第三十四話 三人の活躍(3)
「えっ。ごめん私、例えばの思い付きで言っただけだよ?この部屋にハンモックなんて見当たらないし……」
「このベッドの糸がその残骸なんすよ!部屋の天井に鉄柱が渡してありますよね、この糸を担架みたいに組んで鉄柱の間に渡したんですよ。そうする事で疑似的なハンモックを作り出したんす。糸は緩ませておいてこのベッドのシーツの下に通して、まず気絶させた俳優さんをベッドに寝転がらせたんです。その後、シーツの両端を片側の鉄柱から引っ張るんす。そうすると滑車の要領で俳優さんが引き揚がる。その間に、弛んでる糸を巻き直して骨組みを用意してからシーツを展開して簡易的なハンモックを作り上げた……」
「ちょっと待ってよ。確かにこんな大量の糸と大きな布があれば、巨大なハンモックを作れるかもしれない。けどさ、そこからどうやって首吊りにするの?解体にも凄い手間が掛かるんじゃない?」
「解体する必要は無いんすよ、この糸は手品用のナイロン製っす。かなり滑りが良い、こういう感じで結ばずに、重ね合わせて仮留めの状態にしておけば……」
説明しながら、新米警官は糸を手に取ると、椅子に乗って鉄柱に巻き付ける。コイルの様にぐるぐると巻いてから、今度は上下に交差させるように逆巻きして、短く残った方の端を下へと垂らした。軽く巻いただけなので、糸は全体的に弛んでいる。
「配達員さん、こっちの長い方から、あの垂れ下がった糸が巻き取れるまで思いっ切り引っ張ってみて下さい」
「思いっ切りですか?」
「そうっす、出来るだけ素早く」
「分かりました。やってみます」
ボクは滑らないように糸を手にくるくると絡ませ、ぐいと引っ張ってみる。
「あれっ?」
新米警官が簡単に巻いて弛んでいた糸は同じく簡単に巻き取れるかと思いきや、ピンと張り詰めた。軽く巻き付けただけのはずの糸が、まるでしっかり結ばれているかのように動かない。もう一度体重を込めて引き直すが、鉄柱を介して垂れ下がった糸の先端は、掛けた力に反してゆっくりとしか巻き取られていかなかった。
「そのまま。もう少しっす」
指示通り力を込め続けると暫くして、徐々に抵抗が減っていく感触があった。そうしてスルスルと動き始めたかと思えば、途端に糸はその速度を早めた。
「わわっ!」
さっきまでの抵抗が嘘のようにすんなりと糸は鉄柱から解け、ボクは勢い余ってバランスを崩す。写真家が驚きながらも手助けしてくれたお陰で、格好悪く転ぶのは免れた。
ボクの体を支えながら、写真家が不思議そうに尋ねる。
「これって一体、どういう事?」
「単純っすよ。糸を上下に交差する形で巻き付けて、配達員さんには上に重なってる方の糸を引いてもらったんす。下の糸は、巻き取られる時に上の糸に掛かった負荷の分、締め付けが増すんで力を込めれば込めるほど抵抗が強くなっていくんすよ。逆に軽く引っ張れば簡単に巻き取れちゃうんすけどね」
「勢いの分だけ抵抗が増す……シートベルトみたいな感じですか」
「シートベルトはギア使ってるんで原理は全然違うっすけど、イメージ的にはそうっすね。さっき見た通り、この仕組みは終盤一気に抵抗がなくなって解けるんですが、負荷を掛ける部分に巻き付けた糸の長さだけ、解けるまでの時間は長くなるっす。つまり糸を引っ張る力が一定ならその時間を調整出来るって事っす。恐らく黒幕は俳優さんを無力化した後、この巻き付け方を流用したハンモックを作って俳優さんをそこに寝かせることで錘として利用し、体重分の負荷で時間通りに糸が解けるようにしたんだと思うっす。ハンモックの高さなら、寝転んだ俳優さんの首にロープを掛けておいても弛んだ状態のまま待機させられるっす」
「じゃあ椅子が倒れたのはどうして?」
「椅子をロープの真下に設置してたんだと思うっす。糸が解けたら、俳優さんの身体は首に掛かったロープだけに支えられて空中へと投げ出される事になるんすけど、仮に身体の投げ出される軌道に椅子が置かれていたとすれば、ちょうど背持たれを蹴飛ばすことになるっす。椅子は自然に倒れて首吊りで蹴飛ばした状況と見分けが付かなくなったんすよ」
「なるほど、自殺の偽装か……」
「恐ろしい事に、きっとこの椅子が使われた理由はそれだけじゃないんす。投げ出される俳優さんの移動を見積もると、かなりスイングされて壁の方まで到達するはずなんすよ。その状態の揺れ幅も結構大きくて、勢い良く漕いだブランコくらいには振れ幅が残るっす。慣性モーメントって言うんすけど……でも突入した時、吊られた俳優さんは比較的静かに揺れてたじゃないっすか、辻褄が合わないっすよね。きっと黒幕は、吊られた身体が大きく揺れた状態で見つかるのは不自然だと気付いたんす。この椅子はかなりの重量っすから、蹴飛ばすことで慣性の勢いが相殺されて揺れ幅を減らす目的があったんだと思うっす。背もたれの革張りもぶつかる身体にアザを作らない為のクッションとして機能したと考えると、余りに計算高いというか……完璧な計画っすね」
「そっか。足の方に打撲痕とか残ってないのはおかしいなって思ったけど、そういうところまでケアされてたんだね……だとしたら、あんな目立つ右腕のアザが残ってるのは何かのミス?」
「これは自分のシミュレーションなんすけど、シーツが最後まで俳優さんと糸の間に挟まれるのは腰の辺りまでで、そこから上の部分は直接糸が肌に当たる箇所が生まれるんすよね。シーツを固定出来ない都合上、途中で下にずり落ちるんすよ。そこに関しては切り捨てるしかなかったんじゃないっすかね」
「ハンモックを使えば首吊りの状況まで再現出来ることは分かりました。しかし糸の張り方だけで、糸とシーツを的確にベッドの上へ落とすのは可能なんでしょうか?」
「問題はそれなんすよ……それに関してだけは、どう考えても運頼みにしか思えないんすよね。シーツが覆い被さるのは自由落下になるはずなんで、計算通りってのは難しいというか、不可能なんすよ。一応、糸の巡らせ方によってある程度は挙動を操作できそうっすけど……」
新米警官は首を捻る。その説明を聞くと同時に、ボクの中を謎の不安が駆け巡った。
一〇五号室での凶行。ただの偽装に思えた椅子を倒させる行為一つを取っても、常人ではありえない程に深く、狡猾な思考が張り巡らされている。
一方でシーツの動きや糸の隠し方は比較的杜撰で、その過程も偶発的なものに頼っているようだ。糸は見つかる前提だから適当で良い、という判断だろうか?これだけ手の掛かる事をやっておいて、最後の始末だけを運に任せるというのは脚本家の件にも共通している様に思えた。脚本家は病院で息を引き取った。つまり確実に息の根を止めようとする意思は無かったと言える。単なる効率的な取捨選択の結果かも知れないが、その相反する二つの事象が犯人像を揺るがせた。
完璧主義に見えて適当主義、恣意的に見えて論理的、猟奇性を感じずにはいられないが理性に満ちている……人に二面性があるのは当然だ。しかしこうも極端にその特性が浮かび上がるのはどういう訳なのだろうか?事前に立てられていた計画が俳優の遺した書き置きによって歪んでから、黒幕は台本に無い役割を現在進行形でアドリブでこなしている。その事実もまた相反しているように思えた。それぞれのパートを別の人間が担当していると考えた方がまだ納得出来るだろう。或いは黒幕は、その全ての要素を思考し尽くし得るとんでもない頭脳の持ち主だとでもいうのか……
ボクが黒幕だと目星をつけた人物には、疑うべき根拠となる様々な事象が浮かんでいた。しかし、一連の計算高い犯行を計画した人物がそれらを考慮しなかったとは到底思えない。そう考えると、反撃の為に集めていた証拠達が全部、その人を疑って下さいとわざとらしく用意された罠のように思えてくる。黒幕の目の届かぬ場所で積み上げた推理も、未だ誰かの計画の一部として包括されたまま……そんな恐ろしい想像が浮かび、靄の中から抜け出せない。
ボクが悩んでいる間にも、二人の議論は進んでいた。新米警官はメモ帳を見せながら説明を続けている。
「……つまり、この糸の巡らせ方なら俳優さんの脚を重点的に支える事ができて、尚且つ糸の大半がベッドの上に留まるんす。解ける際には俳優さんの上半身に若干糸が残るっすけど、その糸は俳優さんの体重を支え切れずに解けていく。その解けていく過程の痕跡が右上腕部の痣と考えるのが妥当っすね……ただこの方法にも一つ問題があって、どこか一点はギリギリまで糸が固定されてた筈なんすよ。でなきゃ途中で張力が釣り合わなくなって、シーツが糸を持っていっちゃうんすよね」
「うーん、張力とか言われても難しいなぁ」
「要は俳優さんがハンモックから投げ出された後に、糸の固定が外れないと順番がおかしくなるんすよ。俳優さんに時間通りに首を吊らせる為には頭の高さを維持して、足の方の糸から解けていかないとダメなんすけど、糸が固定されてないとハンモックは全体の負荷を両側から逃がそうとするんで、半分の時間でハンモックが必要高度を下回るっす。そうなると俳優さんはハンモックに寝転がった状態で首が締まって死んじゃうんすよ」
「なるほどねぇ、分かったような分からないような……配達員くん、どう?さっきから黙ってるけど」
「へっ?あぁ……えっと時間差で解放される固定箇所ですよね。糸の片方が輪っかになってましたから、それが引っ掛けられそうな場所を探せばいいのでは?」
「まぁ、突き詰めればそういう事っすね」
「あぁ、それなら分かるよ。簡単じゃん!」
写真家は意気揚々と糸を手に取る。
「ちょっと、その椅子倒してもらっても良い?」
「あ、了解っす」
新米警官は丁寧に椅子を横に倒す。慎重な動きから、その椅子がしっかりとした重さである事がわかる。写真家は横向きになった椅子の脚に糸の輪を持っていく。するとその輪は脚部の接地面、丸い形状にぴったりと嵌った。
「椅子が移動するのは、俳優さんが吊られた後だよね?」
「写真家さん凄いっす……この椅子の重さならシーツに釣り合うし、条件を全部満たしてるっすよ!」
「やった!じゃこの問題も解決だね」
「不定形の円周まで記憶してたんですね、流石……」
「いや、それは流石に私にも難しいよ。ただ俳優さんが吊られた後にこの部屋で動いたものを考えたら椅子とドアと小型のコピー機しか思い当たらなかったから、総当たりで試そうとして一発目で当たっちゃった」
「な、なるほど……それにしてもナイスです」
「あとは俳優さんを無力化した方法っすけど、部屋には特に目ぼしい物が無かったっすね」
「そのことなんですが、この部屋に予め睡眠薬が用意されていた可能性は低いんじゃないかと思います。犯人は俳優さんを眠らせる前に大量の原稿を書かせる必要があったわけで、俳優さんが必要な原稿を書き終わる前に何かの拍子で睡眠薬を摂取しちゃって、眠られたら計画が進められなくなりますから」
「じゃあ、原稿を書かせた後に眠らせたんだね。けどそんな都合良いタイミングで睡眠薬だけ使えるかなぁ……俳優さん相手だとドラマみたいにハンカチで無理矢理吸わせるとかは絶対無理だよね」
「あの書き置きを書いている時点で、そのとき訪ねてくる人物の事を黒幕として危険視していた筈っすよ。部屋の中で警戒状態の俳優さんを確実に眠らせる方法……これは本格的に睡眠ガスが使われた可能性あるんじゃないっすかね」
「或いは、ボクらは俳優さんの事件が総てこの部屋の中で完結していると思い込んでいましたが、もしかしたら彼は原稿を書き終わった後に一度、部屋から出ているのかもしれません」