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アナザーズ・レコード  作者: 紙葉衣
ショーケース・ショータイム
106/107

上がらない幕の裏

■■■■

 消毒液の臭いがする。


 体の中が熱い。熱い。熱い。火を呑んだかのようだった。

 悶える足が無意味に地面を蹴り、爪先が胸を掻き毟る。せり上げて来るものが堪え切れない。うつ伏せになって口を開ける。重力に従い、口からどぽどぽと零れ落ちたものは真っ紅だった。体の中と外から生臭い臭いが立ち上り、息が詰まる。喘ぐように肩で息をした。

 腕の力が抜け、吐き出した血を追うように身体ごと倒れ込む。ちらりと視界を上げれば無感情にこちらを見下ろすオーロラ色の瞳。その中に刻まれた幾何学的な刻印。

 血の臭いがする。消毒液の臭いがする。

 それ以上に、死の臭いがする。



■■■■



 身体がぐらぐらと揺れている。合わせて脳ミソもぐるぐると掻き回された。誰かが叫んでいるような気がするが、何を言っているか聞き取れない。ただ鼓膜を揺らした音が頭蓋の内側に反響する。頭が痛い。割れる。気持ち悪い。――死の臭いがする。

「――オーガッ!!!」

「ガッ、あ゛いっ!」

 耳元で自分の名前を呼ばれ、脳の一部が放電した。勢いよく体を跳ね起こす。瞬間、ぐるりと胃が揺れた。口元を手で押さえる。

「ぅ、――おぇ」

「うわっ。はい。ゴミ箱」

 わけもわからないまま目の前に差し出された箱に顔を突っ込む。せり上がってきた吐瀉物が不快な音を立てて落ちていった。

「おぉ。いやぁ、大変そうだなぁ」

 他人事100%の声が降ってきた。口元を手の甲で拭う。疲労感が体に圧し掛かり、ゴミ箱から顔を上げるのすら億劫だった。

「ファントム……」

 彼の名前を呼んだ声は、随分とゲッソリした物だった。

「はぁい」

 対面のファントムは不自然な程ニコニコしている。つっても見えるのは口元だけだ。サングラスで隠された目元はどんな表情をしているか読み取れない。

「はい。タオルと水」

「……どうも」

 差し出されたペットボトルを受け取ろうと手を伸ばす。手が細かく震えていることに気が付いた。

 爪の痕が付く程強く強く掌を握り、大きく息を吐く。震えが止まってから恐る恐る手を開いた。

 ニコニコ笑顔を続けているのファントムからペットボトルを受け取る。中身の半分を使って口の中を濯ぎ、再度差し出されたゴミ箱に向けて吐き出した。

 残りの半分で喉を潤し、口元や手をタオルで拭う。その間にファントムはゴミ箱内のビニール袋の口を縛っていた。

 そのファントムをまじまじと見る。

「………」

「お?何?」

「いや……」

 咎められ、視線を逸らす。

 普段とは違うファントムの甲斐甲斐しさに怖気が走る。何か嫌なことが起こっている予感があった。

「何処だ此処」

「空いた客席。いやぁ今医務室が使えなくってさぁ」

「は……。何……?

 頭を押さえ、呻くオレに答えながら、ファントムが机にあった高級そうな椅子を引っ張り出して腰かけた。肘掛に両肘を乗せ、指を組む。オレに向かって身を乗り出した。

「オーガ君記憶はぁ?」

「あ?……なん、いや、多分、混濁、してる――?」

「頭は?」

「――痛い」

「おっ、そうか!」

 ファントムが両掌を打ち合わせた。クラッカーの様に乾いた音が爆ぜ、肩が跳ねる。

 ファントムは質問に答える気はあるようだが、能動的に状況を説明するつもりは無いっぽい。何があったか、自分で思い出すしかない。目元を掌で覆い、ズキズキと痛む頭の中を攫った。

 ――確か閃鬼に“実験室”について聞きに行って――、なんか彼女に胸倉を掴まれたような――。紅色の光が瞬いて――。ダメだ。それからの記憶が紅に塗りつぶされている。

 急に襲われた叫び出しそうな衝動に、口元を手で押さえた。慌てて巡らせていた思考を止める。気が付いたら荒くなっていた呼吸を深め、半ば強引に落ち着かせた。水に漬かってふやけた様な思考に酸素を送る。

 ――いや、待て。おかしい。意識を失う経験が無いわけじゃない。なんなら他人に比べて遥かに多い方だろう。それなのに、いつもなら真っ先に確認していたことを、まだ訊いていない。

 弾かれるようにファントムに顔を向ける。ファントムはオレの勢いに気落とされる様子は無く、形だけ首を傾げた。 

「オイ!今、何時だ!?」

「3日目のオークションが始まって、1時間くらい経ったかな」

「あぁ……。――そうかよ。じゃあ閃鬼の落札まで後4時間ってとこか」

 オークションは問題なく開始されたらしい。閃鬼が何か企んでいたような気がしたが――オレの思い過ごしだったか。

 強張っていた体からドッ、と力が抜ける。肩透かしを食らった気分だった。

 背を丸め、両腕で頭を抱えた。両膝を胸にまで引き寄せる。

 まさか閃鬼がトンズラこくことを期待していたわけじゃないだろう。”黄金饗ミダス・ガーデン”の警備は厳重で、世界中の悪党共が犇めいている。そもそもここは上空10,000m。雲の上だ。空でも飛べなきゃ逃げることなんてできはしない。

 つか、ここで逃げられたら俺が困る。オレとしては閃鬼が倒れた方が都合が良い。

 そうだ。そうだな。”黄金饗ミダス・ガーデン”は恙なく終わらなければならない。

 そうでなければ――。

 

 ――あぁ。死の臭いがする。

 ぱたぱたとサイドテーブルの上に手を這わせる。指に当たったソフトケースを掴み、一本抜き出した。

 火を点けて、深々と紫煙を吸い込む。タールの臭いに顔を顰めた。

「うんにゃ、閃鬼落札まであと20分ってとこだな!」

「はっ!?ぐっ、ゴホッ」

 驚愕に呼吸が乱れる。煙が肺に逆流した。気管が燻され、煙が目に沁みる。

「ゴホッ!ンッ!な、なんで!?」

「客が居なくなっちゃったからさぁ。閃鬼が大暴れしたせいで。8割減ってとこだ。だから医務室は埋まってるし、この客席を使ってた奴はもう居ないんだよ。いやぁ、大したもんだね。ありゃ人型の災害だな。比率は少なかったとはいえ、異在道具オーパーツ持ちのみならず、ハイカラーの異在者イグジストだって居たのにさ。僕も結構手こずっちまった」

 ほら、と言いながらファントムがワイシャツの裾を捲った。露出された腹にはドス黒い痣が出来ていて、絶句する。痣は閃鬼の拳と同じくらいのサイズだった。

 ファントムがケラケラ笑っていられる意味がわからない。オレよりよっぽどベッドで寝ているべきだった。こんな力で殴られたら、内臓の1つや2つ、破裂してなきゃおかしいだろ。

 ごくりと喉を上下させ、漸く声を絞り出した。

「お前が――閃鬼を止めたのか?」

「そ。改めて檻の中にぶち込んだ。今ならまだ会えるぜ。気になるなら行ってみれば?」

 サングラスの奥、見たことが無いファントムの瞳は、今までずっと笑っていた気がした。

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