試合開始
その日は雑然とした空気が漂い、王家御用達の闘技場は落ち着きのなさを醸し出している。辺りには領地の民たちが集まり始めている。領民にとって、領主たる宇軒の部下がいかに強く頼りになる者たちなのか重要なのだろう。観衆の中には他領の領民も混じっており、試合の様子によってはこちらの領地に越してくることもあると言う。
清蘭は短剣の柄に手を這わせ、深呼吸をする。道素の力の扱いも、体術も数ヶ月で身につけただけの所詮は付け焼き刃だ。どこまで通用するか分からないが、領民を落胆させない程度には勝ち抜けなければならない。昨日から鼓動が早く、緊張が解けない。待機場所である弾幕の裏で冷えた指先に吐息を吹きかける。
「清蘭、緊張しているのか?」
浩宇は腕を組みながらこちらへ歩いてくる。
浩宇は宇軒の直属の部下であり、試合は領民にも見られるためか、服装がいつもより品があり豪華なものだ。浩宇が歩く度に金の装飾が揺れる。
「はい、昨日はあまり眠れませんでした」
清蘭が素直に答えると、浩宇は少しだけ驚いたような表情を浮かべた。
「お前が素直に話すのは珍しい。今日はそこまで緊張しているのか。確かに今日は大切な試合であり、お前の兵としての立ち位置が決まる日でもあるだろう。だが、あまりに緊張をして体が固まり戦えないのでは意味がないぞ」
「戦えないほどではないので、ご安心ください」
清蘭は試合に緊張はしているものの、窮奇討伐に比べれば大したことはないと思っている。兵たちは強者揃いだろうが、窮奇ほど悪辣で死を連想させるほどの者はいないだろう。この試合の前に窮奇討伐を経験したことは幸いだったかもしれない。
「そうか。それは安心した。今日は思う存分、成果を発揮するといい」
浩宇は手を振ると、貴族の待機場所へと戻って行った。
試合は領主である宇軒の挨拶と、貴族の娘たちの舞から始まる。闘技場では色鮮やかな布がひらひらと舞い、娘たちをより妖艶に見せている。
試合は予選と本戦があり、清蘭が順調に勝ち進むと仮定すると予選では5回、本戦では3回の戦いが待っている。そのうち、道素持ちの貴族たちは本戦からの参加のため、予選で戦うことはない。対戦表を改めて確かめる。初戦の相手は梓豪の所に所属している兵だ。清蘭は顔を顰めたくなるのをなんとか堪えると、初戦は何としてでも勝つことを心に誓う。
一般兵から清蘭への当たりは相変わらず強い。その中でも梓豪の所に所属している者たちは酷かった。訓練のために走っていれば上から水をかけられたり、わざと足を引っ掛けられ転ばされたりと意地の悪いことをされていた。きっと清蘭が梓豪に稽古をつけてもらっていることが気に入らないのだろう。だからと言って、やっていいことと悪いことはあると思うが、どうやらその分別のつかない者が多いらしい。普段あまり感情をあらわにしない自分でも、沸々と怒りの感情が湧いてくる。そう言った事情もあり、負けるわけにはいかないのだ。
侍女に名前を呼ばれる。試合の番が来たようだ。清蘭は短剣を握ると、闘技場の中心へと足を進める。
闘技場の周囲には四方八方に観客として領民がずらりと並んでいる。目の前には対戦相手である一般兵がニヤニヤと笑っている。
「清蘭とか言ったな。道素の力を持っているくせにゴミみたいに弱いよな。大衆の前で大負けする前に辞退したらどうだ」
清蘭は言葉を返さず、黙って拱手すると短剣を抜く。
「ハハハ。体術もまともに使えなかったお前が、俺に勝てるとでも。大怪我をしても知らないぞ」
審判が試合開始の合図をする。その瞬間、清蘭は道素の力を足に集め、凄まじい勢いで相手との距離を詰め蹴りを繰り出す。試合はそこまでだった。一瞬にして相手が場外へ吹き飛ぶ。
観客は何が起こったのか理解ができていないようで、辺りに沈黙が広がる。その後、すぐに拍手の嵐となった。
清蘭もまさかここまで一瞬にして方がつくとは思ってもいなかった。戸惑いながら促されるまま弾幕へと戻ると、そこには梓豪が来ていた。
「自分でも何が起こっているか分からないという顔をしているな」
「はい、何が起こっているのか全くわかりません」
梓豪はクツクツと喉の奥で笑うと、清蘭の頭にポンと手を置いた。
「お前の扱う道素の属性は風。身体能力の強化と殺傷性の高い属性だ。磨けば普通の一般兵であれば一瞬で殺すことも簡単にできてしまうものだ。俺と浩宇はそれができるようこの数ヶ月、軽く教えただけだ。まあ、試合を勝ち進むごとに、今みたいに簡単に相手を倒すことはできなくなるだろうが、それでもお前をそれができる程度には鍛えたつもりだ」
闘技場から歓声が沸く。おそらくどこかで誰かが勝ったのだろう。
「このまま勝ち進んで、本戦に来い。そうすれば俺のところの兵たいちもお前を認めるだろう」
それだけ言うと梓豪は踵を返し、貴族の待機場へと戻って行く。
所詮付け焼き刃の技術でも本戦に勝ち上がることができるのだろうか。それでも、梓豪と浩宇がまさかここまでできるように稽古をつけてくれているとは考えもしなかった。清蘭は深く頭を下げた。