前夜
燃え盛る炎の中、2人の女性と1人の少女が走っていた。1人の女性は髪を一つ結びにまとめ、浅葱色の唐服を身に纏い、少女と手を繋いでいる。親子だろうか。もう一人の女性は髪を団子結びにまとめ、薄紅色の唐服を身に纏っていた。3人は黄金の装飾具を身につけており、高貴な身分だということが分かる。
薄紅色の唐服の女性は自身の少し後ろを走る浅葱色の唐服の女性へ声をかける。
「蘭玲、私は左に行きます。あなたは清蘭を連れて右へ逃げなさい」
蘭玲と呼ばれた浅葱色の唐服の女性は大きく目を見開いた。
「珠蘭姉さま、何をおっしゃいますか!我ら趙家の長子であるあなたが敵地のある方へにげるなど!」
趙家はこの村を治める一族であり、長女が代々家を継ぐことになっている。今、その村は火の手があがり、壊滅寸前であった。
「蘭玲、あなたには清蘭がいる。その子は今、村にとって最大の希望。子のない私よりも蘭玲、あなたがなんとしても生きるべきよ。そして次の世代を守るのです」
3人が走っている間も、あちこちで断末魔が聞こえる。背後ではかつて暮らした神殿が、左右には町民が生活していた家が炎に飲み込まれて崩れていく。
「……しかし、家を継ぐのは珠蘭姉さまと決まっております。ここで掟を破るわけにはまいりません。珠蘭姉さまが清蘭を連れて逃げてください。そうすれば万事うまくいきます。清蘭もいいわね!」
清蘭と呼ばれた少女は泣くことをなんとか堪えた表情で珠蘭と手を繋ぐ。4〜5歳くらいだろうか、清蘭はその見た目でありながら賢いようで、この先、母が危険なことをするのをわかっていながらも村の掟を守るために、黙って珠蘭と共に走り始める。
「蘭玲!あなたは清蘭の前でなんでことを言うのですか。子のこは賢い子。母が自ら危険なことをすることを黙認せよなど、この年の子に言うことではありません。清蘭にはまだ母が必要な年齢です。あなたが連れて行くのです。こんな時までも掟を気にすることなどないのです!」
珠蘭は熱気を含んだ空気を口いっぱいに吸い込むと、「清蘭、あなたは母と手を繋ぐべきです」と声を張った。しかし、清蘭は涙を堪えながらも珠蘭から手を離さず、むしろぎゅっと手を強く握った。
赤黒く炭になった柱が倒れ、珠蘭と清蘭、蘭玲の3人を分つ。運命は定まった。
「蘭玲!ああ、なんてこと!このままでは清蘭は母なき子になってしまいます!」
蘭玲は笑っていた。蘭玲の進む道の先にはこの村を焼いた張本人たちが趙一族を捕らえんと待ち構えている。奴らは趙一族が一点に逃げてくるように1箇所、村の入り口を焼かないでいたのだ。
「姉さま、今までありがとうございました。それから、清蘭をよろしくお願いします」
深々とお辞儀をする蘭玲、それが珠蘭の見た蘭玲の最後の姿だった。
「……清蘭、なんとしても逃げましょう。こうなってしまった以上、もう引き返すことはできません。あなたのことは私が何があろうとも守り抜きます」
珠蘭は震える両手で清蘭を抱きしめると、少女の手を引いて走り出した。
その日、先見の趙家と呼ばれた者たちの住まう集落は焼け落ちた。国内でも重責に着いていた一族なだけに貴族たちの間では震撼が走った。誰もが口々に「あの趙家が……」と。
業火は朝まで消えることはなく、村人のほとんどが亡くなったという。趙家を捕らえようとしていた者たちにとっては大きな誤算だったようだ。
珠蘭と清蘭が無事生き延びたかについて詳しく知るものは誰もいない。