは心の中だけで。
まあ、貴方の事が好きです!みたいな偽りの告白をしている身で、派手に拒んだらそれもそれで違和感があっただろうが。
「それでも、迷惑かけたことには変わりないから。せっかくの休日なのに、ごめんね」
彼はしっかりと頭を下げてきた。そして。
「大したことじゃないけど、お礼はさせてよ。朝食、食べてくれると嬉しいな」
「……そりゃ、勿論」
はっきり言って、お腹はすいている。確かに昨日は居酒屋で飲み食いしたが、お酒をちまちま飲みながら彼の愚痴を聞くのが精々だったので、ちゃんと腹に入れたのはヤキトリと汁物くらいだったのである。普段みらが食べる量を考えると、全然少ないと言っていい。
「ありがとうございます。……いただきます」
みらは席につくと、手を合わせて野菜炒めに箸をつけた。塩コショウでシンプルに味付けされたキャベツ。程よくしんなりしていて、口の中で弾けた。
――美味しいな。
じんわり、と。つい、胸の奥が熱くなるような感覚を覚えたのである。誰かと一緒に、人のぬくもりが通った料理を食べたのは――どれだけぶりだろうかと思いながら。




